第2話 嵐を旱魃に変える者
先生は私へ身の潔斎を言い下すや直ぐにウィンチェスター家へ渡りをつけたようで、早朝ながら寄宿舎の門前へ無遠慮に停められた手俥は住民たる私達を当惑させるに然る闖入者であった。訪う声に眉を寄せる。舎監に断って門扉を僅か押し開け、垣間見た。目の合った声の主が笑った。
「やあ、ルマさん。ご病気は全体どうしたかね」
「タイさんこそ風眼じゃなくて。ご覧よ。七里潔敗にしてお呼びでないわ」
「ええ近頃に無体な舟だ、島もなければ大時化だ。君を連れないのでは僕が大目玉を食うじゃないか」
「目出ても貶しても行かなくてよ。引っ越し女房なんて御免だわ」
頭が痛む。ただでさえ理屈の通らぬ現象で辛苦悩乱の上、昨晩から要らぬ遠慮と過分な配慮で肺腑が鮨詰めなのだ。かてて加えて学院を離されるならばいよいよ胆汁の一桶も吐こう。前世にこんなことはなかった。
椒図を引いた。止まった。挟まった脚絆に麻裏草鞋、俥を引いて山越えするに窄袴と洋靴では大きに往生したものと見える。体を反らしてぐゥと引く。ぴくぴくと爪先が赤く膨れる。退け。退かん。その間も頻りとうち眺めらるを目映く思ほえて、なお目を放たぬ俥夫を屹と睨んだ。
「水臭いじゃないか。どうしたい」
「え、可厭だわ、そんな。戸籍調よ」
鼻梁が隙間へひた寄せられる。朝凪に知らず頸脚が熱い。
「何が可厭なものか。一日二日を空けて晴れるなら僕も虫干ししょうがね、いつか髪が強くて網掛けばかり結ると言っておいて、それは何だい」
二〇三高地である。
「そらまたそんな貌をする。僕は君の良人だぜ、何もないなら言って聞かしたっていいじゃないか。真実病気なのかい。それとも心配でもあるのかい」
「それは」
言えない。四三歳で死んだと思ったら一五歳に戻っていたなど、かの将軍と癲狂院で軒を並べるような愚にもつかぬことは迚も言えない。しかし言えないと、言えないでいると、
『●天モバアアアアアアアアアアアイル!』
うるさいなあ!
『日本のスマホ代は』
終われ終われ終われ終われ。
『高過ぎる!』
終われ終われ終われ終われ。
『事実、八二・九パーセントもの人が下げてほしいと思ってる! そこで、●天モバイルUN-LIMIT 2.0なら月二九八〇円! 安っ! しかも全国どこでもデータと通話使い放題! 何と最初の一年間は無料! 太っ腹あっ! どーせ複雑な条件あんでしょ? って思うよね? ないの! なのにいつやめても解約料なし! 凄おっ! しかもあのポイント(チャリーン も貯まる! 今日からあなたも●天モバアアアアアアアアアアアイル!』
終われ終われ終われ終われ終わ、終わった? あっ、スキップ表示が
『●天モバアアアアアアアアアアアイル! 日本のスマホ代は高過ぎる!』
あああああああああああああ。
「ルマさん。ルマさん」
慣れた顔が眉を顰めている。こてんと転んでしまいたくなる。よもや仏罰でもあるまいが、言おうか言うまいか躊躇う度にいたく倦ませてくる、この趣向は獄吏の呵責にしても奇想が過ぎる。
「ええ、ルマさん。こういきなり鬱ぐには、君はきっと病気だ。平素青い頭に血を流したから脳を悪くしたのだよ。もう堪忍ならない。乗り給え」
「いいわ」
「ばかに唯々としたな。よし行こう。それからお医者を呼ぼう。荷は次だ」
轅棒を握って俥を引き出したその背からは懐かしい匂いがした。