第18話 原音忠実再生▶ダイヤの原石
一昨日の私はつい魔が差してこの天幕に足を運んだ。そして偶然タイに出食わし、咄嗟に外出の口実をここでの奉仕活動だと騙った。ならば先約した今日の行先もここが良かろうと、学院で落ち合って赴くことになった。気不味くて早朝に発った。約束の時間になるや否や私は見つかった。検査簿の署名欄は一昨日も今日も彼が埋めた。二人揃って日暮れまで湿布を作ったり化膿を処置したりしていたので署名を彼に頼むのは不可避であった。
で、破裂た。
当たり前だ。一昨日の外出者はラブの名義である。血縁のない院生二人の保証人が同じであるものか。口裏を合わせておいたので黙秘を貫いた。案の定院長からの赦しが下ってラブと私は部屋を出された。但しその理由の目測は見誤っていた。世によくある通り、この学院も院長は先生ではない。帝国軍人である。帝国主義者である。そういうことだった。お蔭でそれから丸一ヶ月を私は学院とあの天幕との往復で費やした。タイの入学がなければいつまででも通うように強いられただろう。講究中に自身の脈拍を計っている己へ気付いた時はもう駄目だとすら思えた。ある面では軟禁されていたままの方が楽だったか。そんなことをタイに書き送った。普段より少し遅く普通人よりはずっと早い返信が届く。君の自業自得だ。あなに聞きよくも生れませるかな。くしゃ。虚仮にしているのか。皺を伸ばす。岩石においてその資源なるものを鉱石、鉱石において殊に優れたものを宝石と呼ぶ。宝石の条件は美しいこと、希なことだけではない。宝飾品であるから、多くは硬度も求められる条件になる。基準は水晶、云々、読み飛ばす。これしきで磨り減るようでは宝石にはなれない。くしゃくしゃ。皺を伸ばす。拾い読む。僕は君といると脈拍が上がる。脈拍の遅い動物ほど長生きするそうだから、たぶん早死にをするのだろう。くれぐれも君は僕に先立たぬこと。文末。君は天然石。くしゃくしゃぐしゃぐしゃぐしゃぽい。色を着けてくれ、手心に。
今日も蜘蛛の巣を毟る。床に就く。晴れ上がった細い夜空を傍らに、障子に星。夕蜘蛛は。そっと起きて指を伸ばす。ぷちり。潰した。
学院に無二の上級先生なるゴーシュ・ウィステリア先生は本を糺せば姫御前の私宅教授だ。件の地震いでもなければその提琴の腕を知る院生もなかったろう。尤も与うべくは能う者のみ、如何な女問学の徒にもやすからぬは金力、例えるなら彼は自転車乗りだ。高価なある品の扱いを自家薬籠中と修めて得意だが、無関係であるから厚く遇されるを嫉くもならない。漏れ聞こえるのを除けば演奏をまともに聴いたのは前世でも一度きりで、けれど、儕輩は一心に彼を慕っていた。金力があるためだ。購買力の重金主義、購売力の重商主義、非道奨むる自由主義、衆愚の社会主義、夢想の共産主義。並べて消費の徳に打たるべくやは。
その日は次の皇霊祭まであと一週間と迫った月曜日のことだった。私は平素になく漫ろであった。適宋為公妃式の院生に於いて建前の真偽はどうあれ私は定めし摽有梅である。黙認されてきた御侠な行いを咎められる頃合いであった。が、いざ我が身に書信の一つも音信も絶えると、すわお家の亡びが早まったか、御妻の一人も娶ったかと杞憂した。今有原一五箇、逐増五分之二、問極数幾何、壺中賢人以為、云々。帳面の以太周期表へ茫と目を落とす間に講究は済み、たった一人遅れた己に気が付いて、浮ついた頭を重たく揺らして廊下に出た。忘れていた。ゴーシュ先生が立っている。彼の受け持ちは姫御前と他数名だ。私との接点はまだ、私からはない。忘れていた。何故忘れていた。思い出した。今日だ。
今世何度目かの謹慎と相成った。




