第17話 モーレツからビューティフルへ
婚約者の言でも旗日に私用で外出するのは憚られる。しかしまだ大人もどこか安閑としていて私を咎める声は多くなかった。トリマキーズ姉妹が国威発揚に云々と廊下で塞いだくらいだ。教育勅語を暗唱して国歌を歌い、部屋に国旗を飾ったと伝えるとすごすご引いたが。前世で四十路まで生きた甲斐があった。あれ、今世が新暦で一五、六だから足すとほぼ還暦、い、いやいや。前世は数えないだろう普通は。うん。門扉を抜ける寸前、リリアだかレオナだか、片割れが私の袖を引いた。どうしてご存知だったのですか。何が。文部大臣令をです。
「今、先生方が国旗を配っていますわ。今日から祝祭日にはこれを飾りなさいと。いつルマさんのお耳に入ったのですか。以前仰っていた、来月始めに戦争が始まるというのも真実なのですか」
確かにうっかり口を滑らせた。覚えていたのか。えーとえーと。
「は、はい。実はそのぅ、夢で見たのですわ」
「予知夢。れっ、霊能力ですのねっ。ルマさんが成績優秀なのはそのためなのですねっ」
この時代はとかく霊能力が流行ったものだ。しかしこうころっと信じられると何だか背徳い。ちなみに勉学は地力である。期待の眼差しを背に浴びながら門を潜る。ただでさえタイに会う時間を先延ばしにしょうと朝一番に出ているのだ、先の心労は心配するだけ損をする。手を叩いて乗り込み、一昨日と同じく私は停車場を目指す。一昨日に男を漁れなかった理由がそこにある。貌を引き締めた。情動厳に慎むべし。胸元から白粉紙の匂い。
病人とは何たる存在か。病人へ如何に行為するか。患者は人間であって動物ではないと弁えているか。看護婦教育のいろはとして知られる三課だ。看護婦は昇降機や雑役兵に非ず、恋に破れた貴婦人や救貧院の下働きが浮かれて携わるものに非ず、青汞丸薬を服ませて代えるに非ず。看護とはある思想理念であり、その実現への責任ある熱意や使命感なくして看護は学べない。畢竟、看護と経済的援助とは両輪であって、例えば、飛び入りでお嬢様が無償奉仕に当たるのは片輪だと言える。
「はいそっち押さえて、そう、はい破片抜きます。包帯。ん、よし。はい。貴女は彼をお連れして消毒と洗浄。はい次」
無論建前である。
「女中の皆様はお水を汲んで来て下され。ルマ様、交代しましょう」
「有難う存じます。あの、止血や包交なら左も右、縫合は些か」
「ああ、交代するのは私じゃのうて、慰問袋作りの子とです」
大本営は既に駐留部隊を派兵しており、前世の記憶通りならば宣戦布告前のこの時点で既に現地は戦闘状態にあった。諸外国と異なり帝国軍は傷病兵の治療を兵站軍医部より寧ろ民間の奉仕団体が担う、言わば国家総力戦の軍だ。それは私が死んだ未来でも同じことで、その頃の婦女たるには誰でも私程度のことが出来た。停車場前の御用銀行の一角にこの予備病院出張所の天幕はある。来れば役立てることは分かっていた。衛生博覧会で見知ったと、白色わせりんの使い方を教えたのは私だ。今は未婚の淑女であることを失念した言い訳だったが、それでもその管理を忌避、もとい一任されるくらいには信用されたし、治療には大いに役立った。役立ちたくなかった。無償奉仕だから私の金力を何ら支持しない。やって来る男は既婚者ばかりだ。連中の痛々しい傷痕の一つ一つは前世での家族を想起させた。来たくなかった。
「ならどうして来たのです」
一人ごちる。分からない。男を探すために学院を脱けたのに。彼の顔がちらつく。私。どうして。来た。
「ルマ様。ルマ様。ご覧遊ばせ、ルマ様の良い人がいらしていますわ。おしどり夫婦ですのね」
指先が狂って秤り分けた清心丹をばらばらと元の時計皿に零した。横で同じく慰問袋に込める半紙を切り分けていた婦人が小さく石女と吐き捨てた。まだまだ不美人が看護婦に選ばれていた時代である。私のような若い女がここにいるのは不妊を暗示していた。なればこそ伴侶が通ってくる私はより一層に目立つ。何故タイとの関係が知られているかと言えば、
「おしどりなんて、そんな。あの人は精々が鶏ですわ」
「君が金卵を産み僕が晨を作るなら似合いの夫婦で間違いないだろう」
「私まで鶏扱いしないで下さる」
「ほほほ、二日ぶりの夫婦漫談を有難う存じます」
「漫談じゃない」
声が揃った。頭にくる。そも、一昨日といい、私の居場所を知るのが早過ぎる。よもやこの男は私を四六時中尾け回しているのではあるまいか。
「この前とは白粉の色が違うな。矢張りルマさんには薄化粧も似合うね」
「あら、穴が開いてしまいます」
むかしから穴が空くのは男が心よ、僕は君一筋だが。貌を覗き込む姿勢のまま彼は笑った。女中らがにまにまとこちらを見ている。慙愧かしや。




