第16話 Kを曝いて/亭主元気で留守がいい
帰ってから恐ろしくなって出入りの郵便夫に葉書を渡した。近在の局を経由するので到着に一両日はかかると踏んでいた。果たして返信は翌朝に届いた。変態だ。紛うことなき変態だ。而も葉書でなく巻き封である。何しに斯く書き連ねよと解けばばばばばばばばば解け解け解け解け解け解解解解解けけけけ解解解けばばばばばばばばばば解け解けけけけけ解解解解解解解解解
「ぴぃっ」
い、き、おっ、息を。思い出す。指を箸にして引き寄せる。これでもか、これでもか、と文字がびっちり書き込まれている。目を落とす。潰れて読めない字はない。書字法の乱れもない。不自然な文字の並びもない。普通だ。量以外は。掴んでいた指を緩めて取り除ける。豈に介推の恨みを懐かんや、とある。ううむ、宜なるかな。この天羽衣は夜具ならぬ歯形で敷くもなし、然るにより敵よとは定めかねたるぞや。尤も、前世でもタイは潔癖のきらいがあった。戯作の主人公のように一途なのだ。故に足繁く学院に乗り込んできたのだし。と、今世では一度だって彼が学院に踏み入っていないことを思う。何故だ。偶然か。偶然だ。私はまだ何も成していない。とまれ、婚約破棄を先々に企むからには、他の男と会ったと伝えることも利に働くと見込んだのだ。敵対するならそれも良し、しがみ付くならそれもまた良しと。よも然あらじ。何気なく裏返す。面の彼の住所が府内になっている。長月からの通学の便のためだろう。成程ねえ。一拍子遅れて、ぶわ、と髪が膨れる。しまった。これで出入検査簿の署名が許嫁でないままならばあらぬ噂が立つ。い、いや探られるだけの非のある煙ではあるが。三手目にして早くも黒の大模様戦略が萌しつつある。折角頑張ってあんな鉛筆用の小刀で偽造印章作ったのに、ぱあだ。ぽんぽん痛い。
余程暇なのかタイは書簡を出したその日の昼に学院まで来て私を呼び、危険なことをするなと叱るかと思いきや次の予定を尋ねて、月末三〇日の旗日を押さえるや満足気に颯爽と帰っていった。開戦は月初。安息日、約束の旗日、一・六の日がその直前に入る。今日と明日は出歩く体力が足りない。どう押しても院外で見初める契機は明後日の半日だけだ。私の顔と八〇〇〇圓との価値に釣り合う金力を如何に求めるか、未だに私は解を持たない。
学院周縁を南北で断ち割った西側には行ける所がない。北東は、線路の此方では劣弱を覚え、沿線上は件の下町で独身には次こそ危うい。南東の此方はタイと行ったばかりで敷居が高く、彼方は海しかない。よって次の行先は北東の彼方が妥当である。最後の半日の朝、私は俥夫に目的地を告げる。停車場まで。仕方なかった。努力家とは成果主義者の別称である。
降り立った。二度目の景色だ。一度目が呆ける儘に過ぎたので目に映る全てのことが広告に思える。誰かに教えたいなどと、ちらとも掠めればたちまちに広告が現れるだろう。前世で家族が誰も家を顧みなかったのは、彼の私への好意が特甚に優れていると胡坐をかいたためで、ならばここで時間を空費蚕食する暇はない。歩場から流れる煙に眇めた視程で大時計がかちりと時を刻む。金力が望めるのは矢張り外国人だろう。麦酒樽の股に顔を埋めれば価値を量れるのなら、洋妾の誹りを受けようと躊躇う理由はない。躊躇うな。烟い。
「う、っ、こほっ」
一吹の汽笛もないものか。見れば歩場は空である。火元は明らかだった。無思慮にふらふらと誘われた。生涯最大の過ちであった。




