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第15話 間夫とアイスとナンデアル(トホホホーッ

 間夫(いろ)はイバラと名乗った。悪童で知られ、夷隅(いすみ)の激化事件では花火を立てたのだ、きついもんかと、そんなことを言う。此方が一人と見るや早々(わらわら)と群っては啜るように行礼するので手近な一人の手を取って、しかしその際に買っておくんなさいなどと口を滑らすこともなかったのは幸いであった。

 北東の招魂社方面では馬車に乗った本物のご令嬢方と見合いになる。南東の停車場は敷居が高いし、更に南下して参詣するにもあそこは前世で檀家であった。そろそろ宣戦布告があるから南の催場は危うく、南西から西にかけては御料地で、北西から北までは学校ばかりである。消去法で、学院から宮殿を臨んで丁度裏側に当たる東の下町から、線路沿いに北へ上ったところにある動物園までの弧だけが行き先となる。ならば初日は旅籠町だと俥に乗って、適当に停まったところがこれだ。ぞろ何やら尋ねてくる。身供も幸いに御座りますると恥辱(はぢ)含羞(はにか)んで見せる。イバラは得意気な鼻息もお座成りな始末に先立った。袖の裏で胸中にべっかんこうをした。

 女は全て文盲(もんもう)なるを好しとす。女の才あるは(おおい)に害を為す。決して学問などは要らぬものにて、仮名本読むほどならばそれにて事足る可し。私が死んだ前世での二度目の役後には婦女にも体育が奨励されていたが、この一度目の前夜なる時季において、特に貴婦人に知育・徳育・体育は以ての外であった。賢母良妻を掲げているのも建前のこと、真に母なるを求めるは後のことであって、万龍はだし、小町も閉口、然あればほほほとうち笑んで担ぐばかりがこの時代は(せん)である。歯を見せよ。ああ白いな。仇だァな。あら可厭だ、おッ母さんだって鉄漿(かね)なんかせぬものを。不意に鳥肌が立って顔を伏せる。明日には大暑を迎えるというのに。

「如何被成(なされ)た、のう、ルマさん。竹のつっぱりじゃあないか」

 イバラはさぞ欲しがる貌をしているだろう。

「竹のつっぱりは呉竹(くれたけ)()、暮れたての夜に音通じて、然らば夕暮れのことかえ。苔生せる朽木なる私へ、頼みて逢いても時経る偽りに、その色としもなかりけるかは、()は大寺の餓鬼の(しりへ)(ぬか)づくが如くは、如何(いかん)()

「え、あ」

 雲もなく凪たる心かしらんと頬笑む。良心の呵責に丹田が荒れる。

「あっ、ああ、そうだ。秋霧もなし、晴れを致すことで御座る」

「左様なら。お元気で」

 そうして別れた。

 署名はドラクニー叔父ではなくミヅホ・ウィンチェスターに求めた。唐人窟の甘い匂いがした。すんなりと門を潜って学院に戻り、ラブの帳面から理科の、析出の項を書き写す。私の取る帳面よりずっと綺麗だった。翌日はラブの代わりに私が学院へ残り、更に一日空けて、私はまた外出した。進路は北東である。焦っていた。戦時体制になれば官憲の目は厳しくなる。捕まるのは二度と御免だ。婚約破棄は()(かく)、今月中に唾を付けないと男(ひでり)であるからして、掃海前とて隙と機雷を窺うに()くはなしと。

 理科大の横の角を折れるとひどい人だかりで、俥夫の勧めで東照宮から東叡山に逸れた。年輩なるに戦禍でこの一帯が焼けていた頃を知っていると言う。あれはどう、あれはこう、と指差して説明するその尻に、あの時は焼けててねえ、と落ちるのが可笑しい。煮込み田楽の醤油の香りが一帯に充満していた。支払いを済ませて見遣る袖に次々とお声がかかる。折角なので虎の檻でも覗こうかと人待ち貌にすり抜ける。令嬢は産まれて死ぬまで殆ど出歩かない。故に白い膚は美の象徴であった。ならば裏表に、出歩いているならば肌恋う者と見做すは一体妥当である。が。ぎゅっと目を閉じる。まともな男は斯くも稀なるか。

「こりゃ、やい、畜生。わりゃ()の、ああ、あ、散れ、散れい」

 いきなり肩をぐいと寄せられる。良う耐えたと猫撫で声。息が臭い。

「主ある花ぞ、(よう)も、尋常に敵手(あひて)になろうぞ、これが目にかからぬかッ」

 竹下駄の割れたのでばかんばかんと次々に辺りを襲う。ものの数える暇もなく周りから他人は吹き散らされた。それで、今日はこれでいいか、となった。少なくとも力を振るってまで私に帰ってくるのは確かだ。危ないからと左手を取られてびくりとする。まただ。ぷつぷつと肌が粟立つ。どうして求められているのに忌避感が湧く。だらだらと冷や汗が流れる。払いを持たせる気にはなれず、休みたいとも言い出せず、ブックランドと名乗ったその男と一息に動物園まで歩き、当然そこで別れもせず、而も彼は横の出物が気になると言い出した。八幡不知(やぶしらず)かと問えば物を知らぬ女だと嬉し気に言う。あれは曲馬団(サーカス)だ。小鬼や二口女の飼われている小屋だ。同じことである。

この男、暗がりで何をする気だ。

「お待ち遊ばしまして」

 ざあ、とブックランドの貌から一挙に血の気が引いた。

 矢飛白に海老茶の行燈袴、左の手首で()(ざやか)にきらと輝くは、()(わらび)を二筋寄せて蝶の宿れる形したる黄金(きん)の腕環。奥から現れる束髪の面差しは黄金に類して目覚ましき美形。貝の如き前歯がくつくつと震えるも艶なり。服装(みなり)容儀(かたち)娘とも妻とも見えず、では色街の者かと見れば否、言辞(ものごし)一つ取っても然に非ず。最前お約束申し上げました日時ですから。お引払い為さっておいでで御座いましたので。保証。工面。吁と内心膝を打つ。債鬼(アイス)だ。

「大家さんに話して(しま)ったのですけれど」

 生家から絞る気らしい。女は私に名刺を押し付けると、手の出る男は誰でも殴りますわと何故か羨ましそうな声音で言い残し、男の後を猛追していった。ぽかんとした。助けられたのだ。名刺にはケメト・アキュート=カラカスと上手いのか疑わしい花文字で印刷されていた。きっと二度と会うことはないだろうと地面に捨てた。遠巻きにしていた男達が拾いに駆けてきた。

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