第13話 そして、時間は止まらない
大食堂に着いたのは私達の一団が最後だった。姫御前を置き捨てたら世間体が悪い。ああ良かったあ。その彼女が背後で言う。今日は院長はいないのねえ。ああまったく、と誰もが胸中に呟く。畳敷きの上に大きな卓袱台を幾つも据え、上座に当たる右奥の一角に折敷が積み上がり、座布団に院生らがいつもの並びで正座して小声で談笑している。建前ではどこに座ろうと自由なのだが、学制の混乱が続いているために学級位が頻りと変動し、而もこの場で最も地位の高いこの子がいつも下座側の同じ席に座るので、人望や成績といった地位の睨み合いから席次が固定化されているのである。だが、昨日のように院長がいるとこうはいかない。院長は右奥の一番端を占め、この子はその隣に連れ去られる。すると明確な上座が定まるから、そこら中で眉の上げ下げが行われることになる。それでいて院長の礼法は小笠原流であるから嚔一つ許されない。学院の学生数は約一八〇、これだけの人数を管理する苦労は量れなくもないが、日頃先生方が院生に丸投げしているだけの道理を、それこそ箸の先ばかりは解してもよかろうと思う。
最後の一人が席に就く。それを合図に、上座から音もなく一人、また一人と立っては折敷を一枚取り上げて上座の奥へ行く。女給がいないので厨房に赴いて自ら取り上げる形式なのだ。他所では全員で分担するところもあるそうだが、ここは毎日六人の当番が担当する。尤も、朝昼は米と味噌汁と香の物を二枚だけ、夜は夕鰺なぞを足して一汁一菜にするのみなので、料ると言ってもやることは米を炊いて水を沸かすくらいのものである。ちなみに厨房と同じ方角に大浴場もある。そちらも当番制で人数は毎日六名だ。この季節の学院の鬼門は巽だと言われる由縁である。
姫御前はすっかりと青褪めていた。富士額にりぼんを編み込んで結い流した繊手細腰は十人が十人にて認むる誉草なる明晰な御落胤だ。寒いよお、などと口を開かぬなら。愚な。どうなすったのですかと律儀に訊くのはラブである。彼女はさる地方唯一の豪農の一人娘で、政治の季節を逃れて上ってきただけなので下座組なのだ。立場では決して比肩しない姫御前が肩身狭そうに答える。濡れちゃってえ。それは見れば分かるんだよこの隠花植物。
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スキップ。
「どうして濡れたのですか」
なんでだと思うぅ。尋ね返される。う、鬱陶しい。この時点だと知らないのが道理だ。だがそれで言うのを控えたらまた広告が出る。今までの傾向から考えるに連続で広告を出すとスキップが遠くなり易い、気がする。しかし適当に外れた予想を言うには材料がない。いきなり当てるしか、ない。裏手の天水桶に落ち込んだのではありませんか。どうしてえ。
「学院内で水があるのは煮炊きの出来る巽と、垣を挟んで天水桶に隣接している乾くらいのものでしてよ。ところで姫御前、どうして左手の親指と人差し指が濡れずに残っているのですか。そこだけ油に濡れたようですわ。それに、昨日は縁側で壺を眺めていましたね。あれはまるで風に流れる煙を見ているようでしたわ」
「ほほほ、へえぇ、ならあ、滝を流れ落ちた水が濁るのはどれだけの高さからなのかご存知い」
「存じませぬ。貴女はそれを計りたくてあの径の管を用いたのざますね」
やり過ぎた。ラブの眼差しに頬を焦がされながら、垢と閼加がどうの対流項の線形がこうのと立て板に水でべらべらと、けりが見えない。何を食ったかも定かではない。どうせ茄子の味噌汁に茄子の浅漬けだろう、最近はずっとそうなのだ。胃もたれしている気がする。
「憚りさまですが」
母のアキュラシー姓ならば家格はそれなりだが、私の姓はウィンチェスター、一代で奏任官になった父でなければそこらの乞食姓と同格である。私が応えるのが最も無難だと、振り返れば心悩ましたお声が二つある。貌色はどちらも闇で見えない。下げたいのだけど宜しいかしら。申し上げようも御座いません。室内の人影はここばかり、既に半ば夜が忍び込んでいる。ようやっと己の過失に気付いたようで姫御前はせかせかと、しかし優かに箸を動かした。三人連れ立って厨房で器を洗う。重ねて頭を下げると揃って逃げ帰った。厨房の壁越しに大浴場の声が黄色く耳に残った。




