第11話 バラ色の人生とは《どんな》音か
都に誰を思い出づらむ。さやさやとして耳の髪を指先で払う。
戸袋に今朝は姿のなかった小蜘蛛が体長に数千倍化した手を広げて揺れている。夕蜘蛛は殺せと言う。何の気なしに毟ろうと手を伸ばす。銀糸が揺れる。風が見える。やがて滅びるものの表徴、やがて亡びるものの表情、喜色満面、躊躇う。影の鳶に片手を添えて、白鳥、嘴で突いた。項がさっと冷たく、眼輪を緊張させる。風邪に相違ない。
小豆と薄茶の味がする。ひいひいと彼が笑う姿は日新に問学する一身も露わに淫らである。旋毛をすぺんと叩くと彼は目を丸めて笑い止んだ。ひくっ、と吃逆を始めた。余程吃驚したものと見える。蜘蛛がついていたのと西の空に白々と言う。いい加減に道行きの人々から彼を見られるのが所在ない。まったく、どうも我が家の者は貌に遠慮の意がない。立派に笑ったのは最年長の息子だけだった。出航の日は来ないでくれと我が家で別れた、あの出征の日もタイはいなかった。ひくっ。ひくっ。くすくすくす。似ている。親子だから当然である。
「何が面白いのです」
子曰、不患人之不己知、患己不知人也。
「ルマさんが僕と話してくれている。こんなにひくっ、嬉しいことはない」
「さんざ家の者と同じいに過ごして、遅きに失するのじゃなくて」
「およそ世界に夫婦親子より親しきはない。これを天下のひくっ、至親と言う。ではこの至親の間を取り持つのは何だと思う」
唯和して真率なる丹心あるのみ。學問のすゝめだ。嚇と癪を噴いた。
はたと気付けば人前で男を面罵した己がいる。外面の穢された彼は危うい。されど決然と棄てるにはまだ早い。ここで勇んで婚約破棄まで膝を進めれば七去を娶る愚もなし、そうして婚期さえ逃したなら三つありて殊に大なる不孝である。纏わる糸を毟ろうと伸ばして、指先が躊躇う。棄てたいからまだ棄てないでほしいなどと宣るものかは。浜千鳥。広告は流れない。
タイはぎゅっと瞑目して、へにゃと笑った。なかったことになった。一散に謝る気も失せた。
それが、四時間ばかり前のことである。
どうして私は怒ったのだ。現状では親しきに過ぎるからだ。功績は時の風化に耐えない。家は家でなくなりやがて烏有に帰す。心を離すためにああして話した。何も、間違ってはいない。私はアタャ・ホライゾンの許嫁だ。夫婦として添うたのも史実だ。彼が好いてもない私との交遊を乞うのは当たり前だ。彼も、正しい。ならば何故。事実とは諸事態の成立である。神は死んだ。あるのはただ無数の解釈だけである。いずれ塵になるからと拗ねることは、私は。私は拗ねているのか、何に。私は。美は亡び母は逝き父は燃え家が焼け帰れない帰らない滝の音は絶えて久しくなりぬれど、
笑い貌。
不愉快さに眉を顰めつつ網へと突き入れた指で姿を掬い取る。掌から縁框に落とすと小蜘蛛は慌てて屋内まで駆けていき、行方が知れない。殺せなかった。なるべく音の立たぬように雨戸を鎖した。見えないのだから追って殺すのは諦めるより他ない。
ねぶたしと思ひて臥したるに、蚊の細聲に名のりて、顔のもとに飛びありく。羽風さへ身のほどにあるこそ、いと憎けれ。




