第10話 I'm a champion.
タイは私に傘を返さずなおも従く。恥耻を忍んで隣に寄り添えば、君が前にいないと蔭を作れないと肩を掴まれ返される。湯気と煙で烟い南を指して歩く。はたとその理由を思い出し指す方を線路の横臥する西に変えた。不自然だったろうか。それでも彼は何も言わない。これだから、ぎゅっと目を閉じて、いずれ人々しくなれば貌と共に情さえ失くし帰らなくなるのも理無いことだが、まるでそうでもなければ私を堪え難いような、あの振る舞いをするから。さっと見遣れば彼は鼻面を背ける。はてな、ずいと寄る。逃げる。それで、そうか。ようやっと、冷たく腑に落ちた。
彼は私を別段に好いていないのだ。
前世は許嫁だから添うたまで。そうか。そうだ。珍瓏を嫌がって、斧が朽ちるまで俥を後押しして、成程追い落とした。再び同じ身ともならじを、盤外へ。傍目八目に省みる。彼の二眼はいつ死んだ。私が進学した時だ。入婿になればタイの姓は彼のホライゾン姓から私のウィンチェスター姓になる。ホライゾンの家系は絶える、それでも、私さえ進学せず家に入ったならウィンチェスターの家系は学生のうちから彼のものになる。きっと彼の栄達にも繋がった、それを私の手が潰した。さぞ。
絵日傘は私の手に握られていた。お高祖頭巾を乗せた俥と引まわし姿の老爺とが一時に行き交う瀟洒な鉄道駅舎前で、目脂で半目に塞がれた子らに群がられつつ外商から何物か買い求めている彼を、私は少しく離れた傍から何ともなく眺めていた。通俗衛生講話の会場が近いので一層に騒々しい。言いたいことがなくとも言葉の種は常に脳裡へ埋まっているものと考えていたけれど。ぼんやりする横合いから冥加のために御座ると声がかかる。白襯衣からむっくり伸びるまだ新しい断髪にひぴはぱ帽を乗せた若旦那風の男である。天児のようだ。
「あら、勿体なくあります」
「事を有仰るな。春の霞が天降るには大層に暦み狂いぞ、吾は誤魔化せぬ。のう、昔は物も思はざりけり、よ、のう。七両二分に揚げるなら、可い、ああ小さな手じゃ、如何や」
「唐衣を脱ぎ棄つに形なしですわ」
途端男の顔が大きく膨れ、えッと思いざま襟に指がかかる。ぴたぴたと指が這う。ああ、ああ、美人じゃ。憂愁だの。動けない。
「何をしている」
「脱ぎ棄てむ形なきものでしてよ」
ふうと彼が呆れる。気を付け給えよ。菜ばかりだわ。左様で。
とまれと鷹の目が男を見据える。
「これは僕の妹だ。一体、ルマさんは玄人じゃない。待合でも当たり給え」
「そんなら貴方は姉か、御母堂か。ほお、陰惨な眼差しじゃないか、母なしかえ。糝粉の鼠か当物絵でも買い遣ろうか」
彼がぐいと私に何か押し付ける。蛤面桶を圧し縮めたような金属の缶だ。開けると減圧濾過の目皿に乗せる五〇号濾紙のようなものが詰まっていた。無鉛白粉の白粉紙だとぴんと来た。彼はぼそぼそ男と何事か言い交していたが、やがて決裂したのか早足に私の肩を抱いてそのまま立ち去ろうとした。慌てて歩調を合わせる耳が大きな手で覆われる。藝に立勝る標致好は、虚栄心が強く高慢で、さては美色は淫婦の相、とは修身の教科書にだってあるだろう。くぐもった声をそれでも背中は聞いていた。ぽつぽつと薪が落ちている。転ばないように歩く。
彼は今日の誘いを一度断られる腹積もりであったそうだ。貝殻形の搗栗最中をまた一口齧り取る。書き詰めの藻塩草を厭みては思わぬ方へたなびくがルマ・ウィンチェスターの常であるから、あの学院の塀が内にあればこそ心弱くも浦寂しく為す能えんぞと、須磨の塩焼衣が如くに心ぶれて焚いたらしい。ところが邂逅なるにも私は日取りを延ばさなかった。勿論、前世の記憶があればこそである。そのために、彼曰く斑がいなくも、歌舞伎座の新作がかかるより前の今日この日の行先はまさに風任せに極まった。嘉定頂戴一六文の幟がはためく。最後の一片をぽいと放って呑み、薄茶を啜り首を捩る。ねえ。ずいと最中が唇に触れた。ずい。ずずい。白々と睨めてから前歯で小さく一口削る。タイは喜色満面で一口に残りを含むとばりばりと噛んだ。芥川である。
「ねえ些と。つまり何、私は燻り出されたの。あら、よしや、この最中は遊興費なのかしらん」
咳込む傍らで煙草盆をかんと叩くと、タイは口の端に漏れる煙を彼方へ逃がそうとそっぽを向いた。懐の手拭を頬かむりにして猫招きに科を作る。目貌に問うのであやしき姿よと答えた。不洒落やんな、猫を被って。そう目ェ剥いたら一猫去ってまた一猫だわ。とうとう彼はくの字に折れた。目尻には涙さえ浮いていた。
更に南下して母方の叔父であるドラクニーの家に寄り、一筆貰って私は学院へ帰った。燃えるような金髪とすれ違い、ぱっと踵を返して彼は私の肩に手をかける。ゴーシュ先生はまだ拙いこの国の言葉で、気色が悪いが大丈夫か、と乙つ甲つに尋ねた。常ながら碧眼が爛々としていた。しかし珍しいことには舎監さえどこか私へ気遣わしげであった。提出した検査簿へ碌々目も落とさぬは中々である。色の白いは七猫隠す、と森閑とした廊下で科を作ってみる。やめた。遣戸を抜けて帯を解き、肌を拭って中型を着込む。宮殿から朧に届く瓦斯の光で室内は青白く、四隅を蟠る暗がりは夜を縁取ることを知らない。りいん。りいん。外で虫が鳴いている。腰高障子を開けると壺なる前栽を背にした濡縁に一冊、今朝読めずに置き残した新刊であった。




