第1話 "チョコレート"は明治
歳の離れた兄と仰いだ男との血縁がないと知らされたのは私が元服の儀を済ませた一三歳の夜のことだ。我が家でただ独り陰鬱な容貌の彼はいつからか両親どころか近在の木っ端をさえ遣うことに脅え、夏が過ぎるなりいそいそと霜朽た長身痩躯を厚い襲ねで鎧っては澄ましていた。
産褥熱で実母を殺したこの野郎は四年前に流行り病で実父をも喪い、二年前に偶々破れ家へ立ち寄った私の父によって餓死寸前のところを拾われた。どうも私の父はこの親子を親分筋に母を嫁がせたのだそうで、その恩義から生前より目を盗んで何度か通っていたらしい。爾来あの下種は書生の身分を伏せ、私ただ一人産んでからなお子に恵まれぬ我が家の家督名代として日夜勉学に励んだ。母の持参金だけで六〇〇〇圓からあった資産を父は増やしていたくらいなのだから、後継ぎになれるなら誰でも一族郎党皆殺しくらいやってのけただろう。あれは一番乗りだっただけである。
矢っ張りね、と思った。あの父が蓄妾をしょうとは考え難かったのも勿論だが、何より、数え四〇目前で依然輝くばかりに美しかった当時の母と、負けず劣らず整った顔立ちの父と、既に引きも切らず秘密裡に縁談のあったらしい私と、ただ独り見るからに凡夫なあれではどうでも露見しただろう。口さがない同窓など当初から噂していたのだ。しかし誰一人あれを貶めるつもりで口の端に上せてはいなかった。寧ろあれが振り向くなら誰であれ身を委ねるも吝かでなかったに違いない。何事にも秀でた弱冠一九の継嗣の、唯一の弱所は容貌、殊にその眼色である。そう擽っていたに過ぎなかった。
無論私もあれの甲斐性を憎からず買っていた。世間一般の兄妹を私は知らない。知らないが、互いへ払う敬意もまたきっと世間一般程度にはあった理だ。それに両親の極めたことへ逆らおうなど、当時の世相で冒すには踏み切れなかった。後年に整形手術だけは強いて施させたが忠孝に背いたのはそのくらいだ。それから三年してあの書生は継嗣かつ言名号の地位を確立し、更に三年後、私達は婚礼を挙げた。私の顔を見る度ぎゅっと瞼を閉じては目を開く習慣を内心罵りつつ、盃を乾し、枕を並べ、身を退いた両親から譲られた住み慣れた一つ屋根の下で食卓を囲み、砂糖餅と女子は腫れるものでやがて子を育み、吸って吐いて食って糞して寝て起きて、二〇年ばかり経った。
五〇前であれは急死した。過労の祟った心不全であった。
伯男は隣国での戦争で夭折していた。長女は嫁いで名を棄て、緘黙症の次男はあれ宛で不定期に変な模様の造花の束を寄越すばかりで消息不明、三男だけはおっとり刀で駆け付けたが賭博で首が回らなくなっていた。母を早くに喪い老いの弥増す父では文字通りの時代遅れ、家業はみるみる坂を転げ落ち、遂には屋敷を引き払った。残る財産は売屋の対価ばかり。九尺二間に腰を落ち着けて私は惨めな余生の腹を括った。その晩のことだ。父があの屋敷に火を放って悶え死んだと聞いたのは。
放火は重罪である。共犯の疑いのかかった息子を捜査のため長屋に軟禁したことで親子共々蓄えが盡き、不起訴になって相続放棄を済ませるや残り僅かな家財を抱えて息子も蒸発、毟る尻の毛もない私は凍傷で三つ指になって川辺で膝を嗅いで過ごした。雨が降ったら襤褸を脱ぎ、夜になったら歩き詰め、犬を蹴ってはその骨を齧る。空腹からか眠気は遠く、齢を数えて無理に眠ると昔を思い出した。あの無能に庇を貸した愚かさで悔しくて泣き叫び、通報に駆け付けた官憲からもしもしおいこらと殴られて目を醒まして、そんな日々をかれこれ一週間は過ごしただろうか。身体が動かない。
頬に当たる石の硬さを覚える。呼吸の度にぎいぎいと関節が呻いて、それでいて自由にならない。雲一つない空から陽光が高く降り注ぐ。せせらぎと羽虫の音が涙で滲んで流れていく。虚しい。悔しい。あいつが憎い。私は幸せになれた理だったのに。今もまだ望まれて生きられた理だったのに。寒い。自由に愛されて助けてもらえる産まれ、なのに一つの自由もなく死んでいく。嫉ましい。妬ましい。どうして私がこんな目に。寒い。さむい。
快晴が褪せた。
生木が上下にぶちぶちと裂ける。ふ、と静まりどォんと響く。揺れる。天井吊りの石油灯がぎっぎっと危なげに鳴る。儕輩の誰も糸竹に長けておられるから侍坐を中座するなど在り得べくもないのだけれど、漫ろな指が空を爪弾くのを先生もお咎めにはならない。袖を寄せる。前栽の古木はあんなにも立派であったのに、形見ならまし、勿体ないことだ。件の姫御前の学舎もこれで損壊したばかりにこちらへ籍を寄せて向こう二年を過ごしたのである。
どうして二年後のことまで知っている。
さかさまにとしもゆかなむとりもあへすすくるよはひやともにかへると。
ルマ様。先生が青褪めて仰る。ルマ様、大層青褪めてないかえ。
あべこべに意想外な呼ばいでらっしゃることよ。素早く目を走らせる。引き攣れた眼差し。眉を寄せて袖を下ろした。はたはたと鼻血が膝を汚した。はたはたはた。はたはたはたはた。卒倒した。