第9話
なぜ彼女が私の部屋の鍵を持っていたのかは分かりません。
ですが、スマホ画面に映っている人物は間違いなく、深夜に私の部屋にやってきたあの隣人でした。その時の記憶は恐怖とともに私の頭の中にはっきりと刻み込まれていたので、間違えようがありません。
私の部屋に、あの不気味な女がいる。
私はスマホ画面に映し出された光景が信じられなくて、いや、信じたくなくて、頭は混乱して、まるでヒューズが飛んでしまったかのように完全に思考は停止してしまっていました。そしてまるでホラー映画のワンシーンを見るかのように、スマホ画面に映る女の様子をただ黙って見つめていました。
部屋の電灯を点けた女は、そのまま迷うことなく私の机に歩み寄り、机の上に置かれていたパソコンのキーボード、マウス、そして置き時計を乱暴な手つきで脇に寄せ、机の上に覆いかぶさるように何かの作業を始めました。だけど女の体が邪魔して、女が机の上で何をしているのかは見えませんでした。
作業を終えたのか、女は机の上から身体を起こしました。そして辺りの様子を観察するかのように、頭を左右に動かし部屋の様子を見ていました。その時、女の顔が一瞬カメラに映りました。私はその顔を見て、背筋に氷を放り込まれたような寒気を感じました。女は自分の行為に満足するような、それでいてこれから起きるであろう悲劇を想像し、その自分の頭の中の想像に恍惚とするかのような残忍な笑みをその口元に浮かべていたのです。私はぞっとしながら、スマホ画面に映し出されたその女の顔を見つめていました。
そのとき私は、女が左手に何かを持っていることに気づきました。
茶色くて太い柄のようなものに、銀色に光る細長い棒状のものが付いています。女はその柄の部分を逆手にして握っていました。私は似たようなものを最近見たことがあることを思い出しました。私は大学に通う合間、居酒屋でバイトとして働いているのですが、その際に似たようなものを氷に添えて客に提供していました。そうです。アイスピックです。ですがそのときは、なぜ女がそのような物を持っているのかまでは分かりませんでした。
女の顔が突然、ある一点で止まりました。
何かをじっと見つめていました。
その視線の先には、クローゼットの扉がありました。女はそのクローゼットの扉に近づき、扉を開けてしばらくその中を見ていました。私は服にあまり興味のある人間ではなく、必要最低限の服しか持っていません。中は空きスペースもあり、がらがらでした。女はその中の空間を見繕うようにクローゼットの中に視線を巡らし、そして自分の中で何かの決断を下したのか、扉を開けたまま、クローゼットの前から離れました。どこに行くのかと思ったら、部屋の入口横の壁に歩み寄ったのです。そこには、先ほど女がそれを押した、部屋の電灯のスイッチがある場所でした。
そして次の瞬間、蛍光灯の白い光が溢れていた部屋は一瞬で暗闇に切り替わりました。それで女が部屋の電灯のスイッチを切ったということが分かりました。女は再び、その闇の中に紛れ込んだのです。部屋の窓から差し込む街灯のかすかな光で、その暗闇に紛れ込んだ黒いシルエットが亡霊のように部屋を移動していくのが分かりました。そしてその黒い亡霊は、先ほど開けっ放しにしていたクローゼットの中に消え、その扉は内側からゆっくりと閉じられていきました。
私は道路の真ん中に立ち尽くし、呆然とその様子を見ていました。
女の行為の意味が分からなかったのです。
なぜそのようなことをするのか。その目的は何なのか。
完全に思考が停止していた私の頭の中で、その疑問はどんな答えにも結びついてくれなかったのです。ただ、とてつもなく凶悪で、とてつもなく憎悪に満ちた何かが私の部屋の中で起こっている、あるいはこれから起ころうとしているということだけは分かりました。
それ以降、画面に動きはなく、部屋の中は黒い静止画のように止まったままの映像が映り続けていました。アプリ画面上に表示されていた「動体検知」のアラームはいつの間にか消えていました。クローゼットの中の女は、いつまで経っても外には出てきませんでした。
「もしかして……」
その時になってようやく、私は一つの可能性に思い至りました。
「女は……私が部屋に帰ってくるのを、待ち伏せしている?」
そうです。アイスピックを手に持ち、闇の中に紛れ、クローゼットの中に身を隠している。その事実を知らなければ、私は何も考えずにいつものように家に帰っていたでしょう。そして、部屋の電気を点け、ゲームの実況中継をするためにパソコンを起動し、椅子に座ったでしょう。自分のすぐ背後に女がアイスピックを手にクローゼットに身を隠しているとも知らずに。そして女は……。
もしあの日、机の上の違和感に気付かなかったら、そして部屋にネットワークカメラを設置していなかったら、その想像が現実になっていてもおかしくはなかったのです。もしそうなっていたら、自分の身はどうなっていたのか。その想像の中の結末に私は単純に戦慄しました。
「どうすればいい?」
私は自分に問いかけました。
女がなぜそのようなことをするのか、なぜそのような憎悪が自分に向けられたのか、全く分かりませんでした。
ただ何よりも、その憎悪に対して何かしらの対処をする必要があるということは分かりました。今、女がクローゼットの中に身を潜ませている部屋は、私の部屋なのです。見て見ぬ振りなんてできるわけがありません。ですが、私一人では手に負えないという認識は私の中にありました。
「どうすればいい?」
私はしばらく暗闇に包まれた道路の上に立ち尽くしていました。
「そうだ……交番がある……」
私は、H駅前に交番があることを思い出しました。いつもは通学時にその前を通り過ぎているだけだったので頭からすっぽり抜け落ちていたのですが、H駅前には交番があるのです。簡単な話でした。警察に助けを求めればよかったのです。どうしてそんな当たり前のことに思い至らなかったのだろう。自分でも不思議でした。そのくらいその時の私の頭は混乱していたのでしょう。私は自分の家に帰るために歩いてきた道を、そのまま早足で戻りました。
これが、つい先ほど私の身に起こった出来事です。
お巡りさん、あの女は異常です。
お願いです。私を助けてください。