第3話
ゲーム音楽をミュートにして、私は息を潜めてしばらくドアを見ていました。ドアの向こう側からは何の物音も聞こえてきませんでした。
さっきのチャイムの音は、ゲームに熱中しすぎたせいで幻聴でも聞いたのだろうか。そんな気すらしました。いえ、そう自分に言い聞かせて、この非日常の状況に無理やり説明を与えようとしていただけなのかもしれません。心のどこかでは、「幻聴であってくれ」と願っていました。
だけどその願いも虚しく、再び、ピンポーンという大きな音が部屋の中に鳴り響きました。それは現実でした。「幻聴だろう」などと自分を誤魔化すことなんて、もう出来ませんでした。午前一時半という時間。そんな時間に、あのドアの向こう側には誰かが立っているのです。
私は怖くなりました。ドアを開けるのが怖かったので、居留守を使おうと思いました。
再び、ピンポーンという音が鳴らされます。二回目に鳴ったときよりも、時間の間隔は短くなっていました。
ピンポーン……ピンポーン……ピンポーン……。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。
私の部屋の外にいる誰かは、しまいには狂ったように家のチャイムのボタンを連打し始めました。まるで、部屋の中で息を潜めている私に向かって、「この部屋にお前がいるのは知っているぞ」と言うかのように、そのチャイムはいつまで経っても止みませんでした。
そこまで来ると、私も無視し続ける訳にはいきませんでした。
もしかしたら、ゲーム実況の音がうるさくて、上階か下階の住民が腹に据えかねて、こんな時間にもかかわらずクレームを言いに来たのだろうか。そんな考えも私の頭をよぎったのです。
過去に一度、私の部屋のポストに、「夜中に騒音を立てないでください」と書かれた無記名のメモが入っていたことがありました。それ以来、騒音には注意してゲーム実況をするようにしていたのですが、その日はゲームが盛り上がって、ゲームに熱中するあまり大きな音を自分でも気づかないうちに立てていたのかもしれません。それに、もし私の部屋からの騒音にクレームをつけに来たのだとしたら、いくら居留守を使ったとしても、あのドアの向こう側の人物は、この部屋に人が居るということは当然知っているはずです。このまま居留守を使い続けると、その相手の心証がどんどん悪くなってしまうかもしれません。いや、それよりも何よりも、狂ったように、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーンと鳴り続けているチャイムを止めて欲しくて、私は椅子から立ち上がり、インターフォンの通話ボタンを押しました。
私がその通話口に、「はい」と少し掠れた声で言うと、今まで延々となり続けていたチャイムの音が突然止みました。
ですが、その通話口の向こうからは誰の声も聞こえませんでした。ただ、すう、すう、という呼吸音だけが小さく不気味に聞こえていました。
私は、いたずらだろうか、と思いました。
今まではそのようないたずらをされたことは無かったのですが、私の小さい頃は、ピンポンダッシュといういたずらが流行っていて、それは、見知らぬ人の家のチャイムを押して急いでその前から走り去るというものです。そして自分は離れた電信柱の影などに隠れて、そのチャイムの音に応じて外に出てきた住人がそこに誰の姿も見えなくてきょろきょろしているのを見て、嘲笑うのです。その新手のいたずらなのかと一瞬、思いました。ただ時間が時間です。午前一時半にそのようないたずらをするとも思えません。それに、通話口の向こう側から小さな呼吸音が聞こえるということは、私の部屋のチャイムを押した誰かは、未だに私の部屋のドアの前に立ち続けているということを意味しています。
私は、心の中に沸き起こる恐怖を押し殺して、「何か、用ですか?」と言いました。すると、その通話口から、「私は、藤岡と言います」という声が聞こえてきました。低く、消え入りそうな、若い女性の声でした。
「今日、隣の部屋に引っ越してきました……。
本日は、引っ越しのご挨拶に伺いました……つまらないものですが、お渡ししたいものがあるので、ドアを開けていただけませんか?」
深夜の一時半に引越しの挨拶に来るなんて、聞いたことがありません。女のその言葉に、私はさすがに腹が立って、「こんな時間に非常識ですよ。明日にしてください」と少し強い口調でいいました。ですが女は、まるで私の言葉なんて全く聞こえなかったかのように、さっきと全く変わらない落ち着いた口調で、「引っ越しのご挨拶に伺いました……つまらないものですが、お渡ししたいものがあるので、ドアを開けていただけませんか?」というのです。
私は、話にならないと、インターフォンの「終了ボタン」を押して、通話を切りました。そこまですれば、相手は諦めて帰ってくれるだろうと思ったのです。
だけど三十秒くらいの静寂を挟んで、再び私の部屋のチャイムが、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーンと狂ったように鳴り始めたのです。