第19話
頭の中に、男のスマホ画面越しに見た女の姿が蘇る。
女は机の上に「お前は逃げられない。私はいつでもすぐそばにいる」と書き終えた後、自分の行為に満足したような不気味な笑みを口元に浮かべた。その笑みを見た篠原は、人間とは別の生き物を目にしたかのような異様な恐怖を感じた。
あの女は、高橋の隣人ではなかった。
少なくともこの403号室に人が住んでいる気配は一切感じられない。もしそうだとしたら、なぜあの女は「隣に引っ越してきた」と言って深夜に高橋の家を訪れたのか。
おそらく、高橋に近づくためだろう。ドア越しに高橋の顔を確認するためだったかもしれないし、あるいは、何か別の目的もあったのかもしれない。引っ越しの挨拶として高橋に渡したという小さな箱の中身も気になる。いずれにせよ女は、高橋に対して何かしらの恨みを抱いている人物だとしか考えられなかった。明らかに高橋をターゲットにしている。高橋自身に心当たりがないにしても、高橋の周りにいる人物か、あるいはその人物の関係者である可能性が高い。高橋の周辺を探っていけば、どこかであの女に突き当たるはずだ。
いや、まずは何よりもマンションの管理人に、この部屋が本当に空き部屋なのかどうかを確認したほうがいいだろう。女はこの部屋に住んでいないにしろ、高橋に近づくために部屋としては借りている可能性も考えられる。それであれば、マンションの管理人から借り主の情報を聞けば、女の素性を辿れる。
篠原は改めて部屋の中に視線を巡らせる。
部屋の中には何も置かれておらず、空虚な闇と、耳が痛くなるような静寂だけが充満していた。
この部屋に一人立っていたかもしれない「藤岡」と名乗った女。篠原の記憶の中にあるその女は、口元に不気味な笑みを浮かべていた。だけど、その顔をうまく思い出すことができないことに気づいた。頭の中に浮かんだ女の顔は、口元を残して他の部分はぼやけている。印象的な口元の記憶はあるのだけど、目元や他の顔の部分についての記憶が曖昧ではっきりしない。高橋の異様な話を聞いた後にスマホ画面の映像を見たので、心のどこかで恐怖を感じて無意識のうちに映像の中の女の顔を凝視することを避けてしまっていたのだろうか。あるいは、女の挙動に気をとられていて顔をはっきりとは見なかったのだろうか。自分でも分からなかった。404号室に戻ったら、男のスマホを借りて念の為もう一度確認しておいたほうがいいだろう。
さて、これから、どうするか。
篠原は空っぽの部屋の真ん中に立ち、少し考える。
403号室の中をもう少し調べてみようと思った。
どのようにして女が404号室のクローゼットの中から消えたのかもまだ不明のままだ。隣室であるこの部屋に、消えたトリックの手がかりとなるような何かしらの痕跡が残されているかもしれない。
篠原は頭の中で404号室の間取りを思い浮かべる。クローゼットに隣接するのは、403号室では居間の外にあるキッチンの壁の辺りだった。
携帯ライトを左手に持ったまま、篠原は居間の外に出る。そしてそのライトの光でキッチンの壁を照らした。防水仕様になっているのか、光沢のある白い壁がそのライトの光を鈍く反射する。隅々まで光を当てて調べていくが、少なくとも目視では何の痕跡も見つけることはできなかった。試しに右手で拳を作り壁を軽く叩いてみたりしたが、その拳はトントンという低い音とともに跳ね返され、その壁が頑丈な壁であることを篠原に示していた。この壁が動くということはなさそうだった。
本当に、どのようにして女は404号室のクローゼットの中から消えたのだろうか。
ここに来て、篠原は完全に行き詰まってしまった。今日の件を報告書に書いて上司に報告するとしても、それこそ「煙のように女は消えた」としか書きようがない。そのような報告書を上に上げたら、何と言われるか分かったものではない。
篠原はキッチンの壁を調べることを諦め、居間に戻る。
仕方がない。最後にもう少しこの居間の中を調べてみよう。クローゼットの中から消えたトリックの手がかりが見つからないとしても、女に関係する何かが見つかるかもしれない。
携帯ライトの光を部屋の隅々まで当てて調べていく。
しかし部屋の中にはやはり何も置かれていなかったし、何も落ちてもいなかった。あるものと言えば、空っぽのクローゼットと、壁の隅に設置されている備え付けのエアコンくらいだった。
篠原は携帯ライトの光をエアコンに向ける。
「ん?」
違和感を感じた。
エアコンの上で、何かが光ったのだ。それ自身が光ったというよりも、携帯ライトの光を受けてその光を反射したようだった。
何だろう。
篠原はライトの光をエアコンの上に向けたまま、ゆっくりと近づく。エアコンの上の光が少しずつ篠原に近づいてくる。その光を見ながら篠原は、先ほど高橋の部屋である404号室の居間に入ったときも同じようなものを目にしたことを思い出した。
まさか、とは思ったが、エアコンの近くまで来て背伸びをしてその上を確認すると、エアコンの上には小型のカメラが設置されていた。しかも、高橋の部屋で見たカメラとよく似ている。同じメーカーのもののようだ。カメラのレンズは沈黙したまま、篠原の手に持つ携帯ライトの光を受けて人間の目のようにぎらりと光っていた。
なぜカメラがこんな場所に設置されているのか。
404号室のカメラは、住人である高橋自身が、自分が留守にしているときの部屋の様子を探るために取り付けたものだが、空き部屋である403号室にこのようなカメラが設置されている理由が分からなかった。
そもそも誰が設置したものなのか。
もし、この部屋が「藤岡」を名乗った女が借りている部屋なのだとしたら、女が取り付けたのだろうか。それにしてもわざわざこのような空っぽの部屋にカメラを設置した目的は何なのか。
篠原の頭の中に、一つの可能性が思い浮かぶ。
カメラを設置した以上、この部屋の中の何かを撮影しようとしたに違いない。そして今、そのカメラに映っているのは……。
それは篠原自身の姿だった。
もしかしたら、このカメラは私を撮影するために設置されている……?
額から、汗が一滴流れ落ちる。
篠原はカメラのレンズを見つめながら、自分の体にまとわりつく、そこはかとない悪意のようなものを感じていた。