第18話
部屋の中は静まり返り、インターフォンから返事が返ってくることはなかった。ドアが開かれる気配もない。
もう一度インターフォンのボタンを押してみる。やはり返事は返ってこない。
女は部屋の中にはいないのだろうか。
篠原は右手で拳を作り、ドアをノックする。ドアからはトントンという乾いた音がした。
「藤岡さん、いますか?」
部屋の中にも声が届くように、少し大きめの声で言葉をかける。そして部屋の中の音に耳を澄ませてみるが、相変わらず部屋の中からは何の物音も聞こえなかった。
部屋の中には隣人の女は本当にいないという可能性と、部屋の中に潜んでいるのだけど居留守を使っている可能性のどちらかが考えられる。ただ、ここまでして何も返事が返ってこないということは、もし居留守を使っているのだとしたら女としてはドアを開けるつもりはないのだろう。やはりマンションの管理人に連絡をとって、403号室の玄関ドアの鍵を開けてもらうしかないか。
そのようなことを考えていた篠原の目に、銀色のドアノブが映った。それは本当にちょっとした思いつきだった。ふと、そのドアノブを回してみようと思ったのだ。404号室に侵入した女は、404号室の玄関ドアの鍵は閉めていなかった。おそらく慌てていたのだろう。同じように、403号室の鍵も閉め忘れているかもしれない。どうせマンションの管理人に連絡してこの部屋の鍵を開けてもらうつもりだ。それなら、管理人に連絡をする前にまずこの玄関ドアの鍵が開いているかどうかを確認しようと思ったのだ。
篠原はそっと、その銀色のドアノブを握る。そしてゆっくりと回し、手前側に引いてみた。鍵が引っかかってその動きが阻止される、という予想に反して、ドアはびっくりするくらいあっけなく開いた。
開いている……。
篠原は息を呑む。
開いているかもしれないという期待はしていたが、実際にドアが開いてしまうと、それは一つの衝撃として篠原の心を震わせる。だけどすぐに気を取り直し、慎重にドアを開いていく。その隙間から、どこか重々しい闇が空気とともに外に流れ出してくる。中は電灯も点けられておらず真っ暗だった。
「藤岡さん、いますか?」
部屋の中に一応声をかける。
女が中に潜んでいるのなら返事は返ってこないだろうとは思ったが、やはり部屋の中は篠原の声が微かに反響するだけで、何の返事も返っては来なかった。
篠原は左手に持った携帯ライトのスイッチを入れる。
闇の中に、白い光の輪が浮かび上がる。
短い通路を隔てて正面に一つのドアが見える。左側の壁には二つのドアがあった。男の部屋である404号室と同じ間取りなのだろう。右側はキッチンになっていた。携帯ライトの光はそのキッチンを捉える。
やけに寂しいキッチンだな、というのが篠原の第一印象だった。物が異常に少ない。いや、少ないと言うよりも、全く物が置かれていない。空っぽのシンクとガスコンロが並んでいるだけだ。男の話だと、隣人の女は一週間前に引っ越してきたばかりだというので、まだ台所用品も買い揃えていないのだろうか。
「藤岡さん、中に入りますよ」
玄関口で再び中に声をかける。中から何も返事が返ってこないことを確認して、篠原は玄関口で靴を脱いだ。そして上がり框の上に右足を乗せる。玄関ドアを抑えていた右手を離し、ドアが篠原の背後でゆっくりと閉まっていく。ガチャンという悲鳴のような音を立ててドアは閉まり、篠原は完全な闇の世界に一人取り残された。
この部屋は女の部屋だ。どこに女が隠れているか分かったものではない。篠原は周りに気を配り、細心の注意を払いながら通路を進んでいく。まだ五月だというのに部屋の中はやけに蒸し暑く、篠原の額から汗が滲み出す。
短い通路がひどく長く感じる。自分がゆっくり歩きすぎているだけなのか、あるいは次元が歪んで実際に長くなっているのか。それすらもわからなくなりそうになる。緊張のあまり視界も歪み始める。
永遠とも思える時間を経て、篠原はようやく居間のドアの前にたどり着いた。一度小さく息を吐く。左手に持った携帯ライトを握り直し、そっと右手をそのドアノブに伸ばした。そしてなるべく音を立てないように、ゆっくりとドアを奥に向かって押し開いていった。
ドアの隙間から差し入れたライトの光が、居間の中を照らす。
その光に切り取られた部屋の様子が篠原の目に飛び込んでくる。そしてその部屋の中の光景を見た篠原は、言葉を失った。
「これは……」
かすれた声が口からこぼれる。
部屋の中には、何も無かったのだ。
フローリングの床がむき出しのまま広がり、ガラス戸にはカーテンも取り付けられていない。六畳ほどの、誰の姿もなく、そして何も置かれていない殺風景な部屋が広がっていた。つまり、隣人の女が引っ越してきたと男に告げた403号室は、完全な空き部屋だった。
頭は混乱し、微かに目眩を覚える。
篠原はおぼつかない足取りで、部屋の中央まで歩いていく。そして改めて部屋の中をその携帯ライトの光で照らし、確認をしていった。やはり何度見ても、物一つ置かれていない空き部屋がそこにはあった。試しにガラス戸を開けてベランダを確認してみたが、やはり何も置かれていなかった。クローゼットの扉を開けてみても、そこには空虚な闇が佇んでいるだけだった。
何が起こっているんだ……。
篠原は心の中で呟く。
男の話では、一週間前の深夜、「藤岡」と名乗る若い女が男の住む404号室に訪れた。そして、「隣に引っ越してきた」と言って、引っ越しの挨拶にと紙袋に入った小さな箱を男に手渡したという。男の部屋は角部屋なので、隣と言ったらこの404号室しかない。
だけど女が引っ越してきたと言った404号室は空き部屋だった。
女は本当にこのマンションに引っ越してきた住人だったのだろうか。
篠原の心の中を薄ら寒い風が吹き抜けていく。
もしそうでないのだとしたら……。
映像に映っていたあの女は一体、何者なのか……。