第17話
女は一体どのようなトリックを使ったのか。
まるで、箱の中に入って、そして次の瞬間には姿が消えている手品師のように女の姿は消えてしまった。だけど人間が本当に消えることなんてありえない。箱の中から消える手品師にもネタがあって、そのネタを巧妙に隠しているだけなのだ。女も何かしらのトリックを使って、このクローゼットの中から消えたに決まっている。
篠原は手にしていた男のスマホを机の上に置き、クローゼットの前に歩み寄る。
手品の中には、箱の中が別の空間に繋がっていて、そこに一時的に身を隠すというトリックがあると聞く。一見開かないと思っていたものが開く。観客が持っている先入観を利用して、観客を欺くのだ。
まさか、クローゼットの中に隣室に繋がる抜け道のようなものがあって、その抜け道を通って、女は自分の部屋である403号室に逃れたということなのか。密かにそのような抜け道を作っていた、ということなのか。
そんなスパイ映画のようなことがあるわけがないと思いつつも、他に何も案を思い浮かべることができなかった篠原は、携帯ライトを点灯させ、先ほど見たクローゼットの中を念入りに調べていった。特に隣室に面した壁を重点的に調べていく。しかしその壁には何の異常も見出すことができなかった。試しにその壁に手を当て、力をかけて押してみてもそれは全くびくともしなかった。動く気配すらなかった。何の変哲もない壁がそこにはあるだけだった。
しばらく別の壁も押してみたりして調べていたが、やはり抜け道を示すようなものは何一つ見つけられなかった。
篠原は諦め、クローゼットの中から頭を抜き出す。
男は机の横に立ったまま、今にも泣きそうな顔をして黙って篠原のことを見ていた。篠原は男のことを無視して、女が消えたトリックについて考える。
人間が煙のように消えることなんてありえない。きっと何かトリックがあるはずだ。だけどクローゼットの中には抜け道らしきものは全く見当たらない。異常といえば、クローゼットの床に、女が手にしていたアイスピックが落ちていただけだ。
まさか、このアイスピックが、女が消えたトリックに関係しているというのだろうか。でも、どう関係しているのか……。
いくら考えてみても、篠原にはトリックの糸口すら見つけることはできなかった。
この部屋で何かが起こっている。
そのことは痛いほど分かっているのに、この部屋で、このクローゼットの中で何が起きているのかが分からない。それは、不気味な女の存在とはまた違った形の恐怖を篠原の心の中に引き寄せてくる。その恐怖は、底の見えない暗闇を見つめているときの恐怖に近かった。
とりあえず、女の部屋、403号室に行ってみよう……。
篠原は心の中で呟く。
女がどのようなトリックを使ってこのクローゼットの中から消えたのかは分からない。だけど403号室に行けば何かが分かるかもしれない。
女が机の上に書き残していた「いつでもすぐそばにいる」の「すぐそば」がこの部屋の隣室である403号室を指しているのだとしたら、この部屋を抜け出した女が自分の部屋に戻って身を潜めている可能性が高い。それなら部屋にいる女自身の口から話を聞けばいい。ただ、この部屋から抜け出した女が403号室には戻らずにマンションの外に逃げていることも十分に考えられる。その場合は403号室には今は誰もいないということになる。おそらく玄関ドアの鍵もかかっている。中に入るにはマンションの管理人に連絡をとって、鍵を開けてもらうしかないだろう。それでも部屋の中には、きっと何かの手がかりは残されているはずだ。
篠原と高橋の二人はマンションに入る前に、マンションの外から高橋の部屋である404号室のベランダを確認していた。その際に隣室である403号室のベランダも同時に確認していたが、その時は403号室のベランダの奥にあるガラス戸の向こう側は、黒い闇しか見えなかった。
あの闇の中に何が潜んでいるのか。
隣人の女なのか……それとも……。
とりあえず行ってみるしかない。
篠原は腹を決めると、机の横に突っ立ったままの男に向かって、「あの、高橋さん」と言葉をかけた。男はびくっと一度大きく身体を震わせて、「何でしょうか?」と小さな声で答えた。
「私はこれから隣の部屋に行ってみます。何かあるといけないので、高橋さんはこの部屋で大人しく待っていてください」
「……はい」
「先ほどは居間の入口で待っているようにという指示を破って勝手に居間の中に入ってきたようですが、今回は指示は絶対に守ってください」
「すみません……分かりました」
男は体を小さくさせて頭を下げる。その様子を見てから、篠原は男を居間に置き去りにして、一人、403号室に向かった。
404号室の玄関ドアを開け、外に出る。
空は曇っているのか、月も星も見えなかった。黒い幕で覆われているかのように頭上はどこまでも暗黒の空間が続いている。その黒い幕の下にいると、どこか息苦しさを感じる。マンションの通路には誰の足音も聞こえなかった。通路の外に見える街も、寂しく街灯が立っているだけで誰の姿も見えなかった。住人が仕事から返ってくるような時間帯のはずなのに、このマンションはどうしてこんなにも静かなのだろう。住人は高橋一人しかまだ目にしていなかった。
篠原は、隣室である403号室の玄関ドアの前に立つ。
当たり前だが404号室のドアと全く同じドアだ。白いマンションの外壁に、白いドアが埋め込まれている。なぜか、篠原の目にはそのドアがどこかの異世界に繋がるドアに見えた。心に微かな緊張を感じながら右手を持ち上げ、ドアの横に設けてあったインターフォンのボタンを押す。
部屋の中に、ピンポーンという音が響くのが、ドア越しに小さく聞こえた。