第16話
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篠原が居間に戻ると、机の横で、男が立ったまま真剣な表情で自分のスマホ画面を見ていた。居間に入ってきた篠原に気付き、男はその目を篠原の方に向ける。
「お巡りさん……」
男の声は微かに震えている。
「どうかしましたか?」
「おかしいです……。こんなことが……こんなことが、あるわけがない……」
篠原はその様子に何か尋常でないものを感じ、「何があったんですか?」と再び尋ねる。
「映像です……」
「映像?」
「はい。この部屋の映像です」
この部屋の映像は、女が侵入してからクローゼットの中に隠れるまでのものを篠原も交番で見ている。男はその女が侵入してくる映像の中に何かを発見したのだろうか。
「お巡りさんに交番でお見せした映像は、女がクローゼットの中に入るまでの映像です。実はその後も録画はされていたので、その映像を今、確認していたんです」
「その後、というと?」
「女がクローゼットの中に隠れてから、そしてお巡りさんがこの部屋に入るときまでの映像です」
そうか。ネットワークカメラでの録画が続いていたのだとしたら、女がクローゼットの中から外に出てくる姿も映っているはず。それを見れば、いつ、どのようにして女がこの部屋から抜け出したかについて知る手がかりになる。
「ですが……映っていないんです……」
男は青ざめた顔を引き攣らせながら、言葉を吐き出す。
「映っていない?」
「はい……映っていないんですよ……。女がクローゼットの外に出てくる姿が映っていないんです……」
「え……?」
そんなことはありえない。それでは女が本当にクローゼットの中から煙のように消えてしまったということになる。そんなことありえない。あるはずがない。きっと男は何かを見落としているのだ。
篠原のそんな心の声が聞こえたかのように、男はまた「映っていないんです……」と呟いた。
「すみません。私にもその映像を見せてもらえますか」
「……分かりました」
男はスマホ画面に指を触れ、いくつか操作をする。そしてスマホを篠原に手渡し、「女がクローゼットの中に入るときまで映像を戻しています。その後はしばらく何も起きません。このボタンを押すと映像を早送りすることができます。巻き戻ししたいときは、このボタンを押してください」と操作方法を簡単に説明した。
篠原は受け取ったスマホ画面を見つめる。
女が机の上に、「お前は逃げられない。私はいつでもすぐそばにいる」という殴り書きを終え、ちょうどクローゼットの中に隠れるところのシーンだった。女が居間の電灯を消し、クローゼットの中に消える。画面の左上には、カメラが撮影を行っている時刻が「2024/05/17 18:13」と表示されていた。つまり女は午後六時十三分にクローゼットの中に隠れたことになる。篠原がこの部屋に入ったのが午後八時過ぎなので、その間、二時間の空白の時間がある。
スマホ画面にはそのまま何の動きもない、暗闇に包まれた無人の部屋が映り続ける。篠原は早送りボタンを押した。それでもまるで静止画であるかのように、代わり映えのない無人の部屋が映り続けていた。篠原は小さな変化も見逃さない、と細心の注意を払いながら画面を見つめ続ける。それでもその静止画のような映像に全く動きは見られなかった。
そのときだった。
映像の中の居間のドアが開いた。
篠原は早送りボタンから指を離す。
小さく開いたドアの隙間から、部屋の中に光が差し込む。その光は小さな輪を作り、部屋の中のあちらこちらを照らしている。しばらくしてドアは開き、その隙間から一人の人物が部屋の中に入ってきた。水色の長袖シャツを来ており、濃い紺色のベストを羽織っている。そして頭には同じく濃い紺色の制帽を被っている。
それは、篠原自身の姿だった。
「そんな馬鹿な……」
篠原は低い声で呟く。
画面左上の時刻表示を見ると「2024/05/17 20:13」と表示されている。その時刻はネットワークカメラのセンサーが動体を検知して、男のスマホにアラートメールを発信した時刻だ。紛れもなく、ほんの少し前にこの部屋の中に入ってきたときの篠原自身がその映像の中には映っていた。
篠原は震える指で、映像を再び女がクローゼットの中に隠れる場面に戻す。そしてさきほど以上に神経を張り詰めて映像を見返したが、やはり女がクローゼットの中に隠れてから篠原が部屋に入ってくるまで、そのクローゼットの扉が開かれることは一度もなかった。
そのことは、女がクローゼットの中からは出てきてないということを示していた。
つまり、女は本当に煙のように消えてしまったのだ。