第15話
いや、待てよ。
篠原は心の中で呟く。
机の上に女が書き残した、「お前は逃げられない。私はいつでもすぐそばにいる」という言葉。その「お前は逃げられない」の中の「お前」とは高橋のことを指しているのだろう。高橋に対して何かしらの恨みを持っていると考えられる。では、その次の言葉は何を意味しているのか。
「私はいつでもすぐそばにいる……」
まさか……。
篠原は居間の中に視線を巡らせる。そして何か異常を知らせる音がどこからか聞こえてきはしていないかと耳を済ませる。
私はいつでもすぐそばにいる。その言葉は、実は女はまだこの404号室の外には出ていなくて、この部屋のどこかに潜んでいるということではないのか。そして篠原と高橋の動きに耳を澄ませ、じっと機会を伺っているということではないのか。もしかして、玄関ドアの鍵が開いていたことも実は女の狙いがあって、自分は外に逃げ出したと篠原たちに思わせておいて、実はこの部屋のどこかに隠れ続けているということなのかもしれない。
まだ呆然と机の前に立ち尽くしている男を横目に、居間の様子を慎重に観察する。机、ゲーミングチェア、ベッド。この居間の中でクローゼット以外に一人の人間が身を隠せそうな場所は、ベッドの下くらいだった。
ベッドの下にいるのか……?
篠原の身体に緊張が走る。
無意識のうちに左手は腰にぶら下げた警棒を触っていた。視線は、壁の隅に寄せられるように置かれたベッドを捉える。
ベッドは木製の外枠にマットレスが載せられたシンプルなものだった。ベッドの四隅に足が設けられていてベッドを支えている。ベッドの下の空間を収納スペースとして活用する人もいるが、高橋はその下のスペースに何も収納していないようだった。床とベッドの間は三十センチくらいの隙間が空いている。体格のよい成年男性がその隙間に身体を入れるのは難しいかもしれない。だけど女性であれば入ることができない高さではなかった。立っている篠原の目には、そのベッドと床の隙間は見通せない。ベッドによって作られた影の一端が顔をのぞかせているだけだった。
「お巡りさん、どうしたんですか?」
篠原の尋常ではない様子に気付いたのか、男が篠原に話しかける。篠原は手振りで、男に口をつぐむように指示した。男は訳もわからず両手で口をふさぎ、篠原の動きをただ凝視していた。
篠原は手にしていた携帯ライトのスイッチを点ける。そしてスローモーション映像のようなゆっくりした動きで身体を屈めていった。ベッドの下に澱む暗闇が少しずつ視界に入っていく。その暗闇の中に女が横たわり、そしてこちらに顔を向けている。そんな光景を想像して、篠原は強い恐怖に襲われる。それでも必死にその恐怖を頭から追い払うかのように、身体を屈める動作を止めなかった。
ベッドの下の空間が篠原の前に姿を現す。
そこには誰の姿も無かった。
篠原は身を起こし、小さく息を吐く。
ここではない……。では、女はどこにいる……?
ふと、篠原の目にベランダに通じるガラス戸が映る。
ベランダ……。
このマンションに入る前に、外からこの404号室のベランダは確認している。そのときはベランダに人影は見えなかったし、何も異常は感じなかった。だけどそれが実は盲点ということはないのか。このマンションのベランダは落下防止のために人間の腰くらいの高さの塀で覆われていた。人がしゃがみ込んでいれば、人一人くらいは充分に隠れることができる。死角は確かにあった。その塀の内側にしゃがみ込んで隠れていたら、外からその姿を見ることはできない。
蛍光灯の光が反射して、ガラス戸の外はよく見えない。蛍光灯に照らされた部屋の光景がぼんやりと映っていて、その奥には黒い闇しか見えなかった。
篠原は気を張りながら、ゆっくりとそのガラス戸に近づく。
ガラス戸の鍵を目で確認する。回転式のその鍵は閉められていた。この鍵をベランダの外から閉めることはできそうにない。そのことはベランダには誰もいないということを示している。念の為、ガラス戸を開け、ベランダに頭を出して外を確認したが、そこには物一つ置かれていない寂しい空虚な空間があるだけだった。ベランダの隅にしゃがみ込んでいる人影はそこには無かった。
残るは、玄関からこの居間へとつながる短い通路に設けられていた二つのドアだけだ。一つは洗面所、そしてもう一つはトイレに繋がっているはず。
物思いにふけっている篠原のことを、男はどこか不安げな様子で見つめていた。篠原は男に構うこと無く、音を立てないようにすり足で歩きながら居間のドアの外に出る。蛍光灯の白い光がドアの隙間から漏れ、薄暗い通路を弱々しく照らしている。正面にはそこから篠原が入ってきた玄関ドア、そして右手側に二つのドアが並んでいる。三つのドアは、誰かに開けられるのをじっと待っているかのように仄暗い壁に黙ったまま浮かんでいた。
篠原は携帯ライトを右手に持ち、手前のドアに歩み寄る。ライトの光は、薄暗い闇の中に白い扉を捉えていた。ドアの向こう側に聞き耳を立てる。何も聞こえない。クローゼットの扉のときとは違い、今回は中に何も言葉をかけることもなく、ドアノブを握ってそのドアをゆっくりと手前側に引いた。
携帯ライトの光が中の闇を照らす。その光は誰の姿も捉えることはなかった。ただ、白い円形の光の輪の中で、トイレの便器が虚しく浮かんでいた。
そのドアを閉めることもなく、そのまますり足で隣のドアの前に歩み寄る。そして同じように中の様子に聞き耳を立てたが、中からは換気扇が回っているのか、微かに、ごうという音が聞こえるだけだった。その音に何か異質な音が混じってはいないかと耳を澄ませるが、篠原の耳ではそのような音を聞き分けることはできなかった。
ドアノブを握り、そっとドアを開ける。
ドアの内側には濃密な闇が充満している。その闇を、右手に持った携帯ライトの光で切り取っていく。そこにはプラスチック製のコップと歯ブラシが一本置かれた洗面台があるだけだった。人影はどこにも見えない。その隣の風呂場の扉も開けてみたが、そこにも誰の姿も無かった。
篠原は誰もいない洗面所に立ち尽くし、今まで見てきたこの404号室の間取りと、それぞれの部屋の様子を頭の中で整理する。今まで見てきた場所以外に、一人の人間が身を隠すことができそうな場所はなさそうだった。
404号室に、女はいない。やはり、クローゼットの外に出たときに、そのままこの部屋の外に逃走してしまったのだろう。もしそうだとしたら、女が机の上に書き残した「いつでもすぐそばにいる」という言葉はどういう意味なのか。
いつでも……すぐそばにいる……。
篠原は頭の中でその言葉を繰り返す。
すぐそばにいる……。
この404号室の、すぐそば……。
唐突に、篠原の頭の中にこの404号室のすぐそばであり、かつ女がいる可能性がある一つの場所が思い浮かぶ。簡単な話だった。もしかしたら、その「すぐそば」というのは、この404号室の隣、つまり女自身の部屋である403号室のことを示しているのではないのか。