第12話
ドアが十センチほど開く。
右手に持つ携帯ライトの光をその隙間に差し入れる。ドアに遮られてまだ部屋全体は見通せない。ライトの光は暗闇に包まれた殺風景な部屋を描き出していた。ドアの隙間から見える暗闇の中に、人影や、何か不審を感じさせるものは見えなかった。
さらにドアを押し開く。
白い光の輪の中に机とゲーミングチェアが現れた。机の上には三十二インチはありそうな大型のディスプレイが置かれている。ただし篠原が立っていたドアの手前からその机まではまだ距離があって、机の上をはっきりと視認することはできなかった。その中でマウスやキーボードが机の上から落ちそうなくらい端に押しやられていることだけがかろうじて分かった。
机の右側には大きなガラス戸がある。カーテンは閉められていない。マンションの外から確認した、ベランダに通じるガラス戸だろう。そのガラスに篠原の手に持つライトの光が反射しているのが見えた。ドアの隙間から顔を半分覗かせている人影もぼんやり映っている。その人影は自分自身の姿なのだと理性では分かっているのに、なぜか、深淵の底から篠原のことを覗いている邪悪な怪物のように見えた。
ガラス戸のさらに右は壁になっていて、その壁の上にエアコンが設置されている。篠原は無意識のうちにエアコンの上に視線を送る。天井とエアコンの狭い隙間に何者かの目がぎらりと光っているのが見えた。そこにネットワークカメラを設置していると男から事前に聞いていても、そのカメラのレンズにぞくりとする。
ドアは完全に開かれた。
部屋は六畳くらいの広さで、机、ゲーミングチェア、ベッドくらいしか目に付く物はない。男子学生の部屋の割にはきれいに片付けられているというのが篠原の第一印象だった。篠原の持つライトの光は、暗闇に包まれたその部屋の中に誰の姿も捉えることはなかった。
篠原は一度小さく息を吐く。
だけどまだ気を緩めるわけにはいかない。これからが重要だった。後ろを振り返ると、篠原のすぐ後ろに男は立っていた。暗闇に紛れてその表情は見えない。篠原は勝手にその男の表情を想像する。頭の中で、怯えて泣きそうになっている男の顔を想像していた。手振りで男にここで待つように指示する。男が小さく頷くのを確認してから、できるだけ音を立てないように部屋の中に入っていった。
篠原は、居間の入口のすぐ横に一つの扉があることに気付いた。居間の入口に並んで設けられていたので、ドアの隙間からはその扉の姿が目に入ることはなかった。ライトの光の中にその扉が禍々しく浮かび上がる。篠原は口に溜まったつばを飲み込んだ。
これが……男が交番で話していた、隣人の女が潜んでいるというクローゼットなのか……。
どこにでもあるような、横に開閉するタイプの白い扉だ。何か異常は無いかと扉を観察する。だけどそこには特に何の異常も見いだせなかった。扉の内側に耳を済ませる。中からは物音一つ聞こえてこない。耳が痛くなるような静けさの中で、篠原自身の心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。
「おい、中にいるのは分かっているんだ。この声が聞こえるのなら、返事をしろ」
扉の向こう側に話しかける。だけどクローゼットの中からは誰の声も返ってこない。篠原のことを嘲笑うかのように、しんと静まり返ったままだった。
「無駄な抵抗はやめるんだ。大人しく外に出てこい」
もう一度言葉を投げかける。やはり中からは何の物音も聞こえてこなかった。
仕方がない……。
右手に持っていた携帯ライトを左手に持ち替える。ライトの光でクローゼットの扉を捉え、そして何か不測の事態が起こってもすぐに対応できるような体勢をとりながら右手を扉の取っ手にそっと伸ばした。金属製の取っ手はひどく冷たかった。
右手に力を入れ、ゆっくりとクローゼットの扉を横に移動させていく。携帯ライトの光が、扉の奥に潜む闇の中に忍び込む。黒い闇は白い光によって徐々に照らされていく。いつアイスピックを握った女の右手がその隙間から飛び出してくるか分からない。篠原の心を極度の緊張が襲う。
「あっ」
人影が見えた。心臓が跳ね上がり、篠原の右手が止まる。だけどそれはよく見てみると、冬用のコートがハンガーに掛けられているだけだった。ライトの光の中で黒いコートがぽつんとぶら下がっている。
驚かせやがって……。
心の中で毒づく。
篠原は再び右手に力を入れる。そしてとうとう扉は開き切った。
「誰も……いない……」
暗闇に包まれた部屋に、篠原の言葉が虚しくこぼれる。
クローゼットの中に女の姿はもちろん、誰の姿も見つけることはできなかった。念の為、クローゼットの隅々までライトで照らして確認する。だけどそこにはハンガーに掛けられたコートと小物をいれるための小さなタンスが片隅に置かれているだけで、クローゼットの中には誰もいなかった。その小さなタンスはさすがに人が隠れることができるようなサイズではなかった。
ライトがクローゼットの床を照らす。
その光の輪の中に鈍く光るものが見えた。太い茶色い柄に、銀色の細長い棒状のものが設けられている。
これは……。
篠原は屈み、ライトの光を当てて観察する。
アイス……ピック……?
先ほど交番で見たこの部屋の映像を思い出す。その映像の中で、女はアイスピックを手にしてクローゼットの中に消えていった。今、目の前で床に転がっているそれは、女が持っていたそのアイスピックにそっくりだった。