第11話
篠原が通路に歩みだそうとしたとき、背後から、「お巡りさん、気を付けてください。女は凶器を持っています」という男の声が聞こえた。篠原は男を振り返ることなく、「分かっています。大丈夫です」と答える。
通路をゆっくりと進んでいく。
何か突発的な事態が起こっても対応できるように、辺りに気を配りながら歩く。男の部屋に潜んでいるという女が、凶器を手にいきなり玄関ドアから飛び出してくることもありうる。そして凶器を振り回しながらこちらに突進してくるかもしれない。様々な可能性を頭に入れながら通路を進んだ。
403号室の前にさしかかる。
玄関ドアの向こう側に聞き耳を立てる。内側からは物音一つ聞こえなかった。そもそも玄関ドアはある程度防音にはなっているだろうから、部屋の中の音が外にまで聞こえてこなくても不思議ではない。物音が聞こえないということが、その玄関ドアの内側に誰もいないということを示しているわけではないのだ。篠原は気を引き締める。
とうとう404号室の玄関ドアの前にたどり着いた。
やはり玄関ドアの内側からは何の物音も聞こえては来なかった。
「あっ」
背後からの突然の声に、篠原は体をびくっと震わせて、後ろを振り返る。男が青ざめた顔で床の一点を見つめていた。何事かと男の視線の先を目で追う。玄関ドアから少し離れた床の上に、一枚の紙切れが落ちていた。長さ三センチ、幅一センチくらいの小さな白い紙切れだ。男のその声が無かったら、篠原がその紙に気付くことはなかった。視界の端に捉えていたとしても、篠原の脳は無意識の中で「床に落ちている、ただのごみ」として処理していた。
「落ちている……。
ほら、交番でお話しした、ドアの開閉を検知するための白い紙です。今日も念のため、家を出る時に玄関ドアの上に目立たないように挟んでおいたんです。
これが落ちているということは……やはり……」
男の言葉は途中で闇の中に消えていく。
篠原の目には、その小さな紙切れが何かの不吉な象徴のように見えた。結界を守るために貼られた御札が、邪悪なものによって剥がされた残骸。頭の中では、白い紙がそのような一つのイメージとして見えていた。
この扉を、本当に開けてもいいのだろうか……。
結界を破り、この扉の向こう側に何か邪悪なものが潜んでいる。白い紙から喚起されるイメージが篠原の頭の中に滲み出す。それに対する本能的な恐怖が体の中を蠢いている。
「お巡りさん? 大丈夫ですか?」
背中に男の声が突き刺さった。篠原は何でもない様子を装いながら振り返る。市民の前で、警察官である自分が無様な姿を見せるわけにはいかなかった。
「高橋さん。今日はドアの鍵は確かに閉めて家を出たのですね?」
「……はい、閉めました。家に誰かが侵入した、そんなことがあった中ですから、家を出る時に何度も確かめました。間違いありません」
篠原はドアノブを握って回す。そして慎重にドアノブを手前に引いてみた。鍵がかけられていてドアが開くことはないだろうという予測に反して、そのドアは何の抵抗もなく開いた。
おかしい……。
篠原の頭の中に、強烈な違和感が湧き上がる。
女が合鍵を使って部屋の中に侵入し、そして部屋の中で男が帰ってくるのを待ち受けているのだとしたら、このドアの鍵は閉めるはずだ。内側からならこの鍵は問題なく閉められるはず。もしこのドアの鍵が開いているとしたら、男が家に帰った時にそのことに気づき、男に不要な警戒心を抱かせることになる。もし自分がその女なら、間違いなくこの玄関ドアの鍵は閉めている。それなのに、このドアの鍵は開いていた。
それが意味することは何なのか……。
篠原には分からなかった。
玄関ドアの向こう側は、粘度の高い闇が充満していた。
腰から携帯ライトを取り、スイッチを入れる。白い光の輪の中に居間の扉と、その扉に通じる短い通路が見えた。
玄関から部屋の上に上がるとき靴を脱ぐかどうか一瞬迷ったが、靴を脱いで上に上がる。この後、女がクローゼットから飛び出してきてもみ合うことになるかもしれない。そして女が部屋の外に逃走するかもしれない。もしそうなった場合は、女の後を追う際に玄関で再び靴を履いている暇なんてなかった。その可能性を考えると、土足のまま部屋に上がるべきだった。ただ、その時の篠原は、相手は女一人なので、おそらくそのようなことにはならないだろうと考えた。
通路を一歩一歩前に進んでいく。
まるで水の中を歩いているかのように、闇に体がとられる。やけに体が重く感じた。
左手側に閉じられた扉が二つ並んでいるのが見えた。
男の話の中に出てきた扉だ。おそらく手前側は洗面所に通じる扉で、奥側がトイレに通じる扉なのだろう。女はすでにクローゼットから出ていて、洗面所かトイレに身を潜ませている可能性もゼロではない。その横の扉にも気を配りながら前に進んだ。その二つの扉の向こう側からは、何かが動いているような気配は全く感じられなかった。
背後で何かが動く気配を感じた。
おそらく男も篠原の後について部屋に入ってきたのだろう。篠原が後ろを振り返ることはなかった。
居間の扉が目の前にあった。
篠原はドアノブを握る。そしてドアノブをゆっくりと回し、扉を奥側に向かって慎重に押し開いていった。