第10話
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高橋と名乗る若い男は長い話を終えた。
男はひどく青ざめた顔で、震える自分の指先を見つめている。
交番の中には篠原と男の二人しかいない。男が口をつぐむと、交番の中は突然、地の底のような静寂に覆われた。今日は五月にしては暖かい気候だったが、男が話をし終えたこの交番の中だけ五度くらい気温が下がったように感じる。ひどく肌寒い空気が篠原の身体にまとわりついてきた。
篠原はその男の話がにわかには信じられなかった。
まるでホラー小説の中の出来事のような話だ。それに、そもそもその隣人という女が男の部屋の鍵を持っていた理由も分からない。それは男自身が言ったように、その隣人は男の部屋の前の住人で、鍵の交換が実施されなかった結果、その部屋の鍵を持ち続けたということなのか。それにしてもその隣人がそんなことまでする動機が分からなかった。ただ男が気付いていないだけで、その女に恨みを買うようなことをしていたのだろうか。
「お巡りさん」
男の言葉に、篠原の思考が途切れる。
「私の話を、聞いてくれましたか?」
「あ、ああ。もちろん、聞いています。
ええと、高橋さん。隣人の女にそのようなことをされることについて、あなたに身に覚えはないのですね?」
「全くありません……。
私は怖いのです。なぜそのようなことをされるのか。なぜそのような憎悪が自分に向けられるのか。それが全く分からない。その『分からない』ということ自体が、怖くて怖くてたまらないのです」
男は死人のような白い顔で、身体を小刻みに震わせている。その姿は真に迫っており、その様子を見てもとても狂言とは思えなかった。
男は言葉を続ける。
「いきなり、こんな話をされても信じられませんよね……。
ネットワークカメラの映像は録画されています。つまり、女が私の部屋に侵入する様子は映像として残っています。
その映像は、今ここで、スマホから見ることができます。
見ていただけますか?」
「……見せてください」
男がジーンズからスマホを取り出す。そして画面に向かっていくつか操作をしてから、それを篠原の前に差し出してきた。画面の中では、夜が訪れつつあり、薄暗い闇に覆われようとしているどこかの一室が映し出されていた。
「この後、部屋の中に女が入ってきます」
しばらく見ていると、映像の中の居間のドアが突然開いた。その向こう側から、黒い塊が闇に溶け込むようにして部屋の中に入ってくる。篠原は息を飲み、その画面を見つめた。
すると部屋の電灯が突然つき、黒い服を身にまとった一人の女の背中が光の中に姿を現した。そしてゆっくりとカメラの方に顔を向ける。篠原は言葉を失う。その女の口元には、見るものを絶望させるような不気味な笑みが浮かんでいた。
男が話したように、女は机の上で何かの作業をした後に、部屋の電灯を消してクローゼットの中に身を隠す。その手には確かにアイスピックのようなものが握られているのが確認できた。そして再び部屋には暗闇だけが映し出されている。まるで女が侵入してきたことが夢の世界の出来事であったかのように、その数分前の映像と全く同じ映像がそこには映っていた。
「も、もうスマホはしまっていただいても結構です」
篠原の言葉に、男がスマホをジーンズのポケットに戻す。
「それでは、まず、あなたの住所を教えて下さい」
「はい……。H台四丁目です」
「H台四丁目……。H駅からはすぐ近くですね。
分かりました。私があなたの部屋に一緒に向かうので、案内してください」
篠原のこの言葉に、男はようやくほっとしたような表情を見せる。
もし男が語った話が本当であるのなら、少なくとも住居侵入罪に該当する。いわゆる不法侵入というやつだ。それは立派な犯罪であり、放置するわけにもいかなかった。
篠原は男を椅子に座らせたまま待たせておいて、自分は交番の奥に入った。そこには仮眠室がある。仮眠していた同僚の松田を叩き起こして、簡単に事情を説明する。そして篠原が交番を離れる間、交番に詰めておいてもらうことをお願いして、篠原は男と一緒に交番を出た。
男が篠原を先導するように少し前を歩く。
夜の闇の中に佇む街は、ひどく静かだった。駅の近くはまだ二人以外の人の姿も見ることはできたが、少し歩くと、その住宅街の細い道を歩いているのは篠原と男の二人だけになった。喋ることが禁じられているかのように、二人とも一言も喋らなかった。
十分ほど歩いたところで、男は突然立ち止まった。
「ここです」
右手を前に差し出しながら、後ろを振り返る。夜の闇に紛れて、男の表情は分からなかった。篠原が男の指し示す方向に視線を向けると、五階建てのどこにでもあるようなマンションが建っている。建物の白い外壁に取り付くように外階段が設けられていて、エレベーターは無いようだった。それぞれの階の通路にはその上に小さな電灯が設けられ、通路を照らしている。通路には誰の姿も見えなかった。
「私の部屋は404号室です。女の部屋はその隣の403号室になります。
女が私の部屋のクローゼットの中に隠れてから、カメラからは動体検知の通知は来ていません。つまり、あの女は、まだクローゼットの中で息を潜めながら、私の帰りを待ち受けているはずです」
「……分かりました」
篠原は心ににわかに緊張を感じながら、男の言葉に答える。そして無意識のうちに、腰にぶら下げている警棒と手錠を右の手で触り、装備品が間違いなく身につけられているということを確認した。
マンションから視線を外すこと無く、マンションの裏側に慎重に回り込む。マンションの四階部分に視線を向けると、ベランダが四つ並んでいた。
「404号室は、どの部屋ですか?」
一緒に付いてきた男に尋ねると、「あの部屋です。一番左の部屋です」と男は一室を指さした。ベランダには、部屋から出入りするためのガラス戸が設けられている。男が指差すベランダの向こう側のガラス戸には、真っ黒い闇しか見えなかった。少なくとも部屋の電灯は点けられていない。その隣の部屋に視線を向けると、その部屋も同じようにガラス戸の奥は暗闇だけが佇んでいた。
「では、いきましょう」
篠原はマンションの入口に足を向ける。男は何も言わずに篠原の後にぴたりと付いてきた。二人は階段を上がっていく。カツカツという金属的で甲高い音が夜の街に不気味に響いた。
四階にたどり着き、部屋の前の通路に視線を送り観察する。天井に一つの電灯が設けられていて、暗闇の中で通路を頼りなく照らし出していた。先ほど男が指さした部屋、404号室は一番奥だ。その部屋にたどり着くためには、403号室の前を通る必要がある。交番で男から話を聞いたせいなのか、その403号室の前だけ、闇の密度がやけに濃いような気がした。