第1話
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一日は何事もなく終わろうとしていた。
篠原大輔は事務机に一人座り、ディスプレイの前で書類を作成している。同僚の松田和也は深夜の勤務に備えて、二階の仮眠室で仮眠をとっているはずだ。
篠原一人しかいない交番の中は、ひどく静かだった。交番の中が静かだというのは、逆に言うと、大きな事件が起きることもなくこの地域が平和だということを意味していた。できれば、少なくとも篠原が勤務している間は何事もなく、平穏な時間が流れて欲しいと思っていた。
警察官の中には自分の実績を上げるために、多くの事件が発生することを願っている者もいると聞く。警察官も一般企業と同じで、昇進したり希望の部署に進むためには実績が必要となる。一般企業の営業職の者であれば、「実績」と言えば製品やサービスの売上となるのだろう。警察官の世界で「実績」と言えば、検挙件数や取締の件数となる。自分の周りにそもそも事件が起きなければ、検挙も何もありはしない。だから実績を上げるためには事件の多い地区の交番に配属されるのが近道なのだけど、篠原が勤めるH駅前交番はK県の中心部からは離れた小さな駅の駅前にある交番であり、事件といっても、時々、市民が拾得物として拾ったものを交番に届けに来るくらいなものだった。
だけど、出世欲が薄い篠原には逆に居心地のいい場所だった。それなりに正義感も持っており、自分の受け持つ地区で事件はできるだけ発生しないで欲しいとも思っていた。
篠原は書類作成作業に戻る。
業務の一つとして行っている交通パトロールで交通違反の取締りがあり、それについての報告書を書かなければならなかった。
篠原が警察官になって二年が過ぎようとしている。
大学卒業後に公務員試験を受け、K県警に奉職した。別に警察官になることが夢でもなかったし、小さい頃からその職業に憧れていたわけでもなかった。大学二年が過ぎようとしている時、真剣に自分の将来について考えなければならない時期が訪れると、公務員なら安定していていいだろうという現実的な考えと、どうせ働くのなら社会のために少しでも役に立つような仕事がしたいというやりがいを求める理想主義者的な考えも少しだけあって、結果として篠原は警察官を目指そうと考えたのだ。
運良く地方公務員試験に合格し、そして六ヶ月の警察学校での学びを経て、地域課の一員としてH駅前交番に勤務することになった。
新しく警察官になった者は、交番勤務をしなければならない地域課に全員配属されてそこで数年を過ごすことになる。最初に地域課からスタートすることには理由があって、新人警察官はそこで警察官としての基礎を身につけるのだ。数多くの事件を経験して司法書類の作成要領について学ぶことができるし、市民にどのように対応していけばいいのかも勉強できる。
実際に交番には様々な人が訪れる。落とし物を拾った人。家の玄関の鍵をどこかで無くして家に帰れなくて困っている人。ときには家族に関する心配事を抱えた人もやってきて、彼らの相談相手となることもある。それも警察官の仕事の一つだと考え、篠原は嫌な顔もせずに彼らの話を聞く。
その交番勤務には「夜勤」というものがあった。
今日は、篠原は夜勤だった。
十六時から勤務は始まって、日をまたいで九時半まで交番に詰めていなければならない。若くて体力のあるときにしか務まらないような過酷な仕事だった。
交通違反の報告書の作成も終わり、篠原は交番のガラスドアの外を見やる。もうすっかり暗くなっている。時々、そのドアの前をスーツに身を包んだ人たちが通り過ぎていく。日中の仕事を終え、自分の家に帰るのだろう。机の上に置かれた置き時計を見ると針は午後七時半を指している。
今夜も長い夜になりそうだ。
無意識に小さな息を吐いた時、交番のガラスドアの開く音が突然聞こえた。
篠原がドアに視線を向けると、ドアの隙間から一人の男が顔を覗かせている。
二十歳前後と思われるような若い男だった。
灰色のパーカーを羽織り、ジーンズを履いている。その顔は病的なくらいに青白く、ひどくおどおどしていた。男は篠原と視線を合わせることもなく、交番の中に視線を漂わせている。
篠原は、「どうせ、どこかで財布を落としたか何かで、焦っているだけなのだろう」と思いつつも、男に、「どうされましたか?」と声をかける。男はその声を聞いて、その交番に篠原がいることに初めて気付いたかのように視線を篠原の方に向けた。
男は怯えたような弱々しい口調で、「助けてください。あの……」と言う。ひどく小さな声で、最後は何を言ったのかも聞き取れなかった。
ここにきて篠原はようやく、その男の異常な様子に気付いた。何か重大な事件にでも巻き込まれたのだろうか、との思いが頭をもたげる。篠原は机の前の椅子を指し示し、男をその椅子に座らせた。そして改めて、「どうされましたか?」と男に尋ねた。
男は怯えきった表情で篠原を見る。
「あの女は……異常です……」
「あの女?」
「私の部屋の隣人です……。あの女は……異常です……」
男は再び「異常」という言葉を使った。
そして、最近自分の部屋の隣に引っ越してきたという、一人の隣人について語り出した。