問題編 第三話
※禍津邸敷地内の見取り図 (巡査部長が遺体発見時の七時二十分頃)
足跡には分かり易くアルファベットを付けた。
正門側から確認していくと、足跡Bは足跡Aを踏んでいる。足跡Cは足跡AとBを踏んでいる。足跡Fは足跡AとCを踏んでいる。裏門では、足跡Eが足跡Dを踏んでいる。
いずれも、飯井巡査部長が遺体を発見時、つまり七時二十分の足跡状況である。
僕達は、このアルファベット順に聞き込みをして回ることにした。
A
足跡Aは邸宅の主であり、被害者本人。つまり禍津神之介だ。死人に口なしゆえに、聞き込みもなにもない。
だが後に、彼が往復の足跡を残した理由は判明した。村に一軒しかない旅館兼食事処、つまり岩長旅館で夕食を取ったことが、若女将の岩長と料理長の遠津の二人から、証言を得られた。
禍津は温泉に浸かってから帰宅したという。時刻は行きが十七時半頃。そして帰りが十九時頃。
更に近所の住民が、彼が帰宅して前庭に入るところを目撃していることから、帰宅時間の十九時を裏付ける証人もいる。
足跡が綺麗に往復している状態を鑑みるに、門をくぐったが忘れ物をして引き返したなどの、住民の証言をひっくり返すようなパターンはないと言えた。
B
足跡Bは隣町から来ている女性配達員、大国主李のものであった。
しかも彼女は、僕達と同じ岩長旅館に二十時半頃から泊まっていた。この町に宿泊施設は一軒だけなので、当然といえば当然だが。
事情を伺うと、案の定、土砂崩れによる通せんぼで、隣町の営業所に帰れなくなっているらしい。
「ほんと、年の瀬に運に見放されたって感じっすよ。土砂崩れのせいで仕事に戻れないばかりか、配達先で殺人事件、しかもわたしの足跡が残ってるからって容疑者扱いっす。こんな出来事、人生で遭遇するとは思わなかったなー」
口を尖らせながら愚痴を零した。
「あなたが配達したときのことを具体的に教えてくれませんか。何時のことでしたか?」
先生は大国の憂いには取り合わず、根本の話を問うた。
「……ん、ああ。警察に協力してる探偵らしいっすね。駐在所から電話を受けて驚きましたよ。本当にいるんすねー、そういう名探偵的な人。――で、えっと、知りたいのは昨夜のことすか? 禍津さん宅の配送の時間指定が二十時から二十一時だったんで、それに間に合うように会社の車で向かって、路肩に止めました。そのときの時間は二十時十分すね。指定時間より早めに届けると五月蠅い人もいるんで、自信はあるっすよ」
「こちらとしても、仔細にわたる供述は助かります。到着はその時刻として、邸宅から車で去った時刻は覚えていますか?」
「置き配した記録が十一分ってのが残ってるから――ほらこれ、置き配した証拠写真ね」
会社の決まりなのだろうか。置き配を斜め上から写した写真が差し出される。僕が夜分に見たときは、確かに宅配ボックスの蓋が外れかけていて、中身は回収されていたわけだが……。
「門から邸宅まで一分で歩いたとして。帰りも一分。車内で次の配達先をパッドで確認してから動いたから、だいたい十三分ってとこじゃないっすかねぇ」
僕も脳内でトレースしてみる。車内で要した時間は定かではないが、彼女の言動に違和感を覚えるような点はないはずだ。
まとめると、大国は二十時十分に門の前に着き、再び車を走らせたのが二十時十三分、その直後に土砂崩れによって引き返し、駐在所に通報してから、岩長旅館に二十時半頃に泊まった。と、現段階では具体的な証言を聞き出せた。
「これは単なる確認なんだが、邸宅の玄関までは一往復しかしていないね?」
「そりゃそうっすよ。届けただけなんですから」
これが不在届による再配達だったら、足跡の量は二倍になっていたかもしれない。先生はそういう意図で訊いたのだろうと僕は思った。
C
Cの足跡は禍津神之介の甥である、禍津日人のものだった。
「こんにちは。日人くんだね? 私は駐在所の飯井巡査部長に協力している者だ。これは警察の聞き取りと同一のものと解釈してほしい」
バイト帰りの時間帯に待ち伏せた彼は、眉根を僅かに上げて僕達を見ていたが、やがて無言で頷いた。
「さて、昨夜何をしていたか、そして禍津さん宅を訪れた経緯を訊かせてもらえるかな?」
「昨日は……友人の家でオールする予定だったんだけどよ。叔父から東京に出向く予定が急遽入ったから、お年玉を先に渡しておきたいって連絡が夜の八時にあったんだよ」
「ほう。連絡は何を用いているのかな?」
「スマホのアプリさ。レインってSNSアプリ。おばさんSNSって分かる? そういうのがあんだよ」
失礼な。先生はまだまだ若い部類に入るはずだ。そんな僕の胸中など余所に、彼は続ける。
「家に寄って欲しいと連絡が来てたから、仕方なく一旦、俺だけ切り上げて叔父の家に向かったんだ。そしたら呼び鈴もでねえし、玄関も閉まってるじゃねえか。俺との要件をすっぽかして寝たのかと、少しだけ一階の窓が開いてないか、探ってみたんだ」
「邸宅の外周にある足跡は君のってことだね。だが、半周もしない中途半端な足跡しか残っていなかったのは、どういったわけなのかな」
気まずそうに目を逸らしながら、
「そりゃ寒かったからってのが一番の理由だけどよ……。人を呼び戻しておいて鍵掛けて寝てる叔父を想像したら腹が立って、どうでもよくなったんだよ。お年玉を貰う方法はいくらでもあるし、まだまだ友人と遊んでいたかったしな。だから切り上げて友人の家に戻った。それだけさ」
「おおよその時間は分かるかい?」
「九時ぐらいに取りにこいって言われてたから、そんくらいに向かったぜ。帰りの時間? 覚えてねぇよ。友人らに聞けば少しは分かるかもしれねえな」
後にそれぞれの友人を訪ねてみたところ、彼ら曰わく、日人は八時五十分に席を外し、九時二十分に戻ってきたという証言が得られた。不在時間は三十分。疑問視するほど長時間でもない。
再度友人と遊び始めてから解散したのは、次に訪問する足跡Dの人物が、不審なハガキを見つけた午前七時頃だったという。
D
足跡Dの人物は、近所に住む禍津の友人、伊豆能史のものだった。
他の容疑者と同様に、いつどうして邸宅を訪問したかを問う。
「郵便ポストを開けたら、早朝に家に来て欲しいと書かれたハガキが入っていたんだ。消印もなく直接入れたことが分かる年賀ハガキで、ぶっちゃけ怪しくはあったんだが、急用もないし訪ねるだけ訪ねることにしたんだよ。彼とは親しくしていて、最近はオセロを二日に一回はやっていてね。49勝49敗なんだ。次は絶対に負けられないからね」
特段聞いてもいないことを楽しげに語ったあと、現実を思い出したかのように、伊豆の笑みが薄らいでいく。
「……そうだった。もう決着は付けられないんだったね」
「……ご愁傷様です」
僕にはそう口にすることしか出来なかった。
「禍津さんを訪ねるときは、いつも裏口から入っていたんですか?」
「ええ、家の方角的に裏門の方が効率よくてね。気心の知れた当初は、正門からお邪魔していたんだが、やがて裏口からでいいと言われ、お言葉に甘えさせてもらっていました」
関係性が目に浮かぶようだ。
「郵便ポストなのですが、毎日誰がいつ頃確認していますか?」
「ああ、うちは私が七時頃に起きて、中身を取りに行く習慣になっているなあ」
「それを知っている人はいますか?」
「息子はもう他県で就職しているし、妻は数年前に交通事故で……ね」
訊きづらいことを先んじて話してくれるのは有り難い。
「だから、そう言われましてもなあ……。私がそういう習慣だと気付いている住民は気付いているだろうし、知らない人は知らないだろうなあ、としか」
つまりは、誰が知っていたとしてもおかしくはないという話になる。偶々、早朝の習慣を知っていた犯人が、伊豆を第一発見者に利用したのだろう。
「いやはや、振り返ってみると、裏口の鍵が開けっぱなしで不用心だなと思ったし、――そもそもハガキなんておかしいと疑うべきだったよ。今年からはスマホのアプリで連絡を取り合うようになっていたのでね」
「ほう。レインですかね? ちなみにあなたと禍津さんがアプリを用いてやり取りしていたことを知っている人物は、どれくらいいますか?」
「うーんそれもなあ……、私は誰にも話したことないな。けれど、禍津さんが誰かに話したかどうかまでは分からないよ。わざわざそんな話をしないし」
「それもそうですね」
アプリの連絡に関しても、知っている人は知っている、つまり誰でも知り得た可能性だけが残されたわけである。
結論としては、二人のアプリでのやり取りは知らないが、伊豆が朝にポストを開けることを知っている人物が犯人……。それを見極めるのは、幾らでも可能性がありそうで、絞り込むのは困難を極めそうだった。
E
残るは足跡Eだ。
僕達は先に駐在所に戻っている飯井巡査部長の元へ向かった。
ガラガラと戸を開けると、彼は椅子から前のめりに立ち上がり、鹿爪らしい顔で訊いてきた。
「捜査はどうでしょう。捗っていますか?」
「ええ、おかげさまで。もう少しで犯人が特定出来そうですよ」
同じものを見てきたはずなのに、先生の思考は僕の遙か先を行っているらしい。
「飯井巡査部長にお尋ねしますが、伊豆さんから通報があったときのことを教えてもらえますか」
「構いませんとも!」
柔和な笑みで駆け寄ってくる。書き綴られた手帳のページをぱらぱらと捲りながら、
「ええっと、伊豆能史から通報があったのは、僕が出勤して早々のことでした。七時十分ですね。伊豆さんは酷く動揺した様子でして」
彼は唐突に一人二役を始めた。
『飯井さん、早く、早くきてください!』
『落ち着いて下さい。いったい何が起き……いや、まずはどこにいるんですか?』
『……し、神之介さんの家です! ま、禍津神之介さんが大変で! とにかく! 急いで、急いで!』
『分かりましたから落ち着いて。ほうら深呼吸深呼吸。すぐに向かいますからね』
『すー…っ、はぁー。裏口は開いてましたんで、急いでくださいよ!』
『はいはい』
すっと表情を戻すと、
「まぁ、こんなやり取りをして電話を切った後、直ぐさま邸宅に向かったわけです。そしたらなんと、禍津さんが、しかも他殺の可能性が大きいだなんて……」
「なるほど」
「ええ、まさか殺人事件の通報だと思わず、伊豆さんの足跡を踏んでしまいましたよ。帰りは二人で足跡を避けましたが。これは鑑識に怒られるかなあ」
土砂崩れが復旧した後のことを憂いているようだ。
「もう一つ、足跡Fは間違いなく他の足跡を踏んでいたのだね?」
おや、と僕の脳が危機を察知する。
「足跡F……? って、それは僕の足跡じゃないですか!」
「勿論、裏取りを行なっているのだよ。君が犯人の可能性もあるわけだからね」
「そんなぁ……」
先生がどんな小さな可能性でも潰していき、唯一解を導く推理をすることは、身近な僕が一番理解しているつもりだ。それでも容疑者候補に名を連ねるというのは、心臓にくるものがある。
「ええ、それは間違いないです。最初は避けようとカーブを描いて禍津さん宅に向かったようですが、玄関に差し掛かる辺りで、禍津神之介さんと日人さんの足跡AとCを踏んでいましたねぇ」
あのときは全て避けたつもりだったが、見落としていたようだ。それで身の潔白を晴らせるなら、喜ぶべきか。
「ありがとうございます。では、もう一度質問したい人物がいるので、我々は失礼しますよ」
帽子を頭に乗せ、来た道を戻る先生を、慌てて僕は追い掛けるのだった。
再び家を訪問したのは、足跡Dの人物、伊豆だった。
「あれ、探偵さん。忘れ物でもしましたか?」
「ええ、私としたことが、訊くべきことを一つ忘れていましてね。ハガキを読んで邸宅に向かったとき、裏門から邸宅までの間には足跡はありましたか?」
彼は真剣そうな面持ちで、思い出すように腕を組み、
「いやぁ、なかったはずだ。裏庭は一面真っ白な新雪が積もっていたと記憶しているよ」
「そうですか。ではもう一つ、巡査部長が到着してからなのですが、お二人が互いに視認できない距離を置いた記憶はありますか?」
「えっと、一つと言いませんでしたっけ……?」伊豆は語尾を飲むと、再び黙考してから答える。「いえ、これもないはず。リビングでは上げ下げ窓の確認でそれなりに離れたかと思いますけれど、常に私の見える位置にいましたよ」
「それはどうも。では」
再び鹿撃ち帽を頭に乗せると、踵を返して歩いていく。
「質問はもうありま……って、行ってしまった」
呆気にとられている伊豆に、僕はぺこりと頭を下げ、先生を追った。
「先生! はぁ、はぁ……。たったあれだけの質問をするために?」
「重要なことさ。これで最後に容疑者から除外すべき人物を除外出来て、安心したよ」
先生の双眸は鋭く、論理の道の先にいる犯人を見据えているようだった。
「では、ついに追い詰めたんですね。論理的に犯人を。……ですが僕には、足跡の状況からして、誰もが犯行は不可能だったとしか思えません。まさに、足跡なく彷徨う死神の所業のような……」
「死神など、歴史的なパンデミックの付随に過ぎないと教えただろう? それに私を誰だと思っている。さてと、解決編は暖かい旅館で行なおうか」
帽子の鍔をくいっと上げ、僕を見下ろす先生は、頼もしい表情を湛えているのだった。