問題編 第二話
「あー、申し訳ないのですが、現在立て込み中でして」
ガラガラガラと立て付けに不備のあるガラス戸を開けるや否や、駐在所内で一人忙しく動き回っている男は、僕達を一瞥するなりそんな言葉を飛ばしてきた。仕事の手を休めようとはせず、複数の書類を手に、朝から多忙そうな様相を呈している。
僕達が去らないのをもう一瞥して確認すると、迷惑げにスポーツ刈りの頭を掻きながら、
「土砂崩れで通れない件ですよね。こちらとしても上に連絡は取っているんですが、復旧はいつになるやらでして……」
僕達の要件を勘違いするほど、困り果てているようだ。
「ほう、土砂崩れが起きたのですか」
先生は所内に入ると、鹿撃ち帽を脱ぎ、両手に抱えた。インバネスコートの下は、お馴染みのイギリス式スーツでびしっと纏めている。ちなみに僕は、コートの下はにニットとジーパンといったラフな格好だ。
男は棚のファイルに指をなぞらせながら問う。
「観光の方ですよね。そういうわけなんで恐縮ですが、岩長さんとこにお泊まりでしたらそのままお待ち下さい。私からも旅館には事情を伝えておきますんで。私の方は『別件』で手一杯でしてねえ」
「お時間は取らせません」
「はい?」
頑なに去ろうとしない僕達が、ようやく一般的な観光客ではないと察した男は手を止めた。こちらに寄ってきて、僕と先生を交互に眺めた。
「私はこういう者でして」
先生が内ポケットから名刺入れを取り出すと、男は渋々といった表情で受け取る。やがて、口許をわざとらしく曲げ、
「あの名探偵の? はははっ、こんな辺鄙な村に名探偵殿がいらっしゃるわけないじゃあないですか。悪戯が過ぎると検挙しちゃいますよ?」
駐在所ジョークはたいして面白くない。
「押し問答する時間が惜しいので、こちらもご用意してあります」
先生からスマホが差し出されると、いよいよ眉間に皺を寄せてから、諦め半分といった体でおもむろに耳に当てる。
「もしもし?」
律儀に通話に出たが、暖簾に腕押し状態だった彼も、数秒後には顔色が一変。
「……えぇっ!? はい、はい……! それはもう、私からご協力を賜りたいほどです!」
通話の相手は所轄署の者だろうか、はたまた県警察本部の誰かだろうか。毎回お決まりの流れではあるが、過去の実績ゆえに先生の伝は何処にでもあるという事実を、改めて思い知らされる。
通話を終えた男は爛々とした表情で、
「本当に名探偵殿とは……! わわ、わたくし、実は貴殿の隠れファンでして!」
「それは何かと好都合ですね。ちなみに先ほどおっしゃっていた別件というのは、もしや只ならぬ事件が起こったのではありませんか?」
「え! ……どうしてお分かりに!?」
「なに、ちょっとした推理ですよ」
先生は得意げな顔をする。
「さすが、稀代の名探偵殿ですねえ!」
男は先ほどと打って変わり、胡麻をするほどにこやかな笑顔だ。
僕から聞いただけ、とネタばらしをしたら落胆するだろうか。
「――と、私はこの村の駐在所に勤務する飯井金繁と申しまして、階級は巡査部長であります」
「では飯井巡査部長。早速だが、今分かっている状況を教えて欲しい。それと私達にも現場を拝見させてもらえるかな」
「承知いたしました!」
巡査部長は律儀に敬礼をした。
それからの現状把握はつつがなく進んだ。
通報を受けた巡査部長が禍津邸に駆けつけ、遺体を確認したのが午前七時二十分。現場は一階のリビングだった。通報者は朝のルーティーンで自宅のポストを開けたところ、怪しいハガキ見つけ、誘われて遺体を発見する次第となったらしい。
僕達も早速邸宅に向かわせてもらった。
正門には立ち入り禁止の黄色いテープ。貼り方が雑で、慣れてないのが分かる。今までは人殺しなどとは無縁の村だったのだろう。噂を耳にしたらしき住民のお婆さん達が、遠巻きにひそひそ話をしていた。
裏庭には、直線の足跡が二筋と、それを避けるような湾曲した足跡が残っている。遺体を発見したときの現場保存として、巡査部長達は帰りは弓なりに歩いて去ったのだろう。僕達も倣うように湾曲した箇所を歩き、裏庭を横断して裏口から邸内に入る。
現場の一階リビングには、先程訊いたとおりの状態でぴくりとも動かない、変わり果てた禍津神之介の姿があった。仰向けでソファからずり落ちそうな体勢で止まり、目をかっと見開き虚空を見つめている。服装は家着と思われるフリースだ。
昨日普通に会話をした人間が、亡き者となっている。僕にとっては初めての体験であった。
遺体の状態確認は、巡査部長よりも先生の方が手慣れていた。数秒の間合掌してから、遺体に触れ始める。
「胸部以外に目立った外傷は見当たらないな。口腔内にも毒物を思わせる臭いは感じられない。無論、臨場した鑑識が採取のうえ、科学捜査官に検査してもらわなければ、無味無臭の毒物という線も拭えないが……ただ」
凶器については一目瞭然と思われた。仰向けに倒れている禍津の胸部には、ほぼ垂直にステンレス製のハサミが突き刺さっている。
「ハサミによる一突き、でしょうか」
僕は問うた。
「ああ。運悪く肋骨の隙間を縫って、重要な臓器を損傷したことが死因と見られるね」
引き抜かれていないため、出血は少ない。後々、ハサミはこの家の物であることが分かり、突発的な犯行の可能性が大きいことも判明した。
彼女は白い手袋を付けた手で、慎重に遺体を横にして衣服を捲る。
下部には死斑が出始め、死後硬直が進もうとしているようだった。
「通常なら死後硬直はおよそ二時間後から始まる……と言いたいところだが」
顔を上げた先生の視線の先を、僕も追う。
リビングの東側に位置する上げ下げ窓が開けられていて、室内は冷え切っていた。犯人による子細工だろう。その為、死亡推定時刻の見定めが難しく、大幅に取らざるを得ないわけだ。
「死亡推定時刻は、昨日の午後十七時から午後二十三時といったところか」
流石に胃の内容物までは調べることが出来ない。本来なら土砂崩れに煩わされず初動捜査が行なわれ、鑑識や検視官、そして司法解剖の末に胃の中身が分かれば、昼食や夕食の消化具合から死亡推定時刻をかなり狭めることが出来ただろう。
「つまり、全く当てにならないってことですね……」
「早計だよ。敷地内に限られた足跡が残っている以上、雪密室と言える状況だ。容疑者を特定してからでも遅くはない」
上手くいけば、足跡だけで犯人を絞れるが、果たして。
「そういえば上げ下げ窓ですが、先ほど飯井さんがおっしゃってましたが、経年劣化の関係か途中までしか開かないんですよね」僕は窓に近づき、矯めつ眇めつ眺める。「子供でも通れそうにないですね」
「大人ではせいぜい腕が入るくらいだろうな――飯井巡査部長。邸内のドアや窓の施錠状況を木花と確認してきてくれないだろうか?」
直立して待機している彼に、先生は要望を投げ掛けた。
僕は巡査部長の後について、寝室、書斎、洗面所、廊下など、一階と二階の窓がある場所を徹底的に廻っていき、リビングに帰還した。
「一通り見てきましたけれど、ここのリビングの上げ下げ窓以外は、どの部屋も内側から施錠されていましたよ」
「玄関もでしたね」
僕は昨日、玄関を開けようと試みて、開かなかったことを思い出す。
「ええ、玄関も鍵が掛けられていました」全て二人で確認したから間違いはない。「――ああそういえば、裏口だけは鍵が開いていましたねぇ。そこから第一発見者が入って、リビングの遺体を見つけたらしいですので」
「えっ?? 裏口だけ、開いていたんですか?」
僕は素っ頓狂な声を発した。たしかに何処かしらが開錠されていなければ、発見には至らなかっただろう。
「私は犯人がわざと開けておいたと考えていますが……まあそれについては、後で発見者の方に直接訊いていただいた方が早いと思います」
巡査部長がそういうならば、後回しにした方が得策と判断した。
「玄関の鍵については、どこにあるか知っているかい?」
「玄関の靴箱の上に小物入れがありましてね。その中のキーケースに仕舞ってありましたよ」
「ふむ。それならば玄関から平然と出入りした犯人が、外部から上げ下げ窓を通して室内に鍵を戻すというトリックは使えそうにないな。スペアキーがあれば別だが」
リビングと玄関の間には曲がり廊下がある。小型のドローンを駆使しても、余程の達人でない限り困難に思えた。
「鍵が一つだけなら、足跡を残している人物が容疑者候補となりますね」
そこまで言って、僕はふと考える。
「足跡の中に容疑者……。窓が開けられているのは死亡推定時刻を誤魔化す為と思わせて、遠距離から凶器を投擲して殺した可能性はありませんか?」
「君も思考するようになったではないか。しかし詰めが甘い。こんな寒さだ。窓が開いていたとしたら、禍津さんはすぐ閉めるだろう。凶器の選択に関しても謎だ。室内の殺人に見せ掛けようとハサミを選ぶところまではいいが、どうやって投擲や射出をし、どう運良く肋骨を避けて致死に至らせたのか。遠隔殺人を考えるならば、犯人の行動計画に謎が多すぎるね」
「確かに……」
我ながら天啓を得たと思ったが、そもそも二メートルの板塀によじ登ってリビングに現れるのを待っていたのかと思うと、シュールな絵面しか浮かばなかった。
「現場で分かることはこれぐらいだろうか」
先生が調査の節目を告げると、
「ここからは、私の腕の見せ所ですな!」
と、飯井巡査部長は意気揚々と声を上げた。
足跡の人物、つまり容疑者の特定には時間を要しなかった。人口の少なさというのもあるが、巡査部長は優秀であるようだ。どうしてこんな村、というと失礼だが、駐在所に勤務しているのだろうかと疑問に思うくらいだった。
「名探偵殿のサインを頂けたら、より頑張れるのでありますが~……」
加えてなかなか神経が図太い性格の持ち主だ。警察官としてはプラスに働くのかもしれない。そして驚くべきことに、彼は想像以上の仕事をこなした。
すでに聞き取りをして判明していた靴の種類、サイズによって、誰がどのルートを歩いたかを特定(次エピソードの見取り図を参照)。
邸宅の外周には足跡は一切なく、徒歩で入った人物は玄関か裏口のどちらかに足跡を残すのみであった。
そして事細かな、しかし非常に有益な情報まで明白にしてくれた。それは容疑者の体重などを考慮したうえで、足跡は二回踏まれた形跡はないことと、新雪に足跡を消した形跡がないことの二点。すなわち足跡の人物、あるいはそれ以外の人物によって、同じ足跡を二重に辿った形跡はなく、足跡を隠滅した可能性も考える必要がなくなる。
具体例を挙げれば、実は時間をずらしてもう一度邸宅を訪れていた、あるいは、容疑者圏外の人物が往復した足跡を消した、というトリックめいたことをした怪しい人物は存在しないことを意味した。
玄関のスペアキーの有無については、幸運が味方した。玄関の鍵はつい先日に壊れたばかりで、隣町の鍵職人に特注で依頼していたという。その人物との通話によれば、スペアは作っておらず、邸内で発見された一本のみが、唯一外側から玄関を開けられるものであると証言を得られた。
次のエピソード冒頭に見取り図を載せます。