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9 出汁


 久我が室長会議から帰ってきたのは、会議が始まってから5時間後だった。定時はとっくに過ぎ、外はどっぷりと暗い。逢坂以外の研究員は退勤していて、ラボはいつになく静かだ。


 任務の報告書を作っていると、靴底を床に擦るように歩く気だるげな足音が、廊下から聞こえてきた。逢坂はいったんパソコンを閉じて、コーヒーを淹れる準備をした。きっと彼の第一声は「逢坂、コーヒー淹れて」だからである。


「……あ? 逢坂、まだ帰ってなかったのかよ……まぁいいや、コーヒー淹れて」


「ブラック?」


「あぁ」


 久我は椅子に体を沈めるように腰掛けると、大きく長いため息を吐いた。随分とお疲れのようだ。


「お偉いさん同士で5時間も何を話してたの?」


「下らない話半分、真面目な話半分」


 それは、「下らない話をする幹部が半分いて、真面目な話をする幹部が半分いた」ということだろう。幹部だからといって正しいことをする人ばかりとは限らない。中には私利私欲にしか努めない人もいる。


「時間外に失礼いたします。こちらは飛行経路専門研究室ですか?」


 湯気の立つマグカップを久我に渡したとき、ラボの出入り口から声が聞こえた。振り返ると、パイロットの制服を着た男性が、ドアの前に立っていた。胸ポケットに二等空佐のバッチが付いている。


「佐伯二等空佐!」


 久我は叫びながら、椅子に沈めていた腰を勢いよく持ち上げた。


 室長補佐という仕事柄、各部署の「偉い人」を久我はよく知っている。しかし、そういう「偉い人」に疎い逢坂でも佐伯二等空佐の名前は知っていた。「鬼監督官」という異名をもつ有名人だ。そんな人がこんな時間に、ましてやFPLに何の用だろうか。


「久我くんか。先ほどの会議では世話になったね」


「こちらこそお世話になりました。FPLに何かご用ですか?」


 久我は言いながら、佐伯二等空佐の方へ歩み寄る。シャキッと背筋の伸びた姿勢は、さっきまでぐったりしていた男と同一人物とは思えない。


「いや、お会いしたい方がいてね」


 佐伯二等空佐はそう言って、久我の後ろに目を向けた。


「逢坂さんですね?」


 なぜ平研究員の名前と顔を、佐伯二等空佐が知っているのだろうか。疑問に思ったが、狼狽している場合ではない。逢坂は急いで進み出て行き、久我の斜め後ろで気を付けした。


「はい、逢坂せつなと申します」


 歯切れよく逢坂が言うと、佐伯二等空佐は意外にも微笑んだ。強面の人が笑うと、なぜこんなに優しそうに見えるのだろうか。笑顔があまりにも穏やかで、その場の緊張が和らいだ。和らいだ瞬間、佐伯二等空佐は驚くべきことを口にした。


「体調の方は戻られましたか?」


「え?」


 思わず聞き返してしまってから、慌てて口を押える。しかし、佐伯二等空佐は柔らかな物腰で続けた。


「昨日、体調不良で倒れたとの話を耳にしました。回復されたようで何よりです」


 じろりと久我を睨むと、久我は「無実だ」とでも言うように、小刻みに首を横に振った。「じゃぁなんで知られてるのよ?」と逢坂が睨み付けると、久我は「知るか!」と眉を吊り上げた。二人の無言の攻防に、佐伯二等空佐は「ハッハッハッ」と低い声を響かせて笑った。


「私の部下から、逢坂さんを医務室まで運んだという話を聞いたのです。決して久我くんが吹聴したわけではありませんよ」


 久我の冤罪を晴らした後、佐伯二等空佐は真面目な顔付きになった。


「実は、その部下が今日の任務で逢坂さんに大変失礼な態度を取ったと聞きました。申し訳ありません」


 と、佐伯二等空佐は頭を下げた。


 鬼監督官と呼ばれるあの佐伯二等空佐が、自分に頭を下げている。その事実に、逢坂はどうしたらいいか分からず、チラリと久我を見上げる。久我は、真面目な顔つきをしていた。これは、何か考えを巡らせているときの顔だ。この男、何か企んでいる。


「つきましては、また日を改めて私と本人で謝罪に伺いたいと思っております」


 頭を上げてから、佐伯二等空佐はまた驚くべきことを言う。


 機体操縦室には、昨日、お姫様抱っこの件でお世話になったばかりだ。なのに、今度はタメ口単独行動パイロットが(それも佐伯二等空佐同伴で)訪ねてくるなんて、FPLの酒のさかなになるのがオチだ。ここは断固として断らなければ。


「これほど丁寧に佐伯二等空佐にご対応いただき、かえって申し訳ないです。私は全く気にしていないので、どうかそのパイロットさんを許して差し上げてください」


「いえ、それでは彼にとっても機体操縦室全体にとっても示しになりません。筋の通らないことはしたくないのです」


「でも、昨日、私は機体操縦室の方にお世話になったばかりです。これでお相子ということにはなりませんか?」


「残念ながらなりません。私の部下のしたことはそれだけ重いことなのです」


 佐伯二等空佐に全く引く気配がない。チラリと久我に目配せをして、助けを求める。久我は視線に気付くと、「仕方ねぇなぁ……」というように小さくため息を吐いた。そして、コホンと咳払いをして、佐伯二等空佐を見据えた。


 よかった。久我が間を取り持ってくれればなんとかなる。


「謝罪は佐伯二等空佐にしていただいただけで十分です。それほどまで逢坂のことを気にしていただき、ありがとうございます」


 ふぅ、なんとかなりそうだ。


「ですが、それだけでは機体操縦室のためにならないということでしたら、私に提案があります」


 おっと、雲行きが怪しい。


「提案とは?」


「今回の任務について、FPLと機体操縦室で意見交換の場を設けていただけませんか?」


「意見交換ですか」


「えぇ。任務中は常にバディとなって動くにも拘わらず、我々はお互いのことを何も知りません。FPLと機体操縦室で意見交換ができたら、今後の任務にもよい影響が出ると思いまして」


「なるほど、それは妙案かもしれない」


「毛利室長には私から話を上げておきます」


「分かった。私も話を通しておこう。逢坂さん、そのときはどうぞよろしく」


 あぁ。またダシに使われた。




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