60 退院
時刻は正午。報告書の作成が終わってなかろうと、食堂に強制連行される時間だ。最初の頃は「あと1行で切りがいいから!」と抵抗を見せていた逢坂も、結局は久我に無理矢理パソコンから引き剥がされるのだから、抵抗する体力も勿体ないと思うようになった。今では、パブロフの犬の如く、正午の時報とともに食堂へ行く準備をするようになった。
「そういえば、行かなくていいのか?」
鮭の切り身を突きながら、久我は主語のない問いを投げかけた。
「どこに?」
ラーメンの湯気をフーッと吹き払いながら逢坂が聞き返すと、久我は箸を止め、呆れた顔をした。
「今日退院だろ? 穂浪さん」
「あぁ」
「あぁって……あの人泣くぞ?」
「昨日お見舞いに行ったら元気そうだったし」
「だからってなぁ……」
「そうですよね、同僚でも先輩でも後輩でもなく、ましてや恋人でもない俺の退院に、逢坂さんが付き添ってくれるわけありませんよね……」
落ち込んだ暗い声に、逢坂と久我は同時に振り返った。そこには、包帯だらけの左上肢をアームホルダーで吊っている穂浪が立っていた。
「でもいいんだ……逢坂さんが1回だけでもお見舞いに来てくれたんだから、それだけで俺は……グスン、」
「退院おめでとうございます」
ナルトを箸で摘みながら逢坂が言うと、穂浪は「ありがとう」とニパッと笑い、隣に腰掛けた。この切り替えの早さが、久我と違って扱いやすい理由だ。
「肩の具合はいかがですか?」
「逢坂さんに会えたから、もう元気です!」
「全治1か月って聞きましたけど」
「病は気からって言うし」
「ご無理なさらず」
「ありがと。優しいね」
にこにこしながら見つめてくる視線に気付かないフリをして、逢坂はズゾゾゾとラーメンを啜った。お茶を飲もうとコップに手を伸ばしたが、すでに飲み切ってしまっていたことに気付く。
「穂浪さん、お茶飲みます?」
立ち上がりながら尋ねると、「飲む」と返事をしたのは久我だった。無視するが、しつこく空のコップを差し出してくる。「あ、自分でやります」と立ち上がろうとする穂浪を、逢坂は「怪我人は座っててください」と言って椅子に戻した。そして、手にグイグイと押し付けられている空のコップをひったくるように受け取り、ドリンクサーバーへ向かった。
去って行く逢坂の背中を見つめながら、穂浪は微笑んだ。
「優しいですね、逢坂さん」
久我は穂浪の表情をチラリと見た後、
「……現場復帰はいつになりそうですか?」
たくあんに箸を伸ばしながら、さりげなく話題を変えた。
「来週からリハビリを始めて、経過によって復帰時期を決めるそうです」
「復帰できるならよかったです。パイロットは体が資本ですから」
「久我さんの応急処置のおかげです。救護室の人たちも言ってました。処置が素早く的確だったから死なずに済んだねって」
「縁起でもないこと言いますね、救護室」
「事実ですからね〜」
穂浪が明るく笑うと、会話はそこで途切れた。多くの局員が行き交う食堂はガヤガヤと賑やかで、二人の間に流れる沈黙が余計に静かに感じられる。




