そのニジュウ 祝子(そのイチ)
「先生」仁美はきっと土屋の顔を見つめて言う。
「あたし先生の御本、大切に読ませていただきます。今までのも、これからも。先生の御本は……嘘だけど、嘘じゃない。全部先生の真心が詰まってる。
先生これからも、あたしたちにもっと教えて下さい!」
「ありがとう」
うつむき気味にうなづく土屋。その場に流れる優しいが重い、侵し難い雰囲気。
「いただきます」と口を切ったのは早苗だった。もうすっかり冷たいコーヒーカップに唇をつけて軽く一口、そして。
「先生。私からも是非、お伺いしたいことがあります。私の生まれ育った鴻神神社の本当の御祭神様は、蛇神様。そうなんですね?」
蛇神様。早苗は噛み締めるようにそう口にする。
「私はまだ未熟者、修行中の身です。お師匠からはまだ、隠し神に在らせられる蛇神様の御名前を、正式に伝えていただいておりません。今ここで先生からそれをお伺いするのは……ズルですね。おじいちゃんには怒られちゃうかも。
でも。私は知りたいんです」
「いや、君には隠せない、隠す意味も無い。彼女が天から見ているのだから。
その通りだ早苗くん。ここ昴ヶ丘の、君の鴻神神社は、この日本でただ一つ!蛇神の魂を神として祀るための社なんだ。
千年前、蛇神はその霊を鎮めるため、一度は貴船大社に密かに合祀された。だがすぐに、それがこの昴ヶ丘に祀り直されたんだよ。それも秘密裏にね。
早苗くん、なぜ蛇神は神として祀られながら、その存在を隠されたのか。たとえ一度人や世に仇為した存在であっても、顕かな神として祀られ世に崇められている例はいくらでもある。例えば君たち学生に、かの道真公がおられるように。では蛇神は何故?」
土屋の言葉は、早苗の知りたい疑問を先取りしていく。
そうだ、現に鴻神の家に生まれ育った自分にさえ、何故その名は隠されてしまっていたのか。
「蛇神の強大な、しかもあの凄まじき荒ぶる神力は。ある種の人間達にとって極めて魅力的だった。悪しき誘惑だったんだよ。
——八岐大蛇。もちろん知っているね?」
「……?、ヤマタノオロチ……ですか?あの?」
真剣な眼差しで土屋を見つめていた早苗は、唐突に出てきたその名に小さく驚き、思わず仁美と顔を見交わす。
日本神話の、それこそ誰でも知っているその怪物。
「素戔嗚尊が退治したと伝えられる蛇の怪物、八岐大蛇。恐ろしい怪物だがその大きな力の故に、やがて一部では信仰を受ける存在になった。そのことも君たちなら知っていると思う。
無論、大蛇信仰は本来、純粋素朴な民間信仰だよ。伝説の八岐大蛇は……もちろん力無き空っぽの神などとは私は思わない。特に私たち妖怪にとっては遥か太古の偉大な祖先とも言える存在だからね。ただいかんせん、世に在った時代が古すぎる。最早その力のあり場所も呼び出し方も、私たち妖怪ですら知るよしも無いくらいでね。だから人間の大蛇信仰も禁じられてはいなかった。太古の神を遠く崇めるだけなら、何の害悪も咎もあるべきはずがない。
しかし蛇神は違う。もし悪意をもってその神力を横奪しようと、それなりの力あるものが企めば!
千年前、蛇神が日本に現れたことで。大蛇信者のさらにごく一部に、邪な者が現れたんだよ。八岐大蛇と蛇神を混同・同一視し、外法の妖術を用いてその力を呼び出しこの世の転覆を企てる……そんな邪神崇拝の徒が!
そうだね……千年前と言えば、君たち人間には遠い過去の話と感じると思う。だが彼らは残念ながらまだ……」
「それで!」「や、それって!」食い気味の二つの相槌、早苗が先か、それとも同じく土屋の言葉に引き込まれていた仁美の方だったのか。
八岐大蛇を崇める邪信の徒。確かにその存在は、遠い昔の話などではないらしい。
もしかして、いやそうよ、そうかアイツは。この場の皆にはリアルに思い当たる節があり過ぎる。
ケバケバ女——八ッ神恐子!間違いない、第一名前がそれっぽ過ぎる!!
この際、珠雄がいっそう首を縮め気味だったのは、幸い誰にも気づかれていなかったようだが。
「蛇神が貴船に祀られたのはもちろん秘密だったが、すでにその当時から、秘密は早々と知られてしまったんだ。もちろんうっすらとした噂程度でね。だが邪信の徒にとっては動機はそれで十分。その活動の影響が世の陰に日向に現れ始めた。事ここに至って、寂蓮尊者と貴船大社そして時の帝は共に諮られて。
蛇神の御霊を、都から離れた誰も知らない、新しい社に転祀することにしたんだ。
昴ヶ丘は、出家される前の寂蓮尊者の生まれ故郷。尊者は自ら蛇神の御霊の宿る神鏡を背負って故郷に帰られ、そこで還俗し、社を築き蛇神を祀りその名を鴻神神社とし、初代の神主となった。そして村の女と神前にて清い契りを交わし、夫婦となって子を残し、御一命を全うなされた。
早苗くん。君たち一族の、それがルーツなんだよ」
「すごいね早苗」言葉を忘れた様子の親友に代わって、仁美が土屋に問う。
「で、先生が京都からこちらに越して来られたのは?先生も一緒に蛇神様の魂を守るために?」
「本当はあの時すぐに寂連様にお供したかったのだがね……大分長くかかってしまった。私が力を取り戻すのに、蛍子を元に戻すのに。無論、鴻神の社には今なお蛇神の霊を堅く守る早苗くんたちの一族がいる。だが私もね、微力ではあるが、何か力になれればとずっと思っていたんだよ。そして……」
「ノッコが生まれた、それがきっかけ。先生は、ノッコを蛇神様の近くで育ててあげたかった、お母さんにノッコを近くで見てもらいたかった。
……それで昴ヶ丘にいらした!そうですね?!」
言葉を失ったのは、今度は土屋。より温かな空気が一同を包みこんでいた。
「では皆さん、大殿様、そろそろ……さ、口裂けさん、祝子をお願いします」
「はい奥様」と一声、座から立ち上がった口裂け女は、隣室に面した襖に歩み寄って、そこでさっとモヤに包まれ姿を消す。立ち上がってその場で消えるのはいかにも無作法、しかし戸を開け閉てするよりはその方が静かで速い。
そう彼女は今、自室で控えているノッコを迎えに行ったのだ。仁美と早苗の眼差しが、口裂け女の消えた戸口にギュッと釘付けになる。一方珠雄だけは一人、ちょっと頭をかきかき思案顔。
やがて。襖の向こうにひそやかな足音がどうやら二人分。近づいてピタリと止まったが、だが襖はなかなか開かない。
「……さぁノッコ」「でも……」「大丈夫だ!開けるよ、さぁ!」
口裂け女は静々と襖を開くと、並んでいる人影の後ろにさっと引いて押し出す。
学校指定のジャージ上下に、さらにパーカー。深々とフードを被って顔を隠している少女。ノッコだ。だが彼女はなおも入室をためらってぐずついている……
その体に。
「……ノッコぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
その時すでに両膝立ちだった仁美がたちまち、駆けよって抱き付いた。
「会いたかった、会いたかったよノッコ!」
ノッコの頬にすり寄る仁美の頬が、パーカーのフードをはらりと後ろに払う。現れたノッコのその顔。
栗色だった髪は全て、桜の花びらのような薄桃色に。肌はつややかに、まるで白い陶磁器のよう。黒目勝ちだった両の瞳は今、ルビー色に縦に細く長く。そして見えている首筋は頬の線の際まで、細かい白と、ところどころ桃色の鱗に覆われている。
抱き付きそのまま頬に頬を寄せる仁美にも、同じく立ち上がりながらも少し後ろで控えている早苗にも、無論、ノッコのその変貌は明らか。
蛇神と蟲愛づる姫がこの世に残した神の御子、「小姫」・祝子。これがその真の姿。
「あの……センパイ……わたし、その……」
「ノッコノッコノッコ……ノッコ!うわあぁぁぁぁんノッコ~~~~~!!」
仁美の腕の中で、身を固くして震えているノッコ。不安げに何かを言いかけるのを、再会に感極まった仁美の泣き声が遮る。
「ふふ、もう、仁美ったら……」早苗は抱き合う二人に静かに近づいて。
「ダメよ仁美?ノッコが驚いちゃってるわ。よしよし落ち着いて……ほらハンカチ、顔拭いて。ティッシュもね、ハイ」
早苗は親友の体を脇に預かり、今度は自分がノッコの両手を取る。
「ノッコ、私もノッコに会いたかった。それにお礼が言いたかったわ。助けてくれてありがとう……!」
ノッコの手を取りながら、早苗は柔らかに微笑み、真っ直ぐにその顔を見つめる。今は顔と同じくつややかな鱗が包むノッコの指、だがそれを掴む早苗の手は暖かく力強く、いささかのためらいもない。一方仁美は急ぎ顔をサッと拭き、チンと鼻を一つかみ、一目じっと見つめた後で、早苗を押しのけてまたもやノッコに抱き付く。あらあらと軽く苦笑しながらも、早苗は親友にノッコの体をゆずり、そして抱き合っている二人の肩に自分も横から手を回した。
「な?ノッコ、言っただろ?何にも心配なんかいらないって」
口裂け女は、いまだ部屋の一歩外。そこから一つに相抱き寄り集う三人に。
「お前が何であろうと、姿がどんなに変わったって!コイツらは気にするようなタマじゃないよ。
ノッコ、お前が頑張って自分で見つけた人間の友達は……最高だったのさ。
……さぁ先生と奥様がお待ちだ、みんな中に中に、それにアタシも入れとくれ!」
(続)




