第1話 第一の故郷へ 2
最後の中継点で出迎え役の茜音と合流した二神一家は、紅葉村へと通じるほぼ唯一の交通手段である山岳鉄道へと乗り換える。
旧型機関車が老体に鞭打って急勾配を進む先、紅く染まった葉を萌える木々に囲まれた小さな村―紅葉村―が近付き、勇翔は帰郷を実感する。
第1話 第一の故郷へ 2
外界と隔絶されていた紅葉村の存在がクローズアップされたのは、近代に入ってからである。
明治維新以降も紅葉村は以前と変わらない日々を送っていたが、この地方を襲った台風による紅葉湖の増水と大規模地震による堰止部の一部決壊が重なり、湖から流れ出る河川の下流域に被害をもたらした。
更なる被害の発生を未然防止するために大規模な治水事業が計画され、それと同時に村へ近代化のメスが入ることとなった。
土地活用を見越した地質調査の折りに良質の黒鉱が発見され、付近に金や銀など貴金属の鉱脈の存在が期待されたことから、治水事業の資材運搬と資源開発を目的とした山岳鉄道の敷設が決定され、現在の紅葉山岳鐡道の母体となっている。
赤見坂駅が現状に比して大きな構内を持つのも、鉱山より産出された鉱物資源を精錬所に運搬する中継点として運用されていた名残で、採掘が終了となった今では無用の長物となってしまっている。
なお、治水事業や鉱山開発に関連して設置された発電施設、取水・浄水設備を村が保有していることから、人里離れた山間部の僻地にも関わらず電力と水道料金は安価で、余剰電力を販売・使用できるために村の財政は健全であり、利用者が限られ整備も難しい村営山岳鉄道の経営にも余裕があった。
「しかし、まぁ、よく動くよな」
採掘された鉱物資源を安全に運搬するため、急勾配を少しでも緩和するための工夫がなされており、上空から見ればトンネル区間と合わせて螺旋状に幾重にも渦巻くよう線路が敷設されている。
木々の生い茂る山中を進む列車はギシギシと立てる音、時に車輪とレールの摩擦により発せられる甲高い金属音は、悪路を切り開いてレールを敷設した作業員の血の滲むような努力への称賛に他ならない。
空調の設置されていない旧式車輛だが、開け放たれた窓から吹き込む風は自然の恩恵と標高も相まって、夏場でも涼しく感じられた。
「お金がないからねぇ。維持するのがやっとだから、新しい車輛なんて買う余裕ないよ。古いものだって大切に使えば、応えてくれるもの」
茜音は車窓の縁を労わるように優しく撫でる。
製造から70年以上を経た荷客合造改造電車1両を、これまた車齢50年を超えるであろう勾配線区専用の機関車2両が押し上げる様子は、昨今に問題視される老々介護を思わせる。
自給自足ではままならないできない生活物資を得るためには鉄道輸送に頼らなくてはならず、維持に注ぐ努力は並大抵のものではない。
時には"撮り鉄"と呼ばれる人々が自慢の一眼レフカメラを構え、今なお走り続ける骨董品をレンズに収めに来ることもあり、往年のファン程、被写体の保存状態の良さを絶賛し、ささやかながら村の収入源ともなっていた。
「それにしても、色黒いなぁ」
茜音は勇翔の腕を撫でるように触る。
野球部の練習でこんがりと日焼けした肌がくすぐったい感覚に襲われるが、勇翔はあたかも何も感じていないよう平静を装った。
「うわぁ、私の肌とオセロができそう」
茜音が自分の腕と勇翔の腕を重ねて見比べる。柔らかい感触を腕に感じ、勇翔の心拍数が少しだけ加速する。
「そういえば、夏の大会は残念だったね」
茜音の紅い瞳に見つめられ、勇翔はいつも燃えるような感覚に襲われる。
彼女の特徴的な瞳は、先天性白皮症に由来する。
一般にはアルビノまたはアルビニズムとして知られ、外観的特徴として白髪と白い肌、紅い瞳が特徴とされる遺伝子疾患である。生まれつき黒色化合物メラニンの生合成に関わる遺伝情報が欠失し、体内で必要なメラニン量が不足してしまうことが原因とされ、ヒトをはじめとした生物種で稀に見られることが知られている。
余談だが、勇翔が今日の理系進学を志すきっかけにもなっていた。
「どんどん勝ち進むものだから、春の選抜みたいにもしかして......って思っちゃった」
勇翔がキャプテンを務めた鎌倉大学附属高校硬式野球部は当初の下馬評を覆し、関東の競合校を実力で下して3月に甲子園球場で開催される選抜高等学校野球大会―通称"センバツ"―への出場を果たしていた。
「いつ振り返っても、出場できただけで御の字なんだよ」
「うちの高校を負かせた上に優勝候補を打ち破る大番狂わせ。結果として3試合も戦って、何を言っているんだか」
勇翔率いる鎌倉大学附属高校硬式野球部の初戦は、茜音の通う北信州総合高校。
普段は毎夏に1度しか会えない2人だが、この時ばかりは応援として駆け付けた茜音と僅かながら会う時間を作れていた。
その後も無名校の快進撃は続いて2回戦では優勝候補に土をつけ、下剋上を果たしていた。
「うちらに勝った高校が、そのまま甲子園までいったよ」
「じゃあ、もしかしたら勇翔たちが勝ち上がっていたかもしれないね」
「そうそう上手くいくものでもないよ。センバツの挑戦権だって、ギリギリ勝ち取ったものだったし、今でも信じられないくらいだ」
「それもそうね。いい感じに勝ち進んでいたら、ここにも来られなかったかもしれないし」
勇翔ら二神家が紅葉村を訪れるのは決まって盆の時期で、全国高等学校野球選手権大会―所謂、甲子園大会―の後半日程と重複する。
「それは、嫌だな」
「あら、勝ち進みたくなかったの?」
「そういうわけじゃ...」
茜音は悪戯な笑みを見せ、紅い瞳を躍らせる。
「ごめん、意地悪だったね」
朗らかな表情から"ニシシ"といった擬音を漏れ出させた後、彼女は物憂げな表情を僅かに浮かべて車窓を眺める。
「別に、いいさ」
同世代が殆どおらず、村の象徴として大人の中で過ごすことの多い彼女にとって、勇翔は数少ない、心を許せる"親友"なのだろう。
元住民としてその一端を知る勇翔は、想い人の悪戯を甘んじて受け入れた。
「ありがと」
「ねぇねぇ聞いて!私、体操で国体出るんだよ!」
小声で短く応えた直後、陽咲の声が車内を賑やかす。
ロートル車は久し振りの活気を楽しむように、急勾配をゆっくりと登っていった。
薄く開けた窓から、若干肌寒く感じるくらいの風が流れ込む。
気温は標高が1000m高くなると6.5℃下がるとされる。紅葉村の標高はおよそ1300m程度で、海際に住む勇翔の地元と同一の気象条件下と比べれば、約8.5℃低い計算になる。
勇翔が頭の中でそんなことを考えていると、視界の端で茜音が腕をさする様子が映る。
「窓閉めるぞ」
「ありがと」
茜音は手提げ鞄から薄手の上着を取り出し、ワンピースの上から羽織る。
「麓に降りるときは学校の制服が基本だから気にならないけど、私服で降りることは滅多にないからね。肌も弱いから、服を選ぶのも大変だよ」
茜音はポリポリと頰をかき、恥ずかしさを紛らわせる。
メラニン合成ができないために紫外線による皮膚や瞳孔へのダメージも大きく、普段から肌や眼の保護は欠かせない。
この日は日焼け止めクリームと日傘、麦わら帽子でしっかり防御したようだが、オシャレが仇となったようだ。
「もうすぐだね」
「あぁ」
車列が何本目かのトンネルに入ると、茜音がにこやかな表情を見せて勇翔に顔を寄せる。
このトンネルが紅葉村の玄関といっても過言ではなく、観光客相手なら車掌のアナウンスがあってしかるべきポイントだろうが、地元民とその関係者しか乗っていない現状では堂々とサボタージュを決め込んでいる。
「おかえり」
茜音が小さく囁くと同時に車列はトンネルから飛び出し、車窓は日差しに明るく照らされ、視界には鮮やかに赤く彩られた景色が飛び込んできた。
まだ秋を迎えたわけではなく、朝焼けに照らされ海原とも夕焼けに染まる山々でもなく、木々が萌え育んだ生命の彩はこの地を訪れる全ての人を圧倒する。
本来ならばこれ目当てで観光客が集まりそうなものだが、僻地で交通の便が極めて悪く、宿泊施設がないことも合いまって、世間で話題になることは殆どない。
「今年も、ここに来たんだな」
「この景色を見ないと、今年の夏がした感じがしないな」
勇翔に続き、父親も景色を見て感慨に浸る。
かつてこの地に居住していた二神家としては、人々を驚かせる景色も懐かしさが勝る。
「私としてはこれが日常だから普通だけどね、葉っぱがいつも"赤色"なのって」
紅葉村を赤く彩る木々は、秋口の赤見坂を彩るそれらと基本的には変わらない。
生物学的には同じ種だが、赤見坂を彩る木々は緑色に輝く葉が季節の巡りに伴って徐々に色付くのに対し、紅葉村の木々は新芽の時から常に赤い葉を芽吹く点で決定的に異なる。
「世の中では、紅葉村のこの景色は"普通"じゃないんだよ」
「それは知っている。高校に入ってから、毎日麓に降りるようになったし」
常に紅い葉を萌える植物種は確かに存在する。
それらは秋になると紅葉する種が突然変異を起こし、人の手によって園芸品種として広まったものと言われている。
しかし、紅葉村に自生する木々は園芸品種ではなく、複数種の木々が一様に同じく紅い葉を萌える。
植物の葉が緑色に見えるのは、葉緑素が日光に含まれる赤色の光と橙色の光を吸収し、緑色の光が反射されて人の目に入るため。
秋へと暦が進み、日照時間がだんだんと減ってくると木々は葉に蓄えた養分を幹へと移動させるようになり、光合成に必要な葉緑素に含まれるクロロフィルなど、葉を紫外線から守るための物質が分解されてしまう。
紅葉が始まる頃には葉と枝の養分のやり取りは殆ど行われなくなるが、分解されずに少量残ったクロロフィルにより光合成が継続され葉には糖が蓄積するが、葉が自分自身を守るためにアントシアニンと呼ばれる赤色色素を糖から合成するため、最終的に葉は緑色から橙色を経て赤色に変化する。
勇翔は小学生の頃、こういった紅葉のメカニズムを自由研究として夏休み明けに発表したことがあったが、理科を中心に指導していた担任の先生から絶賛された一方、殆どのクラスメイトの瞳が虚ろな色に染まっていたことを今でも覚えている。
ちなみに、紅葉村の木々が紅い葉を萌える化学的なメカニズムは今も謎に包まれたままでいる。
「勇翔みたいに都会に暮らしている方が、よっぽど珍しくて凄いものを見ていると思うけどなぁ。高層ビルにめちゃくちゃ長い電車、海も。ここにはないものが、いっぱいある」
「本人にとってそれが日常の存在だったら珍しくもないわな。俺だって引っ越した頃は海を見てワクワクしたもんだが、今じゃ何も感じないし」
海際に住む勇翔としては、大海原も果てしなく大きい水溜り程度の感覚でしかない。
海原を望める場所で観光客が歓声を上げる気持ちは分からなくもないが、黄色い声に呆れた経験は両手で収まらない程である。
「一度くらいは、勇翔の地元の海も見てみたかったなぁ」
茜音のささやくような独白を、勇翔は明瞭に聞き取ることができなかった。
陽咲とケラケラと会話する中でも時折、ほんの僅かに雲った様子を見せる。
「疲れているのか?」
「へ?」
茜音は驚いた様子を見せ、勇翔に視線を向ける。
「いや、様子を見て、何となく」
「陽咲と話している間も、私のことをマジマジ見ていたんだ......えっち」
「何故そうなる」
「減るもんじゃないけど、あんまり見る様ならお金とるよ」
「俺の財布の中身が減るじゃん......まぁ、何でもないならいいや」
茜音の茶化す姿に安心した勇翔は、近付いてくる紅い山々に視線を戻し、残り僅かな旅路を楽しんだ。
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