第12話 丙午 1
どのような状況であれ、時間の潮流は常に一定の速さで流れている。
運命の日を皆一様に迎えるまで、勇翔と茜音は共に歩み続けた。
満たされた思い、託された思いを胸に留め、2人は歩み続けるべく前へと進む。
第12話 丙午
関係者の想いなどいざ知らず、短い時間はあっという間に過ぎ去った。
先人たちが経験を重ね、子孫へと語り継いだ災厄の日。
紅葉村の真の支配者である"鵺"の封印が最も弱まる丙午年、その陽の火の月―丙申の7月―、そして丙午の日――2026年7月31日は、穏やかな日差しの下で始まった。
「おはよ」
「おはよう」
基本的には実家で寝泊まりする涼音と"兄夫婦(仮)"のお邪魔虫を避けるべく兄の荷物を誰の許しも得ずに全て持ち込んだ陽咲の策略により、勇翔は来る日まで茜音の家に宿泊し続けた。
自らの生命を左右するかもしれない日だというのに、表面的な様子だけを伺う限り、茜音の雰囲気は普段と変わらない。
「無理しなくていいんだぞ」
勇翔の言葉に、茜音の箸が一時的に止まる。
長年に渡り想いを寄せ、短期間とはいえ殆どの時間を共有した勇翔は、茜音の微細な変化を見逃さなかった。
「そのために、俺たちは来たんだ」
睡眠が浅いのはこの1年ずっとだと伝えられているが、どこか上の空、あるいは一点を見つめる頻度は、ここ数日で目に見えて増加していた。
「......怖いよ」
しばらく無言で箸を進めていた茜音だったが、観念したのかポツリと言葉を漏らす。
「想像の通りだった。この1年、今この瞬間の私が抱いている感情を呼び起こさないために、全てのモノ、全ての人を遠ざけてきた」
茜音の華奢な身体と声が小さく震えている。
「『みんなとまだまだ一緒にいたい』。その想いが強くなったからこそ、お母さんみたいに死ぬかもしれないという恐怖もどんどん大きくなった」
茜音は深く息を吸い、肺の中が空っぽになるまで吐き切る。
「でも、私の考えは間違っていたと自信を持って言える。みんなを受け入れることなく遠ざけたままだったとしても、例えみんなが紅葉村に足を踏み入れなかったとしても、私はこの感情でいっぱいになっていたと思う」
茜音は目尻に浮かんでいた涙を拭きとり、真っすぐ正面を向く。
「話せる相手がいる、想いを通じ合える人がいる。こんな簡単なことを分からなかった先週までの私なら、"鵺"に立ち向かうことすらできなかったかもしれない。でも、今の私は違う。私は生きる、どんなことが起こっても、地べたを這って泥水を啜ってでも、私を支えてくれるみんなと一緒に生き続ける。だからこそ、私は強い気持ちをもって"鵺"に対することができると思うんだ」
困難な局面が眼前に迫っているというのに、茜音の瞳は弱ることなく、むしろ生命力に溢れた光を宿しているようだった。
「私の横に立ってくれるんだよね?」
茜音は立ち上がって手を差し伸べ、勇翔はその手を引き身体を抱き寄せる。
「当然だ、隣に立ち続けるために来たんだから」
「――ありがと」
勇翔の腕の中で、茜音はもぞもぞと身体を擦り寄らせる。
「今日はまだ時間あるし、少しだけ甘えていてもいい?」
茜音の何かを期待する視線に、勇翔は小さく嘆息する。
当初こそ幼馴染たちの揶揄いに赤面していたものの、茜音は正しく開き直ったという様子で、しまいには人目を気にせずスキンシップを取るようになっていた。
「分かった」
もちろん、茜音の要求がただ愛でるだけで済まないことは勇翔も認識している。
思い残すことのないように。
勇翔はただただ、流れに身を委ねることにした。
村全体を覆う緊迫感は、太陽の高度と反比例するように増していく。
焔室神社の境内も午前中こそ落ち着きが勝っていたものの、太陽が天頂からやや西向きに傾き始めた頃合いから激しく人々が往来し、張りつめた空気で満たされていた。
「よ、社長出勤だな」
同じ敷地内にいた、というか、唯一居続けていたにも関わらず、勇翔と茜音が陰陽局員の前に姿を現したのは一番最後だった。
五味は勇翔の肩を叩いて声をかけるが、言葉ほどの嫌味さは感じられない。
「すみません」
勇翔は少々疲れた様子を見せながら、素直に謝罪する。
陰陽局員に指示されていた集合時間はとっくに過ぎていることは事実であり、責められても仕方がないことは認識している。
そもそも、運動部キャプテンを務めた経験から、多少の焦りがあるのもまた事実だった。
「いや、いいさ」
涼音や陽咲と談笑する茜音の姿へ視線を移す。
自身の生命を賭した大一番を迎えようというのに、茜音はどことなく血色がよく、緊迫感よりもむしろ穏やかさすら感じられるほどの雰囲気をまとっていた。
「お前は十分以上に役割を果たしてくれている。今日この日に限らず、紅葉村のキーパーソンを"万全の状態"に整えることは、残念ながら俺にはできないからな」
「はぁ」
勇翔は五味の表情に憂いが込められているように見える。
実の父ながら心身ともに寄り添えていない事実に、もどかしさを覚えているのだろう。
娘と眼前の少年が"何"をしていたか想像がついているのだろうが、"厄介な親父"としての我が子の行く道にとやかく言うつもりなどできる義理もない。
「十分かもしれないが、それでも時間までなるべく身体を休めておけ。"鵺"と対峙する上で、お前は貴重な戦力だからな」
「分かってますよ」
せめて、例え僅かであっても、障害を取り除くことに注力したい思いでいっぱいだった。
陰陽局がこれまで積み重ねた経験上、紅葉村の血統が使用する術式以外、"鵺"に対する有効打は期待できない。
唯一、空間を断絶する結界や防御といった術式だけが有効で、かつて陰陽局の駐在員として紅葉村に拠点を置いていた五味と壱成が"常世"と"現世"の境界を守護する役を担ったのもこの能力によるものが大きい。
万が一にも力無きものを入り込ませないために、万に一つも"鵺"と呼ばれる怪異を"現世"へと出さないために。
「まずは混乱なく、この状況を終えましょう」
勇翔と五味の視線の先には、焔室神社に集まった紅葉村の住民たち。
村の伝承は皆当然のように熟知しており、今日という日が何を意味するのかを遺伝子にまで刻まれている。
姿を一目見ようと集まる住民一人ひとりへ丁寧に対応する茜音の姿には、日常をすごす彼女からはまるで想像できない貫禄が感じられた。
夏至から1か月以上が経過したが、日没の時間はそこまで早くなった体感はなく、せいぜい15分といったところだろうか。
拠点となった焔室神社境内に炊き出し所を仮説し、局員各々が遅めの夕食を摂る。
「いよいよだね」
「そうだな」
勇翔と陽咲は提供された夕食を頬張り、夜に向けた体力を補給する。
既に準備は整えられており、一様に仮眠を取った後、運命の時を迎えることとなっていた。
「いい食べっぷりだな。周りの連中にも見習わせたいよ」
やれやれといった様子で、五味は苦笑を見せる。
周囲を見渡せば、特殊災害課の構成員の中には緊張からほとんど食事が喉を通らない者も散見された。
五味曰く、陰陽局の管轄で怪異による大規模な災厄は近年になく、経験の浅い職員も増えているとのこと。
それと比べれば、勇翔のような経験の浅い人物が平常心を保っている方がおかしいのかもしれない。
それが本人の歩んだ日々により形成された性格か、将又、自身の内側に流れる素養―血統―に由来するものなのか、正確には分からない。
ただただ、前年まで所属した野球部の名残で、身体が膨大なエネルギーを求めているだけにすぎないのかもしれない。
少なくとも前者の経験に由来するものと信じ、勇翔は自分がこれまで共に戦った仲間たちに感謝した。
張り詰めた緊張感が場を支配する。
夏とはいえ山間部の夜は肌寒く、険しい雰囲気をより際立たせていた。
「茜音、時間だよ」
「――はい」
巫女役を務める火室陽向に連れられ、茜音はそよ風すら通らない静けさの中心を進む。
その歩みを示す音だけが、境内唯一の音色として各々の鼓膜を振動させた。
「当然だが、普通の格好なんだな」
本殿裏手、境内の一番奥。
関係者が"常世"と"現世"の境界と称する洞窟の入り口には勇翔や涼音、陽咲など、主要なメンバーが揃っている。
既に陰陽局で直接的な支援を担当する班の面々は、洞窟を抜けて”常世”で態勢を整えていた。
「何を期待したの?」
冗談めかした勇翔の言葉に、茜音は自然に首をかしげる。
茜音の服装は何か特別にあつらえたものではなく、見る限りストレッチ素材の普段着のようだった。
「いや、こういう時って、なんかキラキラした感じになるもんじゃない?」
「フィクションの見すぎだよ。着慣れない服装でパフォーマンスを落とすよりも、普段通りの方がいいもん。高校のジャージもアリかと思ったけど、あんまり動きやすい印象がなかったんだよね、うちの」
本人の考えが言葉の通りだとすれば、動きやすさだけを重視しているようにも見えた。
身体をぐるりと見回す茜音の右手首には唯一のアクセントとして3色―赤色、橙色、水色―のミサンガが着けられていた。
「ジャージは流石に違うな」
「写真部出身としてはある程度の"映え"も重要だと思うがな。着るものによって、気分も変わるだろうに」
好き好きに出で立ちを評価する勇翔と涼音の手首にも、お揃いのミサンガが着けられている。
成長を見守ることのできなかった我が子、年の離れた妹を想う"先代"たちの想いが込められていた。
「なら、普段通りの服装なら、下手に気負うようなこともなく平常心でいられるんじゃないかな。いちいちサービスなんていらないよ」
茜音の笑顔に、周囲も安堵する。
これならば、特に懸念された問題など起こらないのではないか。
「それじゃあ、行こうか」
それぞれが首を縦に振ったことを確認すると、茜音を先頭に面々が洞窟へ足を踏み入れようとする。
「ちょっと待って」
進む背に投げかけられた女性の震える声。
茜音が振り返ると、巫女役の陽向がヨタヨタと歩を進めて身体を強く抱きしめる。
「私はもう、この先には進めない。私だけじゃない、紅葉村に住む大人たちはみんな、この先にはもう進めない」
勇翔や陽咲にとって、母―陽子―の妹である陽向は本来、叔母に当たる。
その存在は術式により忘却され、度々すれ違っていたにもかかわらず認識することすら叶わなかった。
「子どもたちだけを危険な目に合わせる、情けない大人たちでごめんなさい」
この村に住む人々の大半は"鵺"を知覚こそできるものの、術式によりまともに対抗できる人物はいない。
長い歴史の中で"鵺"に対抗できる力は失われ、陽向もまた真昼や陽子、海美を失って以降の孤独な戦いを経て心身に大きな負荷をかけた結果、役割を果たすことができなくなった。
現在では茜音が"鵺"に対抗できる最後の存在であり、陽向を代表とする村人たちは現状に負い目すら感じている。
午後から多くの村人が茜音を訪ねてきたのも、その双肩に全てを担わせてしまっている現実への贖罪も込められてのことだった。
「茜音の帰りを、みんなの帰りを待っているわ」
陽向が村人全ての想いを代弁し、茜音からその身を離す。
「いってきます」
みんなの想いは伝わっている。
茜音はそう伝える意味も込め、余計な言葉を発するようなことはせず、その身を翻して暗い洞窟の中へと歩みを進める。
「いってらっしゃい」
陽向の声が背を押すとすぐに、一同の姿が暗闇に消える。
自身の無力感に苛まれ、陽向の身体はガクリと膝から崩れ落ちた。
Pixiv様にも投稿させていただいております。
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