第10話 歩んだ日々を顧みて
今という現状を作り上げたのは自分である。
水鏡舞莉は幼い日の過ちから自らに孤独を課し、名を捨て飄々の仮面をつけた日々。
どの面下げて、と自分に言い聞かせながら、彼女は全てを受け入れる覚悟を持って、
別離した幼馴染の前へと姿を見せる。
第10話 歩んだ日々を顧みて
目が覚めた瞬間、衣服が寝汗でぐっしょりと濡れている気持ち悪さを覚えた時、舞莉は起き上がる気すら起こらないほどの精神的疲労にうんざりする。
「また、あの夢を見たのか」
夢でよかった、というのが正直な本音である。
繰り返し見ているとはいえ、夢という朧気な経験ならば記憶としてなかなか定着するものではない。
もちろん、夢で死を経験すると現実でもそのまま目を覚まさなくなる可能性があることは知識として有しており、数見るうちにいつか目を覚まさなくなる、あるいは精神的に消耗しきってしまう危険性は否めない。
「準備するか」
いくら独り言を呟いたところで、部屋のどこかから何かしらの返答があるわけではない。
それは、自身でこの道を選んだ瞬間から変わらない。
「おはよう」
しかし、この日は違っている。
舞莉は自身で決めた道を歩み始めたその日以来、紅葉村の中でも最も寂れた地区に位置する実家に帰ってきていた。
「――おはよう」
朝を迎え、一日の始まりを合図する声をかけられる。
食卓につけば、暖かい食事が用意されている。
外を見れば、自身の服が洗濯され風になびいている。
どれもこれも、極々普通ながら失ってから初めて実感する、小さな小さな幸せ。
私がそれを享受するわけにはいかない。
自分は他人から"普通"を奪った。
自分は他人が持つ"普通であれる権利"を失わせた。
ならば自分が、普通を謳歌するわけにはいかないのだ。
「ねぇ、す――」
「ごめん、お母さん」
舞莉は自身へ呼びかけようとする母を制する。
「"まだもう少しだけ"、舞莉でいさせて欲しい」
水鏡舞莉は紅葉村に帰り着き、自身の名を取り戻した。
だが、真に取り戻すのは"舞莉"として過ごした贖罪の日々を伝え、許しをもらってからと決めている。
直後、広場の方からあたりに爆音が響き渡る。
「来たみたいだね」
「私たちは様子を見てくる。――舞莉はどうする?」
「お姉ちゃんの服、まだ残ってだよね。準備したら、私も行く」
姉の部屋はあの日のまま、まるで時間が停止したようだった。
服を物色しながら、舞莉は考える。
本当に許しを得ることはできるだろうか。
人を手の平の上で舞わせ、人を使い続けた卑怯な自分のことを、幼馴染たちは受け入れてくれるだろうか。
「怖いな」
舞莉が欲した準備の時間。
「少しだけ、勇気を分けて欲しい」
ずっとお守り代わりに持っていた"姉"のリボンで髪を結わえ、その服に身を包む。
飄々とした仮面の準備を整えると、舞莉は呼吸を整えて足を踏み出した。
幼子のやることだから。
子どもだから仕方がない。
何をしても親の監督責任。
周囲が例えそう擁護しても、子どもだって状況を理解する能力は有している。
「あ――あぁ――」
眼前に広がる光景は、自身によりもたらされた想定外の結果である。
その事実はいくら慰められたところで変わるものでも軽減されるものでもなかった。
「――大丈夫?」
顔に感じた生暖かくベタベタとした感触が頬を伝う。
眼前で痛みに堪えながら笑顔を見せ、海美は年の離れた妹の無事を確認する。
幼い妹は反射的に首を縦に振るが、問いかけを理解しているとはまるで言えず、目に映る情報の処理が追い付いていないことは明らかだった。
「よかった」
姉は絶え絶えな息の合間に安堵の声を漏らすと、そのまま力なく妹に覆いかぶさるように倒れ掛かる。
素肌に触れた血液は生暖かく感じられるのに、いつもお日様のような温もりのある姉の身体はとても冷たく感じられた。
周囲の状況は姉の身体が視界を塞いだせいでよく分からない。
だが、芳しくないことだけは耳に入る声色だけでもよく理解できた。
「――っ!」
「陽子!」
あまりの苦痛は声を出すことすら許さず、身体を支えられなくなったことで地面に身体を突っ伏す僅かな音が耳に届く。
「真昼、このままじゃ!」
「分かってる、陽向は私の援護に徹して」
「でも――2人がっ!」
「今は目の前に集中しないと、私たちまでやられちゃう!」
当時は"鵺"へ4人一組で対することを基本としていた。
茜音の母である真昼、勇翔と陽咲の母にあたる陽子と叔母にあたる陽向、そして姉の海美。
焔室による攻撃術式が"鵺"に対して最も有効であることに変わりはないが、より効果的に、そして確実に仕留めるためにはサポート役の火室、そして水鏡との連携は必須である。
4人のチームワークは傍から見ても優れており、先達からの評価も極めて高い。
親世代と姉たちの姿は時折修行を見学していた妹の憧れであり、いつか幼馴染の茜音、勇翔とトリオを組む日を待ちわびてしまうほど。
ただ、確立されつくしたチームワークは、その一角が崩れたことで脆くも崩れ去った。
「――私のせいだ」
いつもなら出立する姉を見送るだけ。
だがこの日の"妹"は親の目を盗み、コッソリと海美の後をつけた。
結果だけ見ればただただ不幸なことに、海美や他の3人どころか、周囲を警戒する役割を担っていた勇翔と茜音の父親にも発見されることなく、洞窟を抜けた先の"常世"にまで辿り着いてしまった。
小さな子供の悪戯心と、大人たちの油断。
「真昼!」
真昼は"鵺"の鋭い爪が身体に食い込む一方で、その脚をガッチリと固定する。
「――捕まえた、タイミング合わせて!」
干支により"鵺"の力が増大する年でも月でもない、紅葉村ではただの日常。
ただ、幼子がもたらされた結果は、紅葉村に補填しようのない大きな損害を与えるに至った。
サポート組織としての"火室"筆頭の火室陽子、"水鏡"当主代行の水鏡海美はその場で死亡が確認され、当代の"焔室"として村を取り纏めていた焔室真昼もこの時の傷が元で月内に亡くなってしまう。
舞莉が"常世"に入ることを阻止できなかったと責められた"余所者"である五味と壱成は村を追われることとなり、壱成が子どもを連れだす際には念のため、勇翔と陽咲には"朧"の術式がかけられた。
唯一、生存した火室陽向が"焔室"として村の古参と"鵺"の討伐を引き継いだが、サポート役として優れていた彼女もオフェンスとして秀でていたとはいえず、過負荷と度重なる負傷により"壊れて"しまい、辛うじて焔室神社の巫女として次代の"焔室"である茜音のサポートする役へ収まるに至る。
真昼の才覚を受け継いだ茜音が幼くして"焔室"となり、村を実質的に取り纏める存在にならざるを得なかったのは、ひとえに"妹"の出来心によるものだった。
「私のせいだ」
妹は姉の後を追うように修行に明け暮れ、次第に茜音との距離が離れていく。
やがて妹は、"水鏡"の血を引く高位の術者でも習得が難しいとされる未来視の術式を会得し、やがて訪れるであろう結末を見ると、その瞬間を勝ち取るべく、己が名と生まれ故郷を捨てた。
語りを止めた舞莉は視線を逸らすことも、顔を俯かせることも、当然ながら踵を返して走り去るようなこともせず、その瞳は"元"幼馴染たちの姿を真っすぐに捉え続けていた。
勇翔と陽咲、そして茜音にとって舞莉の存在は正しく親の仇である。
少なくとも当人の認識は固まっており、何をされても素直に受け入れるつもりだと最初からノーガードを決め込んでいた。
いつまでも続くように思われた静寂は、茜音が一歩前に踏み出すことで終了する。
小さいはずの足音は近付くにつれ耳元で大きく聞こえたあたりで、舞莉は瞼をゆっくりと閉じ、少しだけ歯を食いしばった。
「(――?)」
しかし、いつまでたっても想定していた衝撃は訪れず、相対する茜音が何らかの動作に移ろうとする気配も感じられない。
恐る恐る、閉じていた瞼を開こうとしたタイミングで身体全体に柔らかな衝撃が加わり、後ろに倒れないよう足を思わず踏ん張った。
「えっ――?」
舞莉は目を見開くと、自身にもたれかかるよう抱き着く茜音の白い髪が間近にあった。
「ずっと昔に心の整理をつけたものだし、急に新しい情報を加えられたって考えの整理をすぐ付けられる訳がない。だから、素直な感情を伝えるよ」
茜音が舞莉を抱く力が少しだけ強くなる。
何を伝えられるのだろうか。
舞莉は自身の心拍数が瞬間的に加速するのを、音としてハッキリと認識する。
「1人で抱えさせて、ごめん。これまで辛かったよね」
しかし、耳に飛び込んできた言葉は心地よく、そして胸に優しく刺さった。
「起こってしまった事実は変わらない。悲しいけど、これは長い長い、村の呪われた歴史に刻まれた悲しい一場面だよ」
どこか達観した様子の茜音を、勇翔は見つめていた。
自身も母の最期を聞いて動揺がないと言えば嘘になる。
「私にも、一緒に背負わせて欲しい」
茜音の言葉は紅葉村を束ねる"焔室"としてだけでなく、一個人としての本心で間違いない。
そして、1人だけで背負い込もうとしなかった点で、茜音もまた前に進もうとしている。
「そこは"私たちにも"って言って欲しいところなんだが」
ならば、その横に立つべく紅葉村に舞い戻った自分が、受け入れる努力をしないわけにはいかない。
「――いいのか?」
普段の彼女からかけ離れた様子の弱々しさが、声から滲む。
自らに課した孤独に耐えるため、これまで気丈に振舞ってきたのだろう。
「もちろん。だから――」
茜音は舞莉から身体を離し、正面に向き合う。
「この村に帰ってきたあなたを、私は村の外の名前で呼びたくない。あなたの真名を教えて欲しい」
一瞬だけ逡巡を見せた後、舞莉は茜音の想いに応えるべく頷く。
「水鏡涼音。涼しい音と書いて"すずね"」
真名を耳にした瞬間、記憶の奥底にしまい込まれた思い出が、まるでタイムカプセルのように沸き起こる。
幼い頃の忘れ始めていた記憶が映像として蘇り、欠けていたパズルピースが全て揃い、一つの絵として完成したような感覚を覚えた。
「涼音......勇翔......」
茜音は2人の名前を噛み締めるように、優しく呟く。
「そうか、何で3本持っていたのか、やっと思い出せたよ」
茜音は愛用している赤、橙、水色の三色で構成されるミサンガ3本を手首から外し、内2本を手渡す。
「3人でお揃いのミサンガをお母さんに作ってもらったんだった」
赤は焔室、橙は火室、水色は水鏡を示している。
3人が固く交わりあい、願いを叶えて欲しいとの思いが込められている。
「おかえり」
『ただいま』
手渡された2人はそれぞれ、懐かしむよう左手首にミサンガをつける。
幼い頃に時間を共有していた3人が10年近い別離の時を経て、元の幼馴染としての間柄に収まった。
Pixiv様にも投稿させていただいております。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=21247302