マンホールの中から見る月
夜道を歩いていたらマンホールに落ちた。夜空を見ながら歩いていたので、行く先にある落とし穴に蓋がないことに気づかなかったのだ。
幸い怪我はなかった。深さは10メートルぐらいあったが、不思議と私は無傷だった。少しだけ痛む尻を押さえて立ち上がると、マンホールの中には何もなかった。
見上げると、落ちて来た穴の中から、ちょうど月が覗いている。穏やかすぎるほどに静かな、カルシウムの色に骨の白さを加えたような、満月だった。
梯子があるはずだ、と思ったが、何もなかった。暗くてよくは見えないが、それはまるで深淵のような、落ちる一方で昇るところのない、つるんとした穴であった。
私は穴の外に向かって叫んだ。私が歩いていたのは町の中で、駅からもそう遠くないはずだった。しかし人の気配はまったくなく、車が通り過ぎる音すら聞こえない。
目が暗闇に慣れて来て、もしかしたら前に落ちて来た人の骸骨でもあるのではないかと見回したが、本当に何もない。新たに落ちて来る人もいるのではないかと待っていたが、そもそも誰も通っている様子が窺えなかった。
手荷物のバッグを開けた。中には空の弁当箱と仕事の書類があるだけだ。ポケットからスマートフォンを取り出すと、割れてブラブラと折れそうになっている。時間を確認出来るものは何も持っていなかった。
ここには何もないが、絶望だけはあった。このまま誰も助けには来てくれず、ただ何もせずに死を待つだけなのかと思えた。何度か穴の外に声を投げてみたが、やはり人間がいる気配はないし、体力を消耗した末にやめてしまった。
私はただ、穴の底に座り込んでいた。希望は、ないのか。希望は絶望の対になるものだ。絶望があるのなら、希望もあるのではないのか。
そう思いながら、ふと上を見上げると、穴の中に満月があった。落ちてからどのぐらい時間が経っているのかはわからない。感覚では2時間は経っている気がする。
それでも、月は、まだそこにあった。
あの月が希望だ。そう思えた。私は月を見つめ、そこに色々と楽しいものを思い描いた。餅つきをするウサギやら、月の裏側にいるというファンキーな宇宙人やらを。そうして自分を励ました。
何もないここで生きているには、そうやって幻想を楽しむしかない。それが私の、唯一の希望だった。私は信じる、私は信じる! 心の中で、その幻想が実在のものとなることを、何度も願った。
月の中に、母の顔が現れた。優しかった手で、幼い私のために冷ましたスープを飲ませてくれる。
私は穏やかに笑った。何もない穴の中で、心から笑えた。そのままそこに横になると、これが夢であることを願いながら、母の胎内に帰ったように、身体を丸めて、穏やかな眠りに入った。