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私と幽霊、向かい合って席に着くなり、幽霊は机に置いた桶を指さし、我先にと張り切って口を開いた。
「この桶、もしかして普通の水を張っているのですか。」
「ええ。もちろん。」
私の回答に幽霊は一瞬、いら立ちを露わにした。なんとかこらえようというのも伝わってくるが、それでも隠し切れず、ときおり鋭い熱が背中から這い出てくるので、私はそうとうよくない対処を行ったみたいだった。
「ええと。もうしわけない。なにせ不安定なイルカなど、初めて見るものなので。」
「……いえ。仕方がないです。もとはといえば僕の責任ですので。……悪いのですが、早急にお湯を用意していただくことは可能でしょうか。」
私は音を立ててキッチンへ向かった。今朝使った、空の鍋をシンクに持ってきて、蛇口のレバーを上げる。私がいくら急いでも水流の速度は常に一定である。このときばかりは私が蛇口にイライラを抱いた。蛇口は取り付け業者に苛立つのだろうか。
やっといい具合に水が溜まって、私は即座に鍋をコンロの上に乗せた。そして最大火力に目盛りを回し、これで一安心である。
「今火かけました。もう少しお待ちを。」
「どうも。」
私はなんとなく忍び足で自分の席に戻った。そして席についてからも気まずい時間が流れた。お互い、呼吸音がやけに際立って、私は幽霊と吸うタイミングが合いそうになると、意図的にワンテンポ遅く吸うようにした。時計の秒針というのはこんなにも大きな音だったのかしら。鍋の音だって、時間が止まっているのかもと勘違いするくらいに変化がない。こんな風になるなら、もう少し沸かす水の量を減らしておくべきだった。
「……私たち幽霊はですね、こんな体でも未だに熱が重要なのです。」
幽霊の方が口を開いた。私は息の詰まりが抜けていくのを感じた。
「ええ。」
「だからイルカ、みゅーちゃんっていうんですがね、このこにはお湯が必要なわけです。」
「えっと、つまりどういう……」
「ですから、幽霊の体は熱を」
しまった。自然にまばたきをしてしまった。私は急いで五回分を取り戻した。
「……失礼。」
「……とにかく、この桶の水を触ってみてください。そうすれば分かりますから。」
結局は気まずいまま、幽霊がイルカの桶を滑らせてきた。いろいろと恐ろしいが、とにかく私は桶に指を入れてみることにした。
「冷たっ。」
桶の水があまりにも冷たいので、空気をぶち壊す声が出た。桶の周辺には、私が指を引っ込めたせいで水が飛び散った。
「こういうことです。分かったでしょう。」
「全く分からないね。なんでこんなに冷たいんだい。」
その私の一言で、幽霊の背中に見え隠れしていた鋭い熱が一気に解き放たれる感じがあった。幽霊は凄んだ声で、もう落ち着きはないようだった。
「さっきからもう少し自分で考えてみたらどうです。熱エネルギーの高いところから低いところへ行くのは常識でしょう。水が冷たくなっているのはみゅーちゃんの方が熱エネルギーが低い、というより熱が必要だと言ったのだから常に熱を消費しているというのは知っていたはずです。」
私は一対一の喧嘩に限って、これを国家が成敗することに疑問を持つ一人であった。
「ああ、悪かったよ。私は未就学児のころは天童だった。小学校に入って以来、勉強は私を腐らせるので大嫌いになったね。熱エネルギーの話なんてやめちまえ。そんなことより、お前会った時からちょいちょい失礼じゃないか。勝手にトイレに入って、そしたら狭いから出ましょう、机に向かい合えばあんなに分かりやすくキレて、おまけにトイレのときからずっとまともに会話のキャッチボールができない。もしかして私はまた天童に戻ったのか?ここはお庭か、お前はドッジボールがお好みか。外野ばかりの性格だもんな。」
「失礼なのはそちらでしょう。会ったときからなぜかタメ口。普通、幽霊なのだから年上だと思うでしょう。それなのになぜタメ口なんて使えるのか、算数くらいはできてから卒業してくれないと困るな。」
「お前みたいなのと一緒にしないでくれ。何か見るたび数字を思い浮かべる奴らばかりじゃないんだ。幽霊を見たら、というか人間以外なら自分と同等以下と思ってしまうものだろう。野良猫を呼ぶときに堅い敬語を使うか?気色悪くて捕まっちまうよ。まあ、そういう理由だけど、気にしていたなら謝るよ。どうも申し訳ない。」
「僕が野良猫だっていうんですか。」
「生きている人間からすれば猫も幽霊も変わらないよ。家にも外にも住んでいるし、それにどっちも人気コンテンツだ。」
「僕はそういう動画嫌いです。見世物にしやがって。」
「その話はあまり興味ないな。」
こういうように、喧嘩というのは火みたいに勝手に収まるものだ。少なくとも一対一であれば、薪をくべる人がいない。
「そういえばお湯だよな。そのイルカにお湯が必要なんだろう。」
「ああ、お願いします。」