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朝食を取り終えた私は、もはや忘れていたインスタントコーヒーが目に入り、鍋に余っていたお湯をマグカップに注いだ。この短い時間で酸化が進んでいたのか、放置した時間が衛生観念に触れるには十分だったからか、この食後の一杯はマズく感じた。
おいしくない上にちょっとぬるいコーヒーを片手に、イルカの観察は続けられた。少なくとも、私が電気ポットで見つけたときからずっと、イルカは絶えず泳ぎ続けている。さすがに疲労も溜まってきたのか、もう桶に移した直後ほどの元気はなくなっていた。とはいえ、それでもイルカは泳ぎをやめないのだから大したものだ。
ふと、腹に排泄のけはいを感じた。私は便意をもよおすのが早い方だ。いつも食事を終えて三十分もたてば、腹の中がしだいに窮屈になってくる。その体の構造は、イルカが家に居るくらいでは変わるものではないらしく、納豆ご飯とインスタントみそ汁を食べ終えて、今は三十分は経った頃だった。
私は自身に従ってトイレに向かおうとマグカップを机に手放すが、何か忘れものをしたような気がして、でもトイレに持ち込むものなど何もないはずだった。それでも一応あたりを見渡してみて、ちょうどイルカの泳ぐ桶に目が行ったときである。このとき自分が軽度のイルカ依存に陥っているのに気が付いた。
私が熱心な観察を続けているのは、あまりにも未知すぎるイルカの情報を得るためなのは当然だが、そのイルカの視認性が不安定であることも一つの理由だった。今までは、まばたきの制御という小さな努力さえすれば、ほとんど常時、報酬としてイルカの現在位置を把握できていたというのに、今からトイレに行けば、少なくともドアが壁となり、イルカの所在を絶対に知ることのできない時間を過ごさなければならなくなってしまう。
そういう不安を、トイレの最中感じずに済む方法はないものかと私は考え、パッと出た結論は桶をトイレに持ち込むことだった。何の捻りもないが、これ以上の案が出るころにはきっと漏らしてしまう。私はイルカの居る桶を両手に持って、歩くと揺れてこぼれそうな水に気を付けながらトイレに向かった。
トイレはいつもよりもさらに狭く感じた。私は足元の桶にぶつからないよう、縮こまってズボンを下す。その最中はなんだかやけに光がチラついて、私はその元を辿っていくと、便器から向かって右上にある小窓が開いているのに気が付いた。とうぜん私はそれを閉めようと手を伸ばすのだが、その途中のまばたき一回で、小窓の先に、こちらを覗くひとつの顔が現れた。その顔には生気がなく、性別もどちらなのかハッキリとしない、いわゆる中性顔というと語弊があるが、何もかも全く判断がつかない不気味さを醸し出していた。私は便所と不気味の足し算で、きっとこれが幽霊なのだろうと直感した。
私は驚きのあまり、ズボンが半脱ぎのまま後ろにのけぞった。そしてトイレは大変狭い。そのまま私のパンツを被ったままのおしりが便器にはまってしまい、ズボンが膝あたりで開脚の邪魔をするので、私は勝手に捕らわれの身だった。
幸い、桶の水がこぼれるようなことはなかったが、このときイルカはちょうど見えなくなっていた。とりあえず一回まばたきをすると、目の前に長身の何か、見上げるとさっきの幽霊の顔が付いていた。思わず大きな声が出て、私は強く瞼を閉じた。恐る恐る目を開くと、あの幽霊はいなくなっていて、代わりに桶の中にイルカが見えた。もはやいつもの光景に胸をなでおろし、はやいとこ便器から抜け出そうと、手足で自分の身体を押し出そうとした。
「すみません。大丈夫ですか。手、お貸しします。」
その低い声に、力んでいた私の身体は硬直した。私は知らずに目をギュッとつむっていたらしいが、もう開けなくても目の前に何がいるのかは明白だった。しかしその言い方や、内容に敵意はない。私は、信用しかける自分を自分が制止する混乱状態となり、結局はそのどちらも選ぶ形で、さらに目を強くつむって右手を一本、震わせながら差し出した。差し出した右手は冷たい手に挟まれ、さらに意外な力強さで引っ張られた。私はその一瞬で、便器から抜け出すことができていた。