7月
「オデッサは良い街だぞ」
トラックの運転席でコロリョフは言う。
「まず天気が良い。暖かくてカラリと気持ちのいい、地中海性気候って奴だ」
コロリョフは生まれこそキエフのちょい西あたりだったが、少年期を過ごしたのはここオデッサだったという。ちょうど大戦の終わった後の混乱していた頃だ。
「ここもドイツ軍が駐屯していたんだが、水上飛行機を射点の辺りに置いててさ。大概オンボロだったから全然飛ばなかったんだが、そのお陰で触り放題だったんだ」
射点はその頃のコンクリート滑走路の上に設けられていた。滑走路は海まで続いていて、そこでスロープになって海中に没していた。
「グルシュコもこっちだったんですよね」
今日はトラックの運転席にはコロリョフとレムだけで、これからアジモフを迎えに行くのだ。
「ああ。でも初めて顔を合わせたのはキエフだったな。
あいつの家は家庭教師を雇えていたんだ。金持ちなんだよ。対して俺は建築学校に行くしかなかった。何たってようやく戦争が終わったって頃で、当時オデッサには学校はその一つしか無かったからね。
俺の卒業制作はタイル貼りで、得た資格もタイル貼り工員でしか無かったのさ」
トラックはスタジアムの脇を通って駅前に出て、市街地に入る。左右に街路樹の茂る石畳の道だ。
「それでよくキエフ工科大に入れましたね」
「グライダーの御蔭さ」
1920年代のグライダーブームってのはよく分からないが、どうも戦争に負けて飛行機開発を禁じられたドイツの頭脳がグライダーに集中して、大きなブレイクスルーを達成したのがきっかけらしい。
「グライダーは木と布と釘があれば作れる理屈で、それで自分でも作れると思ってしまったんだ。
グライダーの図面を書いて、飛行クラブに入って、工場で飛行クラブへ勧誘する演説もしたし、部材をわけてもらいに歩き回ったりもしたな。
それが縁で大学への推薦を貰えたのさ」
街路の突きあたりは公園で、トラックはそこで左折した。プーシキンの銅像が見える。この公園の向こうは港らしい。
「オリンピックには行ったんですか?」
2年前のベルリンオリンピックでは、グライダーが競技にたしか入っていた筈だ。正式競技じゃなく、選手枠の無い自由参加、オープン競技って奴だ。
「ああ、後輩たちは参加したよ」
コロリョフの声は唐突にぶっきらぼうなものになった。どうも良い思い出では無いらしい。話題を変えよう。
「ロケットはいつから?」
「もう10年前になるかな。グライダーの次は当然エンジンを載せるだろ。
そこで流行の反動推進エンジンはどうかと考えたのさ。誰もやっていないのなら、今から自分がやっても第一人者になれる訳だし」
そこでレムは、歩道で手を振るアジモフを見つけた。
日本領事館の前だ。なぜか日本はオデッサに領事館を維持し続けていた。これはビザ取得にとてつもなく都合が良かった。
コロリョフに知らせるとトラックは止まり、ドアを開くとアジモフが乗ってきた。
「全員分、出来てました」
アジモフは手にした鞄を叩く。ビザだ。
・
「ところでグルシュコはどうしたんです?」
朝から見ていない気がする。
「実家にちょっと顔を出すって聞いた」
コロリョフが答える。
トラックは海岸沿いの道を走っていく。道の脇には軽便鉄道の線路が敷いてあり、もう少ししたら避暑観光客を沢山乗せてこの海岸を走るのだろう。
海は重く青く、風は気持ちよく、雲は欠片も見当たらない。
「学生連れて行くって聞きましたよ」
アジモフが言う。
なんでもツォオルコフスキーと文通した時の手紙を見せに行くとか。そういや本当に文通していたのか、いつぞや話題になったことがあった気がする。
沖合いに穀物積みの貨物船に混じって軍艦が見えた。ウクライナの貧しい海軍ではありえない。ドイツの駆逐艦だ。
「U-ボートも来ているって聞いたよ」
一昨年結ばれたモントルー条約があるから、黒海に戦艦を持ってくることは出来ない筈だったが、セヴァストポリで建造中のソヴィエトの戦艦にぶつけるために、ドイツは近いうちに条約が許す限りの大物を持ってくる筈だ。
「いや、大物は来ないかもしれないぞ」
コロリョフは最近の噂を口にする。
ニコラーエフの造船所で何やら大物が建造中だという噂だが、それが噂で留まっているのはドイツ人の管理下にあるからだ。勿論何が作られていてもおかしくない。
ウクライナの工業力を考えれば大物は考えづらい。しかし……
「そういえば、例の大物は来るんですか?」
ナチの将校だか何だかが見物に来るという話があったのだ。
「来ないだろ。肝心の橇のほうが中止なんだから」
灯台の岬を過ぎて、人家まばらな原野に出た。向こうに防風林が見える。
陸軍の飛行場だ。
・
コロリョフとアジモフはトラックでそのままキエフ航空宇宙協会の合宿所へ向かうという。ユダヤ人たちは今はそこに寝起きしているのだ。
レムは格納庫の一つに向かう。調子のよくない無線機の調整の手伝いでもしようかという心積もりだったのだが、ロケットからアンテナと先端フェアリングごと無線機は取り外されて、どこかに持ち去られてしまったようだ。
代わりに、イゴール・シコルスキーがいた。
シコルスキーは先日一行に合流した。
元々はシコルスキーの四発重爆を短い滑走路で離陸させるためのロケット橇の試験をここで行うというのが建前というか、そちらが本命の試験で、ロケット打ち上げはエンジン試験の一環の名目で便乗で行っているに過ぎない。少なくとも軍の立場ではそうなっている。
グルシュコの液体エンジンで加速される橇は既に単体での試験と、重爆のダミーを使った試験をパスしてこの試験に臨んでいた。
この橇は凄いもので、ロケットでは1基使っているだけのエンジンを6基並べて使い、15秒で30トンの重爆を飛ばしてしまう。必要な滑走路はわずか300メートルだ。
勿論良い事ばかりではない。問題はブレーキで、最初レールを使っていたのがブレーキに失敗して派手に壊れたという。それはすごい見物だったに違いない。
今は橇になって、これでレールの無い場所でも運用できるとか言っているが、ブレーキはパラシュートと、それでも殺しきれない速度は滑走路の端の砂山に突っ込んで止めることになっていた。
軍としてはパラシュートの手間が気に食わないそうだ。燃料を補充したら連続してバンバン使いたいのだそうだ。そんな無茶な。
そしてつい先日、シコルスキーの国産四発重爆の生産がキャンセルされて、一緒に橇の開発もキャンセルされた。
これでシコルスキーにはウクライナに思い残すことは欠片も無くなったという訳だ。
シコルスキーはロケットを間近で眺めている。レムは手を触れないように注意しようか少し考えて、そんな必要はない筈だと考えた。ただ、説明を求められたときの為にそばに行く。
「ユダヤ人は馬鹿だ」
だが、シコルスキーの漏らした言葉は、予想と違っていた。
「兵舎の連中を見たかね」
陸軍の駐屯地だから兵舎もある。ほとんど空だったのがしばらく前から大勢入って、朝夕は隊列を組んで行進しているし、訓練らしきものもしているようだった。
ただ、ちょっと変だ。まず格好だが、灰茶色の半袖に帽子を被っている。服はおろしたてのように見えた。連中は軍人のようだったが、軍隊のようでは無かった。統率が今一つなのだ。だからだろうか、訓練らしいのが行進だけというのは。
「パレスティナに行くんだと。この地の同胞を見捨てて、ナチから支援まで貰って」
なるほど、彼らはウクライナの軍内にいたユダヤ人か。
義勇軍か何かを組織してパレスティナにいこうという訳だ。恐らく船をチャーターするのだろう。
パスポートの調達できなかった家族がパレスティナに行くという話の、具体的なところがようやく理解できた。この義勇軍と一緒に行くのだ。
パレスティナは戦争だった。地元のアラブ人たちは武装し、移民してきたユダヤ人と争っていた。本格的な戦力がパレスティナのユダヤ人に歓迎されるのは間違いない。
軍人たちはみな行ってしまうのか。
それはつまり、今後ウクライナでのユダヤ人への弾圧に対して、武力で対抗できそうな可能性が無くなるという事だ。
蜂起したとしても軍人が銃を持つのと、民間人が何かを持つのではその意味合いは全く違う。軍人たちは出て行き、ユダヤ人は無力に取り残されるのだ。
多分既にドイツとの合意がついているのだろう。船の融通くらいしたかも知れない。
ナチスとしてはユダヤ人の軍人という、統治に一番邪魔になりそうな連中を国外に出してしまえる訳で、それは諸手を挙げて歓迎したに違いない。
移民枠以上の武装した連中をパレスティナに受け入れるなんて、ナチスとパレスチナの委任統治者、イギリスはどんな取引をしたのだろうか。
「馬鹿だ、馬鹿ばかりだ」
それは低く押し殺されていたが、怒りの声だった。
レムにはかける声が無い。
格納庫の扉が軋みながら開かれ、光が入ってくる。
グルシュコと工科大の学生たちが戻ってきたのだ。グルシュコはレムとシコルスキーの姿を認めたが、コロリョフはどこにいるかとレムに聞く。
まだ戻っていない、そう答えると、グルシュコは小声でレムに言う。
「暇なときに海水浴に出かけるつもりだったら、すまん、その機会は無さそうだ」
・
コロリョフが戻ると、メンバーを集めて、そしてグルシュコが切り出した。
「ルーマニア人たちが何か企んでいるらしい」
地元の有力者たちの見解だそうだ。ルーマニアのファシストから弾圧されて逃げてきた共産主義者とオデッサに潜むトロッキストたちが、ルーマニアに政変を起こす準備らしきものをしているらしい。
オデッサの西南、この陸軍飛行場を更に超えて30キロ先にドニエストル河の河口がある。その向こうはもうルーマニアだ。
「町中に怪しい連中が増えて、まるでユダヤ人マフィアが牛耳っていた頃みたいだとさ」
ここオデッサではキエフほど治安警察が幅をきかせていない。実態はほぼ以前の警察のままだ。治安警察はここオデッサでは警察を掌握するのも民族主義を煽るのにも失敗し続けているようだ。
つまり治安は悪い。
昔ながらの付き合いに頼る分には、なにも恐れることは起きないよ、グルシュコはそう言う。
でも、学生が市街に行くのは原則禁止になった。学生たちは面白くなさそうだ。カフェも演劇も音楽も映画も無し、禁欲的になるのは難しいだろう。
更に、
「打ち上げスケジュールを4日繰り上げる」
コロリョフが言う。
「無線機の方は雑音が消えたと報告があった。液体酸素の調達に問題はない。エタノールの品質だが、調査結果を待たずに打ち上げる」
架台の組み立ては既に終わっている。あとは実機を使ったリハーサルを一度やって、その3日後に本番打ち上げをおこなう。
新しいスケジュール表が壁に張り出された。
打ち上げは、一週間後。それまで休みは無しだ。
・
夜中まで作業は続いた。
慣性誘導装置の試験準備を手伝う。ロケットからジャイロを配線を繋げたまま取り出し、配線を延長して試験台の上に置き、慎重にジャイロを水平にする。
慣性誘導担当のチェルトクは気安い人物で、例によってキエフ工科大のOBだった。電源を入れる前に、彼は丸々ふた月触っていなかった慣性誘導システムを丹念にチェックした。
水平に寝かせてあるロケットの電源を入れると、尾翼の空力舵が一瞬唸って振動し、そして静かになる。空力舵には分度器を取り付けてあり、これで動いた角度が読み取れる。
ジャイロを乗せた試験台は傾けることが出来るようになっている。台の上にピッチと書かれた方に台を傾けると、空力舵もあわせて動く。正確にはジャイロが検出した傾きを補正して傾きを立て直す方向にだ。
角度を記録して、台の傾きを戻し、そして別の方向に傾ける。
大きなコーヒーポットが格納庫の端のテーブルに置かれた。飲み放題だ。
素晴らしい匂い。砂糖をたっぷり入れたコーヒーは格別だった。
ジャイロが機体に戻される。尾翼も完全に固定してしまう。
無線機の試験がもう一回行われる。問題無し。
外が明るくなる。
実機リハーサルの為に、ロケットを台車ごと海岸へと押していく。
結構な重さだ。トラックか何かで引いていった方が良い気がする。
発射台の金属管トラスの構造は既に錆び始めていた。
ロケットを台車から担ぎ上げると、発射台の固定アームの上に移動させる。重い。これもクレーンが欲しい。
そもそも固定アームそのものがクレーンの役になる筈だったのだ。発射台の端に蝶番式に連結されたトラスフレームが固定アームだ。
横倒しにした固定アームにロケットを固定したあと、固定アームを垂直に立てれば、それでロケットは発射台の真上に垂直に立つ、そういう仕掛けである。
ここで固定アームが点火器を考慮していないことが判明する。液体酸素の注入口とバルブの向きもだ。それに機体を置く向きも90度間違っていた。
固定アームは修正が要る。ロケットを台車に戻す。固定アームの分解が始まる。
ここでレムは、ロケットをクレーンで釣れないかと提案してみる。
「どこかに飛行機のエンジンを取り外すための移動式クレーンがあると思うんだ。飛行場なんだし」
皆も賛成してくれるが、そうなると吊具が要る。言い出しっぺのレムが担当だ。レムはアジモフに声を掛けると、格納庫のほうへ戻っていった。
・
他の格納庫にあった移動式クレーンを借りてきて、動くように調整するだけでその日は終わった。
日が昇って暑くなってくると作業は辛いものになった。格納庫に扇風機が置かれたが、熱い空気をかき混ぜるだけで気休みにしかならない。
コーヒーポットの脇に、クッキーを盛った皿が用意された。
齧ると口の中の水分を吸いつくすような、味気ないパサついた代物で閉口したが、よく見ると隣にマーマレードの大きな瓶が用意されていた。
オレンジのマーマレードはそれだけでも素晴らしい味で、クッキーとの組み合わせも完璧だった。
訊けばオデッサの北、モルダヴィア地方で春先に取れた果実を使ったものだという。モルダヴィアはルーマニア領だが、今でも農産物の取引は盛んなのだという。
革製の吊具を用意してもらって、ロケットを格納庫の中で試しに釣ってみた。大体オッケー。クレーンに問題無し。重心位置がちょっとだけずれていた。
発射台から取り外した固定アームは格納庫の中で切った貼ったの修正を受けていた。電気溶接でパイプを繋ぎなおしている。
ロケットの傍にいるグルシュコにアジモフが声を掛ける。
「ねぇグルシュコ、液体酸素の注入はロケットを立ててからのほうが良いと思うんだ。
推進剤を入れたらロケットはすごく重くなるよ。今ですら発射台に立てられるかどうかわからないのに」
グルシュコは別の男と話していたが、アジモフに向き直って答える。
「ロケット固定後の固定アームなら、ウィンチを使って立てることになったよ」
だがアジモフは更に言う。液体酸素の蒸発をできるだけ少なくするために、打ち上げの直前まで液体酸素の注入を続けるべきだ。
本格的な議論になりそうだったが、そこでレムは、グルシュコが話していた相手につかまった。
「君は工科大の学生かね」
違うと答えても男の話は続く。
「固有振動数というものを知っているかね。どんなモノにもそれは存在するし、このロケットにも勿論存在する。
固有振動数とは、このロケットが奏でる共鳴の周波数さ。このロケットが飛ぶとき、ロケットは空中に浮かぶ一本の弦になる。一番下をエンジンに拘束された片持ち梁だ。
もしエンジンの振動とロケットの固有振動数が一致したなら、ロケットは共鳴の結果、空中でばらばらになってしまうだろう」
男は陶然として、その恐ろしい結論を口にする。
「是非ともロケットの固有振動数を計測しておかないといけない」
今からじゃ、そんな難しそうな計測は無理だよ。そんな言葉をレムは飲み込む。
そこで、全員集合してくれというコロリョフの声が聞こえた。レムは男に断ってその場を離れる。
コロリョフの話は大きく二つ、液体酸素の注入方式を変えるというものと、そのために打ち上げを2日延期するというものだ。
注入方式の変更のために配管が延長される。既存の配管にも修正が加わる。
新しい作業割り当てを聞いていると、グルシュコが隣にやってきた。
「スタシ、教授の相手をさせて済まなかった」
グルシュコはレムの名前スタニスワフを愛称で呼んだ。
「あの人は?」
「我らが天才、チェロメイ教授だよ。最年少のウクライナ科学アカデミー会員、構造理論の大家、そして今回のアメリカ行きに付いていくそうだ」
アメリカは大学教授には無条件で移住許可を出すんだそうだ、とグルシュコは言う。
そこで思い出したが、グルシュコは軍研究所の科学者であるはずだが、多分教授ではない。コロリョフなんて、ただの技官だ。
「どこか、国外へ行くことは考えていないんですか?」
レムは聞いてみる。
「僕かい?
喋れる言葉の問題があるからね。ドイツ語ならペラペラなんだが」
コロリョフもドイツ語は喋れるという。
「オデッサの子供たちはみんなドイツ語を習わされたものさ」
・
延長用の液体酸素配管の手配は遅れたが、その他の準備は予定通り進んだ。
新しい配管は洗浄のうえで古毛布を巻いて断熱仕様に仕立てた。雨でも降れば大惨事になるだろうが、この季節のオデッサではまず雨は降らないとコロリョフは請け合った。
配管のリークチェックは省略された。どうせ洩れても少量なら問題ないとしたのだ。
後で思い出して、グルシュコに訊く。
「固有振動数の話は」
「無視だよ。そもそもエンジンの振動の周波数、ウクライナでは測る装置が無いからね」
分解したらそれまでさ、とグルシュコは言う。
打ち上げは二日後の朝5時、これをオデッサの港湾事務所に届けなければならない。ロケットの落ちそうな場所に船を入れないように警告するためだ。
届の形式そのものは元々あるのだそうだ。オデッサの港を防護する沿岸砲の演習射撃では、事前に同じ様式の届を出すのだという。
その打ち上げの届を出しに行っていたコロリョフは、男を一人連れて戻ってきた。
その男はユダヤ人学生を手早く集めると、貿易アタシェのヤンゲリだと自己紹介して、学生それぞれに指示を与えていく。そこを途中で抜け出したアジモフに、あれはなんだと聞く。
「ソヴィエトの協力者だよ」
アメリカへの移住者たちはここオデッサから船でソヴィエトの港タガンログまで行き、それから鉄道で東へ向かうことになる。ほぼ一週間のシベリア鉄道の旅だ。
ウクライナはソヴィエトと国交が無いからビザは発行して貰えないが、取引でソ連国内を通してくれる事になった。取引というのはヤンゲリという男をアメリカまで同行させることだ。
男は元々はポリカルコフで技術者をしていたらしく、要するに産業スパイだ。
一度は国際的に承認されたウクライナにソヴィエトが侵攻したことに対し、アメリカなど諸国はソヴィエトに制裁措置を取り、それは東ウクライナで膠着状態とはいえ未だに戦火が絶えない状況で続いていた。その一つがソヴィエト人の入国制限だ。
それをウクライナ人に偽装して掻い潜ろうというのだ。
一行はユーラシア大陸を横断すると船でビザの目的地、日本に上陸する。
その後は、満州-ウクライナ友好協会という怪しい団体のお世話になりながら、アメリカへの移住手続きを進める、そういう手筈になっていた。
そういえば、アジモフはヤンゲリの話をちゃんと聞いた方が良いんじゃないかのか。
「良いんだよ」
アジモフはそう答える。
チェロメイ В.Н.Челомей
1914年6月30日、ロシア帝国シェドルツェ(現ポーランド)にて生まれる。大戦で一家は避難し、1926年キエフに移住した。親は教師で、大戦中は同じように避難していた科学者の家族と親交を持っていた。1927年にキエフ自動車大学に入学、1932年に18歳で卒業するとキエフ工科大に教員として赴任した。
1年後、キエフ工科大から分離設立されたキエフ航空研究所に移動、力学を専門とし、1936年に最初の単著を出版する。
1944年、ドイツのV-1巡航ミサイルと同等のものを開発出来、これを生産するようスターリンに手紙を書くと、これを実現する運びとなった。チェロメイはモスクワに設計局OKB-52を設立、半年で最初の試験モデルが発射された。これらはV-1の完全なコピーだったらしい。
その後チェロメイは海軍の為に各種の巡航ミサイルを設計し、1951年バウマン・モスクワ工科大学で博士号取得、1952年教授の地位を得たが、それらミサイルの開発について虚偽の報告をしたとして海軍に告発され地位を追われた。チェロメイの復権はスターリンの死のおかげである。
1958年ソ連科学アカデミーの会員に、1962年に正会員に選出される。1958年からチェロメイは弾道ミサイル、1960年からは宇宙開発の分野に乗り出した。当時のソ連書記長フルシチョフの政策方針に合致していたチェロメイは重用され、ミヤシシチェフのOKB-52が丸ごとチェロメイの下に移譲され、OKB-52で開発中の弾道ミサイルUR-500、後のプロトンロケットがそのままチェロメイの下で打ち上げられた。チェロメイのオリジナルデザインのUR-200はその後のデビューである。UR-100はヤンゲリから開発・生産を移管されたものだった。更に対衛星攻撃衛星もチェロメイの下に移管されている。
チェロメイは軍事宇宙ステーション、アルマースを売り込み、この開発を開始した。これはアメリカのMOLに対応したものだったが、MOLの計画中止後もプロジェクトは続行された。この時に開発されたモジュール式プラットフォームが後の宇宙ステーションの基本モジュールとなった。
コロリョフの有人月計画に対してチェロメイはUR-700超巨大ロケットを使う独自の有人月計画を提唱、これを開発した。但しフルシチョフの失脚後これらはキャンセルされ、チェロメイは冷や飯を食い続けることになる。
プロトンロケットに代わる大型ロケットも、ソ連の宇宙開発の代名詞となった宇宙ステーション計画にもチェロメイは欠かせなかった筈だが、グルシュコの権力掌握後はソ連宇宙開発の意思決定の場からチェロメイは排除され続けた。
1994年12月8日没。
チェロメイの設計局はソ連崩壊後フルニチェフ社となり、アンガラロケットを開発しましたが、今ロシアでは滅茶滅茶に中傷されています。断言するけどソユーズ-5も似たようなコストにしかならないよ!
ヤンゲリ М.К.Янгеля
1911年10月25日、イルクーツクの小村で生まれる。この村は現在は存在しない。
1927年、モスクワ近郊の繊維工場の工場見習い学校に入学、つまり繊維工場で働くことになる。1931年7月に共産党に入党、9月にモスクワ航空研究所に入学、1935年1月、研究所の党委員会のメンバーに選出され、2月にはモスクワ航空研究所のコムソモール委員会の秘書になった。モスクワ航空研究所の卒業論文は与圧コクピットを持つ高高度戦闘機に関するものだった。
卒業後ポリカルポフの設計局に入社したヤンゲリは、1938年にアメリカに送られた。これは貿易協定によるもので、航空産業について見聞を深めることが期待されていた。半年で帰国したヤンゲリはポリカルポフで働き続けたが、大戦中の工場疎開の最中に党からのヤンゲリへの評価は幾分か低くなったようで、航空分野以外の工場の管理を任されたりもした。死の直前のポリカルポフが自分の工場にヤンゲリを呼び戻したが、ポリカルコフの死によって設計局は解体され、ミコヤンの設計局に移ったヤンゲリはしかし、病気の悪化によって辞職した。1946年にミヤシシチェフの設計局に入社するが、設計局が解体されて再び無職に戻っている。
1948年に航空産業アカデミーの上級エンジニア向けの教育課程に進んだヤンゲリは1950年に卒業、弾道ミサイルの開発をしていたNII-88の誘導システム部門に赴任した。これは管理職としての赴任で、しかもヤンゲリは誘導システムは専門外だった。
1952年ヤンゲリはNII-88のチーフデザイナーに昇格し、これは直ちにコロリョフとの深刻な対立に発展した。ヤンゲリはNII-88で開発中のアイディアを参考に、常温酸化剤を使った長距離弾道ミサイルの開発を提案した。この提案は軍に受け入れられたがコロリョフの強い反対にあった。
1954年ヤンゲリは独立した設計局OKB-586をウクライナに設立し、これに移籍した。
以来ヤンゲリは常温酸化剤を使用した長距離弾道ミサイルの一連のファミリーを開発した。最初のR-12は上段を足して衛星打ち上げ可能とし、小型衛星利用に道を開いた。
R-26は大陸間弾道弾になる筈だったが、1960年10月24日に射点で爆発、120人以上を殺す大惨事となった。これに関わらずR-26の開発は進められ、翌年には打ち上げを成功させている。これはR-7以外の、即時打ち上げ可能な大陸間弾道ミサイルをソ連が保有するためだった。R-36の後継R-36Mはソ連で最初にコンピュータ誘導となり、コールドローンチでMIRV弾頭を搭載する大型大陸間弾道ミサイルとして冷戦の主役となった。このR-36Mは現在もロシアの核戦力の一部である。
ヤンゲリは宇宙機の設計局ユージュノエも開設した。R-36で打ち上げる原子力衛星を手掛けたのもユージュノエである。ヤンゲリは結局有人宇宙開発には参加しなかった。1965年頃にはコロリョフと和解し、月着陸船の推進系を手掛けている。
1971年10月25日没。
ヤンゲリの残したOKB-586はユージュマッシュに、ユージュノエはそのまま、ソ連崩壊を乗り越えました。今それらはウクライナの企業です。
チェルトク Б.Е.Черток
1912年3月1日、ロシア帝国ウッチ(現ポーランド)にて生まれる。大戦で一家は1914年モスクワに移住した。1930年バウマン・モスクワ工科大学の入学試験に合格したが、両親がプロレタリア階級でないとして入学を拒否される。チェルトクは電気技師として働きながら1934年モスクワ電力研究所の夜間部に入学、1940年に卒業した。
1945年占領下ドイツへ弾道ミサイル関連の調査のために派遣され、以降コロリョフらと弾道ミサイルの開発を行っていく。代表的な業績としてスタートラッカの開発がある。
自伝「ロケットと人々」" Ракеты и люди"全四冊はソ連時代の宇宙開発史について基礎的な文献である。
2011年12月14日没。
旧ソ連の宇宙開発について「ロケットと人々」は基礎文献です。これを読まずして旧ソ連宇宙開発を語ることは出来ないというのは、一読すれば誰にでもわかることでしょう。
「ロケットと人々」にはNASAによって行われた英訳(無料で公開されています)があります。最初の一巻目だけなら邦訳もあります。読みやすくとにかく面白いので一読をお勧めします。




