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6月

 軍から借りてきたと思しきトラックの、運転席と助手席の間にレムは腰を下ろす。

 運転はコロリョフ、そしてレムを挟んで助手席にはグルシュコ。エンジンが掛かって、やがてトラックはキエフ工科大前のペレモヴィ通りに入る。


「本当に毎日来るけど、君はまるで工科大の学生みたいだな」


 もう夏休みですから、レムはそう返事する。

 キエフ大学は例年よりも早く夏休みに突入していた。ユダヤ人の教授らを追放したおかげでカリキュラムの維持に問題をきたしていたのだ。

 そういう訳でレムはロケットづくりに連日本格的に参加していた。


「夏合宿はいつから参加できるんだい」


「いつからでも、フルタイム参加できますよ」


 キエフ航空宇宙協会(КАКА)恒例のオデッサでの夏季合宿だったが、今年は例年とは違い、陸軍の敷地内でロケットを打ち上げる。

 遂に打ち上げるのだ。


 元々キエフ航空宇宙協会が使っていた合宿所はちょっとオデッサ市街から遠く不便だったが、今回は陸軍の宿舎を使わせてもらえるとの事で、大幅に便利になったという。

 しかも宿泊費、食費もこちらの負担無しだ。参加しない理由が無い。


「それならさ、急ぎだけど明日、はしけに乗らないか。交通費がタダになるよ」


「ええ、そのつもりです」


 オデッサでは春から海岸でロケットの打ち上げ場の整備が進んでいると聞いていた。

 大きな荷物、例えばロケットや新造した打ち上げ架台は、はしけに載せて運ぶ。ドニエプル川を降って黒海に出て、そしてオデッサに向かうのだ。


「ところで……」


 グルシュコが、幾分声を低めてレムに聞く。


「アジモフ君とは今も連絡は取れるのかい?」


 4月末以来会っていない。しかし、


「連絡は、取れます」


 アジモフの住所は覚えている。


「……いいかい、これはあまり大っぴらにはしたくない種類の話だが、我々はキエフ工科大のユダヤ系学生とその家族のうち、希望者を国外に脱出させたいと考えている」


 トラックが揺れた。


「脱出ルートは2つ。パスポートを持っている方と、調達できなかった方。調達できなかったほうは密出国になるし、相手の国、つまりパレスティナへも密入国になる。

 持っているほうは、オデッサにまだ残っている外国領事館を通じてビザを取得する」


 但し、と続きをコロリョフが継ぐ。


「これはイゴール・シコルスキーの国外脱出への便乗だ」


 イゴール・シコルスキーはウクライナの航空産業の超大物だ。いや、だったと言うべきか。彼が起業したシコルスキー飛行機会社はしばらく前に国有化されている。


「向かう先はアメリカ、そちらは話がついている。とりあえずの国外脱出先は、日本。そこでアメリカへのビザと移民許可を取得することになる」


 現在ウクライナ共和国に大使館を置いているのは数か国しかない。キエフにあるのはドイツとイタリア、ハンガリー、そして日本くらいだ。イギリスもアメリカも少し前に大使館を畳んでいる。

 元々ウクライナはドイツの傀儡国として承認を拒否する国が多く、でも長年の努力で独立国として国際的に認められるようになった筈だった。

 それがドイツの近年の国際的な孤立化のせいで、やっぱり傀儡国だったと諸国に手のひらを返されたのが去年だった。代わりに満州国大使館が出来たのには笑ったけど、笑えたのはそのくらいだった。


 トラックは橋に差し掛かる。


「で、移民の技術者枠、イゴールの技術スタッフの枠で、何人かアメリカへの移民許可が取れる。キエフ工科大の学生はみんなこの技術スタッフ枠に押し込んだ」


 グルシュコがレムに向き合う。


「アジモフ君が希望すれば、我々はこのリストに彼の名前を載せる用意がある」


    ・


 ポジール地区の検問は素通しだったが、広場では歩哨に、身分証を見せるよう言われた。レムは学生証を提示したが、学生がこんなところに出入りするのは感心しない、みたいなことを言われた。


 地区の中は思ったより賑やかで、街路には屋台が出ていた。建物はまだポグロムによる破壊から修理のできていないところが多い。


 アジモフの家には夕食前で家族全員がいたので話は早かった。


「残念ながら私たちは、パスポートが調達できなかった方になる」


 アジモフの父親は、一番下の子供がパスポートを持っていないことを理由に、パレスティナ行きを希望した。彼らはしばらく前に移民を真剣に考慮して、その際に家族全員のパスポートを作成していたのだ。だがその後アジモフの弟が生まれたらしい。

 そして今では、公民権が停止されてはパスポートは作成できない。


「だが、アイザックは別だ。希望するなら、アメリカへ行って良い」


 夕食の後、彼らはすぐに荷造りを始めた。あまり多くを持っていくことは出来ない。事前に持ち込み可能な荷物重量について聞いていたので、秤を持ち出して荷物の重さをそれぞれ調べる。

 アジモフは自分のタイプライターを持っていくかどうか、悩んでいるようだ。


「代わりにポータブルな奴を持っていったらどうだ?」


「新品なんだぞ、くそっ」


 そう言いながら、決心したようだ。

 レムとアジモフはその黒いタイプライターを持ち出すと、街路の上に敷物をしてタイプライターを置き、そして交換希望者がいないか、声を上げて呼び込みを始めた。

 陽はもう落ちていたが空はまだ明るい。街路は夜中にも関わらず人が多く、あっという間に最初の交換希望者が現れたが、アジモフが想定していたのはもっと小さな機種だった。

 一時間ほど粘って、良さそうな機種との交換の目途がついた。ライムブルーの女性向けっぽい、使い込まれたタイプライターだった。もうこれ以上のものは望めないだろう。


 落ち合う時刻と場所を決めて、レムはアジモフの家を立ち去った。

 街路を通り、広場へ出て、検問を抜ける。


 流石に疲れたが、そのまま河畔を歩き続ける。ドニエプル河に掛かる長大な橋を渡り、そして川の中にある島へと踏み入る。昼間にトラックで通った道だ。

 街灯の無い寂しい道をしばらく歩くと、軍の資材置き場に辿り着く。ここは今はキエフ航空宇宙協会が借りて管理している。

 レムはうち小屋の一つに入ると、そのまま床で寝てしまった。


   ・


 6月の朝はまだ冷え込む。

 寒さに起き出したレムは、辺りの明るさに寝過ごしたかと一瞬思った。夏至の頃に近づくにつれて夜はますます短くなっていた。

 洗面所で見知らぬ家族の一団と出くわしたが、この人たちはグルシュコの言っていたキエフ工科大の学生の家族か。


 今回の企みが大っぴらにできないのは、ユダヤ人たちの許可証の居住地変更許可も移動許可も取っていないからだ。出国対応は外務省の管轄で、更にオデッサの官憲はぬるいことが期待できた。しかし許可証の管理は治安警察で、これはまったく期待するだけ無駄だろう。


 身支度を整える。レムの荷物は、いつも持ち歩いている黒い医者鞄だけだ。


 川岸では既にはしけのエンジンに火が入っていた。まだボイラーの蒸気圧が上がるまでは時間がかかるだろう。

 コロリョフとポジール地区の河岸に付ける場所と時刻を確認する。


 はしけにユダヤ人の一家が乗り込む。はしけには帆布の天蓋が掛かっており、その下に潜り込めば快適に過ごせそうだ。

 レムも乗り込むと、もやい綱が解かれ、はしけは岸を離れた。


 ドニエプル河は真っ白な霧に覆われていたが、日が昇るにつれて霧は急速に晴れていった。もう朝5時だ。


 ポジール地区は河のすぐ対岸だ。はしけは軽快とはいえない取り回しでゆっくりと対岸へと近づいてゆく。

 河岸に近づくとはしけは更に船脚を落とした。


 河岸にアジモフらが見えた。他にも乗っていく別の家族もあったらしい。

 慣性誘導担当のチェルトクもいる。会社勤めをしていてロケット開発はボランティアだと聞いていたから、しばらく姿を見なかったのを気にしていなかったが、なるほど彼もユダヤ人だったのか。

 誰かがアジモフに綱を投げる。


「掴んでいろ」


 渡し板が河岸に差し渡され、アジモフの家族や他の家族が揺れる渡し板を踏んで船内に乗り込んでいく。

 危なっかしい光景だったが、全員無事に渡ることが出来た。最後にアジモフが綱を持ったまま渡し板を渡り、そして板は取り外される。

 はしけは岸を離れた。


  ・


 はしけは真っ黒な煙を吐きながら軽快に走っていた。

 今回の荷物は、いつもの石炭や小麦よりずっと軽いから船脚が速いのだそうだ。


 その荷物の一つ、ロケットは安定翼を取り外されていたが、およそ完成した姿で積み込まれていた。


「ここひと月、ずっとこいつの試験をしていたんだ」


 レムはロケットの機体におこなった試験についてアジモフに解説した。


 まずやったのが、静荷重試験だ。

 ロケットが飛ぶとき、予定では最大で10Gの加速度がかかる。つまり500キログラムのロケットは、その時5トンの荷重がかかることになる。

 ロケットはこれに耐えないといけない。さもなければ、多分ロケットは空中でグシャリと潰れてしまうだろう。

 ロケットの先端近くにアンカーボルトを埋めてワイヤーを掛けて、ロケットを立てて地面からワイヤーをウインチで引っ張ったよ。そうやって5トンの荷重をかけたんだ。


 10Gで壊れないとわかったら、次は振動試験だ。

 ロケットエンジンは燃焼中にものすごい振動源になることは既に分かっている。これでネジが緩んだりワイヤが外れたりしないか、確認しないといけない。


 どうやるかというと、全部組み立てたロケットをトラックの荷台に載せて、荒れた砂利道を走らせたんだ。わかるだろ?

 ロケットに舌があったら大変なことになっただろうね。


 最初にやったときは大変だったよ。バッテリーが一個もげて、内部を転がって滅茶苦茶にしちゃったんだ。

 二回目はずいぶんマシになったけど、通電したら無線機から煙が出たよ。


 およそ10回繰り返して、ロケットの中の様子は最初とは別物になったという訳さ。ほとんど作り直しだよ。


   ・


 昼頃には空気が熱くなって、みんな天幕の下から出てきて、船べりで風に当たってのんびりと過ごした。


「僕はあのあと、一作しか書けなかった」


 アジモフはタイプ原稿の束を取り出してレムに渡した。


「図書館に行けないと本当につらいね」


 タイトルは"密航者"、またしても全部英語だ。


 文章は随分とましになっていた。全部三人称になっていることにレムは気づいた。人称のぶれは初心者の特徴の一つだ。それをアジモフは脱却したのだ。

 だが、英単語の語彙が多分まだ足りていないと思う。描写が直截に過ぎる気もする。言い回し、英語の修辞も足りていない。

 誤字は結構あるが、アジモフが自分で気が付いた分は万年筆で修正が入っている。

 さて、内容だが、


「磁場とはどういうものか、つまり、懐中電灯みたいに照射されるような種類のものでないことは、ちょっと知っておいて欲しい……」


 作中でカリストの現住生物が探検隊を襲う時に使う磁力は、何というか、引っ張ったり跳ね飛ばしたりするだけのものでしかなかった。

 そういう理解になってしまうのは分かるが、もう一歩、ちゃんとした理解が欲しい。


「電波は照射できるんだろ?だったら磁場でも」


「磁場は"場"だ。電流が磁場を作る」


 例えば宇宙服に無線機が備え付けられていたら、宇宙服の金属が人間を跳ね飛ばす前に、まず最初に磁場の中で壊れてしまうだろう。


「じゃあ、永久磁石にも電流が流れているのかい。それだと無限に電流が取れるんじゃないかな」


 アジモフは痛いところを突いてきた。そのへんの理屈、最外殻電子のスピンの何とか言う理屈は、一度どこかで読んだがすっかり忘れた。というより、理解できなかったのだ。


「永久磁石は、アレだ、ディラック理論のほうの理屈で成立しているらしい」


 つまり、アインシュタインの向こう側の理論だ。大抵の人と同様、アジモフもそこで追及の手を緩めてくれた。だが、


「つまり、ディラックとかハイゼンベルグとか、そういう場とか何とかで、磁力光線(マグネ-ビーム)をでっちあげても文句は出ないという訳だね」


 はいはい、次回作には生かしてくれ。


   ・


 その後、レムは自分の書いた短編小説をアジモフに読んでもらった。


「君は文明批評しか書かない気かい?」


 ああ、言われてしまった。


 はしけが錨を降ろしたのは、夕食の後、日没の後、つまり午後十時頃のことだった。

 船内には明かりがほとんど無かったから、日没を合図にみんな寝てしまった。

 日没の後も空は明るかったから、レムは錨を降ろすところまでは起きていたが、やがて寝てしまった。


 翌日起きると既に日は高く、川の様子は全然変わらないように見えた。川岸はどこまでも河原の石ころと灌木と草原が続いているようだった。いや、西岸のほうが幾分か高いかもしれない。


 その日はレムとアジモフは、好きな作家を勧めあい、そして嫌いな作家の悪口を言い合って時間をつぶした。丸っきりの無駄話に近かったが、アジモフがウッドハウスを非常に愛好している事だけは強く印象に残った。あの英文はウッドハウスのつもりなのか。


 夕方、はしけはウクライナの工業の中心、シチェスラフ市を通過した。たなびく黒煙は数百キロ風下まで長く続いているようだった。


 夕食の後の雑談で、仲良くなった学生たちと将来の宇宙について、特に宇宙島を作れるかどうかで議論になった。半永久的に人間が暮らせる人工の衛星、宇宙島について、アジモフは20世紀のうちに作る事ができると言い、一同の拍手を浴びていた。どういう事かと思ったら、


「例えブリキのシオンでも、この地上のどこよりも平和なのは確かだ」


 誰かが言う。そうか、ユダヤ人学生たちはそういう希望を抱いているのか。


 更に翌日の午前、はしけはザポリージャの水力発電所に到達した。

 水力発電所はドニエプル河をダムのように堰き止めて、その莫大な水量から電力を得ていた。ここはアメリカのフーバーダムのおよそ半分にも達する発電能力を持っており、ウクライナの重工業を支える要だった。


 はしけは閘門を使って水力発電所の脇を通過する。本来ならここで臨検があるのだが、このはしけは軍のものなのでフリーパスだ。

 通過した後、下流側から眺めた水力発電所の姿は壮観だった。


 アジモフはポータブルタイプライターを試していたが、気が散るのか、うまくいかないようだ。

 レムは船べりでぼんやりと時間をつぶした。


 アジモフにアメリカ行きのチャンスが出来た事は、実はちょっとショックだった。


 偉大なステファン・バナッハの直弟子スタニスワフ・ウラムのように、フォン・ノイマン(超天才)がやってきてアメリカ移住に誘うことを妄想することがあった。

 バナッハがフォン・ノイマン直々のアメリカ移住の誘いを断ったのは去年の事で、同じ街(リヴィウ)の子供であるレムも当然そういう話は聞くし、妄想もする。

 しかしまぁ、妄想だから諦めもしやすい。

 それがアジモフの身に、スケールこそ違え降りかかることになろうとは。


 実際がどうであれ、レムの妄想に近い認識では、アメリカ行きというのは天才にのみ許される領域の話なのだ。


 もし、本当のことを話していたら、レムにも機会は巡ってきていたのだろうか。


 実は、レムにはユダヤ人の血が流れている。普段は全く意識することが無く、父も完全にユダヤ人社会と絶縁しているのだが、父方の祖父はユダヤ人だった。母はキリスト教徒のポーランド人で、レムは母方の文化の影響のもとに育った。


 リヴィウのように人口の三割がユダヤ人で、既に混交が進んだ社会では誰も気にしない話だったが、ウクライナという国では違った。だから母方の叔父の発案で、身分証明をごまかそうという話になった。リヴィウの帰属がウクライナとポーランドの間でうろうろしていた頃の話だ。

 ウクライナの多くの大学がユダヤ人の入学枠に制限を設けていた。レムはそれをごまかした訳だが、アジモフはそれを正面突破していた。


 アジモフにはそれだけの権利があるのだ。


    ・


 次の日の夕方、はしけはドニエプル川の河口に到着した。黒海は荒れるから気を付けろと言われたが、同時に、オデッサまですぐだとも言う。


 翌日は静かな水面の様子に、大げさに脅されたのかと思ったが、これはドニエプル河口の内海らしい。長く続く砂州を眺めていると、目が痛いのに気づいた。

 塩気か。


 内海を出ると、オデッサは湾の向こうにかすかに見えるほど近かった。

 レムはしかし、ここで初めて船酔いをした。


「すぐだから我慢しろ」


 そう言われても、きつい。

 

 5日間の船旅の最後は、なんともしまらないものとなった。

 レムとアジモフは、ふらふらの足ではしけを降りた。


 オデッサだ。

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