「金星脱出船」
「金星脱出船」 S, レム
「45番エンジンなら問題ない。黒鉛電極棒の温度は安定した。どうせまたふらつくだろうが、危険な領域に入りはしないだろう」
ハル・ブレッグは請け合ったが、ギムマはしつこく食い下がった。
「本当か。本当だろうな。速度増分は減っているんじゃないのか」
「2番も14番も79番も推力は規定値以上出ているし、もうすぐ加速期間も終わるから推力は問題じゃなくなる」
オラフ・スターヴの死から一週間、ギムマの目のまわりの隈は更に大きくなったように見える。
「減速期間で、今調子が悪いエンジンがおかしくなるような事が無いよう願いたいものだな」
速度増分はエンジンがどのくらい推力を出し続けられるか、その約束の数字だ。エンジンたちはおおむねその期待値の半分を消化したところだった。
「安心しろ、例えエンジンが4つばかり壊れても残り86機のエンジンは絶好調だ」
ブレッグのこのセリフに、ギムマが噛みつく。
「エンジンの5パーセントを失っても問題が無いだと!
君は全く問題が分かっていないようだな。この船は15パーセント定格乗員超過をしているのだぞ。もし速度増分の1ミリメートル毎秒でも足りなければ、我々は金星へ辿り着けないのだ!」
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俺たちを纏め、一つの大きな力としてこの未曽有の大事業を推進してきた巨人、オラフ・スターヴが死んで一週間。宇宙船プロメテウス号はまだ金星への遥かな道のりの10分の1も踏破していなかったが、既に膨大な速度を獲得して宇宙を突進していた。
俺たちの後方で、地球は戦争の最終局面を迎えていた。インドやシナの巨大都市を焼く炎は地球の夜の側に点々と光り、ヨーロッパを覆う黄色い塩素ガスの雲はプロメテウス号の高性能望遠鏡でも観測することができるほどだった。
地球の文明は崩壊しつつあった。
オラフはこの事態を予見し、地球を脱出する宇宙船をこの10年建造し続けてきた。オラフモーターズの巨大な本社ビルディングが実は巨大なロケットの整備塔だったと判明したのが2か月前、予め選ばれていた2000人に地球脱出の招待状が送られたのも2か月前だった。
ハル・ブレックの事情は少し違う。そのずっと前からオラフの下でこの巨大計画の心臓、原子核エンジンを担当していた。
結果として、プロメテウス号には船員に当たる400人と、招待されてやってきた乗客2000人が乗り、そして彼らだけが地球脱出を果たしたのだ。
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プロメテウス号の乗客区画は三等船室さながらの混みようで、そこに天井のスピーカーが響く。
「本船は一分後にエンジンを停止し、それから船体をゆるやかに回転させます。これにより船の外壁側が下に、床になります。
二番の矢印の描かれた側に身体を寄せて、重力方向の変化に備えてください」
このアナウンスを乗客のどれだけが理解できただろうか。予めこの三週間、入念に説明が行われていたが、それでも、経験していない物事には対応できない人は多い。
乗客たちはまず、静かになったことに気が付く。この三週間ずっと核エンジンの立てる轟音の中で暮らしていた事をほとんど忘れていたのだ。同時に足がこれまで床だった壁から浮く。
大抵の乗客は事前の説明の通り、縄で自分たちと壁の手すりとを結んでいたが、乗客たちの少なくない数が広い空間に飛び出してしまう。
次いで、ギシギシと低い不吉な響きが区画に響き渡る。船体を回転させようとする力に抗って、頑丈なアルミニウム合金でできた船体が軋んでいるのだ。
船体はやがてゆっくりと、目に見えないくらいの回転を始め、ごくわずかな遠心力は、やがて順調に増大していく。あらゆるものが新しい床を見出し、落ちていく。その中にはさっき空中に飛び出してしまった不注意な乗客もいる。
悲鳴があがる。幾つもの悲鳴、怒号、助けを求める声が響く。
実際の船体の回転方向と、事前説明されていた方向が丸っきり違っていたのだ。
乗客対応は乗客課の責任だったが、元は計画課の作成して乗客課に渡した情報に間違いがあった。
ハルが機関課の事実上のトップであるように、ギムマは計画課のトップで、既にオラフ亡き後のプロメテウス号を事実上掌握しつつあった。だが、この事件によりギムマの責任を追及する声があがった。
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「死者3名、負傷者64名」
「死者は4名、2時間前にもう1人死んだ」
ギムマが答えると、航法課主任のアルダーが机を拳で叩いた。
「貴様の責任だぞ。貴様何か別のことにかまけておったそうだな」
「開拓課としては、能力アンケートの委託は妥当なものだと考えます」
開拓課主任の助け舟が入る。こいつはギムマの派閥だな。
ハル・ブレッグは主任会議の陣容をギムマ派と反ギムマ派に頭の中で分けた。偉大なオラフの死後、正式な宇宙船のリーダーはいない。
宇宙船プロメテウス号は特殊な船だ。生涯ただ一度の航海を終え金星に着陸したらもう二度と飛び立つことは無い。船体は解体されて最初の金星植民地の資材になる。
誰も経験者のいない船なのだ。皆が船長なのだよ、オラフはかつてそう言っていた。全員が各自の大きな責任を果たさなければ人類は滅ぶのだ、と。
オラフ亡き後の最高責任者を選ぼうとなったとき、揉めた挙句、各自が自分の仕事をちゃんとこなせば、理屈の上では船長は必要ない、そういう結論になっていた。
だがどうも、ギムマは自分の仕事以外の仕事をやっている。これは危険極まりなかった。
「これは前例のない状況であり、ごくわずかな犠牲は許容されなければならないでしょう。我々は危ない橋を渡り続けている最中だ」
備品課もギムマの擁護にまわった。そうしてギムマの責任問題はそれ以上追及される事は無く、次の議題へと移った。ギムマの提案だ。
「反省と対策として、乗客の中から協力者を募り、訓練したいと考えています。彼らは乗客の安全を守り、行動を助けることになります」
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「ポロニウム庫に乗客が侵入していました」
部下のヴェンチュリーの報告に、ハル・ブレックは思わず腰を浮かした。防護服なしに燃料のポロニウムに近づけば酷い放射線火傷を負ってしまう。乗客はおろか許可なきものは誰も入るべきではない場所だ。
現場には、部下たちに拘束された男がいた。服の袖に灰色の腕章が巻いてあるのが目についた。
「保安補助員、だと言っています」
男を尋問していた部下の一人が困惑した様子で言う。
「計画本部の指示で、防犯対策の準備として全ての部屋をチェックしている。これは全て許可を得たもので、その証拠に、この区画のマスターキーも」
男の言う通り、確かにマスターキーだ。船長室にある筈のものだが、いつのまにか計画課のマークが付いている。
計画課のやったことか。ここでしばらく前の主任会議を思い出す。乗客の中から協力者を募るという話だったが、マスターキーを持たせるのはいくら何でもやりすぎだ。
灰色の腕章をした男は言う。
「君たちは計画本部に保安補助員の任務を妨害したことについて報告しなければならない」
男はまだ何か言っていたが、おおよそのところは分かったと思う。解放してやれ、と言おうとして、気が付いた。
「腕章の下の数字、Bの何とか、それは何か意味があるものなのか?」
・
ギムマは航法コントロール室にいた。
航法コントールは宇宙船プロメテウス号の真の頭脳だった。ここにある20万個の電磁継電器が船内のあらゆる制御を受け持っていた。電磁継電器の立てる小さなカチカチという音は、ここでは20万個の大合唱となって鳴り響いていた。
「能力階級とは何だ」
ハル・ブレックは前置き抜きに切り出した。
リレーの鳴る音に耳を傾けて陶然としていたような表情は消えてゆき、明らかに気分を害されたとわかる表情でギムマはハルに向かい合う。
「ふん、少し時間に余裕があるから答えてやろう。乗客及び乗組員の能力を調査して、優れた能力のものに責任ある仕事を任せるようにした、それだけの事だ」
「防護服も無しにポロニウム庫に迷い込むような間抜けがその能力階級のBって訳か」
ギムマは更に苛ついた表情になった。
「総合評価だよ。
オラフ・スターヴの私室の金庫の中に、この船に乗っている全員の詳細な調査書類があった。
知っていたか?オラフの奴は、乗客を無作為抽出で選んでいやがった!!
能力あるものだけが、優秀の中でも最優秀の者だけが乗るべき宇宙船にだぞ。民族も人種も宗教も信条も学歴も年齢もまるで出鱈目に選んでいたんだ!」
ギムマの手がハルの肩を強く掴む。ぎらぎらと怒りと信念に燃える目に圧倒されそうになる。
だが一方で、オラフ・スターヴの理想が自分の思っていたよりずっと高かったことに安堵もしていた。オラフは誰が誰より救われるべき等とは考えていなかった。ただ高みから、人類の完全なサンプルに近いものを乗客にしたのだ。
「御蔭で乗客の能力は馬鹿みたいに綺麗な正規分布を作っていたよ。優秀側の偏差プラス1シグマ以上がB、2シグマ以上がA、そして3シグマ以上がSランクになる。逆に劣等側のマイナス1シグマ以下はまとめてDランクだ」
正規分布通りだと言うなら、平均的な乗客、Cランクは全体の70パーセントほどを占めることになる。BとAとSまとめて15パーセントほど、そして同数15パーセントのDランクがいることになる。
15パーセントという数字は不吉だった。ギムマはこの船を15パーセントの定員超過だと考えていた。いやまさか、ざっくり400人だぞ。
ギムマの腕にある金糸の縫い取りのある腕章にはSの文字がやはり金文字で刺繍されていた。茶番だ。
「ほんの興味から聞くのだが、どういう総合評価でお前さんが千人に一人の評価になったんだ?」
「将来の人類社会に貢献する、その度合いの大きさで決まるのさ」
ハルの皮肉は全く無視された。
「プロメテウスの乗客に優秀な者は少なく、殆どが凡人で、少なからぬ劣等能力者が紛れ込んでいる。こういう集団を導くには、少数の強力な指導体制が必要になるのは自明だろう。
絶対権力を確立し、冷徹な決断を強権でもって実現しなければ、このような軟弱な集団は瓦解することが目に見えている」
そこでギムマは、青い布切れを持ち出した。腕章か。赤い文字、Aの21まで読めた。
「君には是非、その能力を万全に発揮して欲しい」
オラフは周囲にちらりと目をやる。灰色の腕章をつけた男が3名、部屋の隅にいる。付いてきていたオラフの部下ヴェンチュリーは、あれは拘束されているのか。
「なぁ、アルダーはどこに行った?」
この部屋は元々航法課主任のアルダーの城だ。神経質なアルダーが常に耳を澄ませて、彼の愛する電磁継電器の異常を見逃すまいとしている、その姿が今はここに無い。
「彼の能力階級は残念ながらDランクに位置することが判明した。彼に宇宙船の中枢を任せることはできない」
ばかな。
「アルダーは天才だぞ!彼を優秀と呼ばないで誰を優秀だと言うんだ!
この船の航法コントール全体が彼の設計だ。彼抜きでこの船は飛ばせないぞ」
「いや、このとおり、彼抜きで立派に機械は動いているじゃないか。流石は自動機械だ。アルダーは金星着陸まで完璧に動くことを保証してくれたよ」
こいつは技術の常識も何も知らないのだ。
「ギムマ、いいかよく聞け。電磁継電器の寿命は短い。アルダーは電磁継電器を消耗品扱いしていた。だから航法コントロールの故障のうちには電磁継電器の寿命を入れていない筈だ。
だから実際の、航法コントロールの寿命はとんでもなく短い。ここに20万個あることを考えてみろ。今この瞬間にも1つ2つ壊れてもおかしくないぞ。
そして、20万個のうちから壊れた1個を見つけ出すには、設計者であるアルダーの天才が絶対に必要なんだ」
ギムマの顔色が変わったが、しかしやがて、
「仕方が無かった……指導体制を揺るがす者は排除されなければならなかった……」
「アルダーを戻せ」
ギムマは顔を伏せた。
次に発した声の響きは、さっきまでとは全く違っていた。
「ハル・ブレックは能力調査の最重要項目に合格しなかった。
こいつをDランクに登録して、そしてできるだけ早く排出しろ」
ハルの両腕は灰色の腕章をつけた男たちにがっちりと掴まれた。
・
その後ハルは身に着けているもの全てを剥ぎ取られ、他の4人と一緒に、船外連絡チューブの前で並ばされた。
他の4人というのは全員男で、3人は年寄り、あと1人はハルの部下、ヴェンチュリーだ。ヴェンチュリーによれば、男女別に分けているようだとの事。ここまで灰色腕章連中に棒で小突かれ続けて、ハルの身体は全身青あざだらけになっていたが、他の4人も酷い傷やあざだらけだ。
船外連絡チューブは宇宙船の外に出るための一種の二重ドアで、船内の空気をできるだけ逃がさない構造になっている。
ここまで来れば、排出とやらが何であるかは明白だ。
だがそれより、
「アルダーを見たか」
ヴェンチュリーに聞く。
「見ていません。しかし主任は自分の身が危ないというのにアルダーの心配ですか」
「君だって危ないのは同じだ」
「いやそうかもしれま」
「黙れ」
灰色腕章がヴェンチュリーを棒で強く突く。
船外連絡チューブの内側のドアが開くと、不注意で外側のドアも同時に開けて空気を逃がしてしまうのを防ぐためのベルが鳴り始めた。ドアにはパッキンが入っており、ここから宇宙船の外に空気が漏れないようになっている。
「さぁ入れ」
灰色腕章たちの後ろにギムマが立っているのが見えた。
「おいギムマ!アルダーは」
「さっさと入れ。今日はあと40排出があるんだ。面倒をかけるな」
連中はDランクを全員殺す気なのか。
強く棒で突かれて、ハルは床に倒れた。ちくしょう、ただで死んでたまるか。
だが、
「抵抗があるなら拳銃を使用することを許可する」
おい待て、宇宙船の外壁を撃ち抜いたらどうなると思っている。ハルは自分の身の危険より銃弾が外壁を破る危険に恐れをなした。
後ろから出てきた青腕章の一人が拳銃をホルスターから抜くのが見える。
構えた銃は、ハルの頭にまっすぐ向いていた。ここでようやく、ハルも自分の死を意識した。
ここまでか。
だが、青腕章の拳銃がふらつき、見ると男の額に黒い穴のようなものが見える。
かすかにジュッ、という音を聞いた気がした。
次いで周囲の灰色腕章たちが倒れ、そしてハルは見た。ヴェンチュリーの伸ばした腕の先、指先が逃げていくギムマを指す。
指先が瞬間、白熱し、そしてギムマは倒れた。
ヴェンチュリーの人差し指は見る間に光を失い赤く、そして黒く変色していった。
「熱線ですよ。さすがに使ってしまうと肌の色には戻りません」
ヴェンチュリーは少し残念そうに自分の黒い指先を見る。
「アルダー技師は我々が保護しています。治療が済み次第こちらへ戻すことになっています」
「我々……とは?」
「金星人ですよ。私は金星人です。
まさか金星が本当に知的文明の無い星だと思っていたのですか?」
ヴェンチュリーは裸のまま、青腕章の取り落した拳銃をつまみ上げると、そのまま船外連絡チューブの中へと入っていった。
「本来は、金星へ来る資格のある地球人類なんていないのですよ。資格の無いことを、惑星を滅ぼすことによって証明してしまった。
でも、最後の機会を与えようと、地球人オラフ・スターヴと話し合って、この宇宙船を仕立てたのです。
地球人がこのように機会を失うのは我々の本意ではありません」
船外連絡チューブの扉が内側から閉められてゆく。
「本当の試験はこれからです、地球人ハル・ブレック」
扉が完全に閉鎖されるとランプが一つ消え、代わりに船外連絡チューブの外側の扉が開かれたことをしめすランプが一つ灯った。ベルが鳴り止んだ事に気が付く。
やがてそのランプも消えた。
1938年5月 キエフにて
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レムが架空の書評を書くなら、我々は架空のレムの短編を書くまでです。