3月
レムの大学生らしい異性交遊は、わずか一か月足らずで終わりを迎えようとしていた。
イリーナはフンドクレエフスカヤ女子大のドイツ文学専攻の一年生で、熱心なハンドボールのプレーヤーで、そして立派な胸を持っていた。揺れるのだ。
目の前で揺れるのだ。すごいぞ。
全キエフ合同サークル懇親会という、要はデート相手を探すためのパーティに高い参加費を払って参加して、結局参加者は40名ばかりしかいなかったのだが、医師志望というところでレムは何らかのふるいにかけられて、残ったらしい。
声をかけてくれた相手は3人ほどいたが、レムが声をかけたのは前述のとおり一番大きなおっぱいだった。
最初のデートはマルクス兄弟の喜劇映画だった。映画の後、ドゥマ広場のカフェで、レムはイリーナからそれとなく不満を聞かされた。失敗だ。
文芸サークルの先輩ガンソフスキイが安全だと推薦した喜劇映画が外れだったことに狼狽して、今度はベタベタの恋愛モノらしきフランス映画を見ようと提案したが、イリーナは演劇を見に行こうという。
先週のデートがそのプロリズナヤ通りの小劇場だ。レムはイリーナの分のチケット代も奢ったが、劇の役者たちはどうもイリーナの知り合いたちばかりで、その中の男性たちにも気安く声をかけるイリーナにやきもきしたりもした。
その後に行ったカフェは騒がしい連中でいっぱいで、イリーナの演劇仲間と一緒のテーブルで、そしてレムはつい、自分は本当は医者になるつもりは無く、作家になりたいのだと漏らしてしまった。
その日はそれ以上は何もなかったが、翌々日にはもう大学の文芸サークル経由で、もう連絡してくるなと伝えられたのだ。
後から考えるとレムはイリーナの友人たちに貢がされただけであり、そもそも本命はレムではなく別だったのかも知れない。
さようならおっぱい。
・
「多分、僕よりマシだよ」
試験データをグラフに書き起こしながら、アジモフはレムにそう返した。
キエフ工科大のグライダー部改めキエフ航空宇宙協会(КАКА)の部室に、今はアジモフとレムの2人しかいない。来てみればコロリョフらは燃料タンクの耐圧試験のために近郊の工場まで出かけているらしい。
どうしたものかと思ったが、いつか機会があればやりたいと思っていたことが一つあった。書類の整理だ。という訳でレムは領収書や発注書、帳簿の整理を、アジモフは試験データの整理を手分けしてやっている。
そもそも大して頭脳を必要とする作業ではない。手を動かしながら雑談は出来る。
「全く、動物園のどこがいけないのさ」
アジモフの家の通りの向かいの女の子にデートを申し込んでみたのだそうだ。
凄いな。話を聞くと、タイピングを教えてもらっているそうで、そこからの流れだと割と自然にも思える。
で、動物園に行こうという話をしたところで、笑われて、それきりだという。
キエフの動物園はレムのお気に入りの場所だ。うら寂しい観覧車は行くたびに乗っているし、ペンギンにも必ず会いに行く。
でも、だからこそ、デートに誘うというのは悪手だということはわかる。行ってみればわかるが、子供とその親で一杯なのだ。
大学生がデートで行く場所じゃない。そもそもキエフ工科大の目の前という立地で察するべきだ。流行りのウィーン風コーヒーを出すカフェまで3キロは歩かないといけない場所に行きたがる女の子はいない。
「動物は可愛いだろ、女の子は可愛いものが好きだろ、だったら動物園は動物で一杯なんだし、理論上は最高に良い筈なんだ」
聞き流しながら、考える。
アジモフはタイプライターを手に入れた。そう直接聞いた訳ではないが、タイピングを習う理由はそれしか無かろう。
大学生の収入というのは、それもウクライナ最高学府の学生となると、家庭教師というそこそこ良いものに恵まれるようになる。レムは週に2日づつ、寄宿先の息子とその近所のギムナジウム高等部の子供に教えている。
アジモフも家庭教師をやっている筈だ。以前それとなく聞いた時は、
「ユダヤ人は教育には労力を惜しまないものさ」
そう返事が返ってきた。
手元に注意を戻す。
発注書はハリコフの工場に宛てたものの写しで、しかし中身はどう見てもドイツ製品だ。レムの額に皺が寄る。
ウクライナの産業の多くにドイツ資本が入り込んでいた。お金だけではない。産業界、そして政府にもドイツ人は食い込んでいた。
そのドイツ人の決して少なくない数が、去年の年末に職を辞していた。代わりにやってきたのはドイツ本国から直接やってきた連中で、要するにナチス、新しいドイツ経済相ゲーリングの意向に沿った人事だ。
恐らく、ウクライナの各地で生産するものがガラリと変わったことだろう。
普通に考えれば、トラクター工場から光学距離計が買える筈が無いのだ。
危険な事態が進行している。
ウクライナの産業は戦争向きに作り替えられようとしていた。それはつまり経済の破綻だ。
収支や損得勘定で見た時、これまでウクライナの産業は低空飛行しているとしか言いようのない状態だった。今起きている事は、ウクライナ産業界というポンコツ飛行機のそのエンジンを突然大砲に取り換えるようなものだ。墜落するのは時間の問題でしかない。
やがて民生品の品不足からインフレが進行し、物が手に入らなくなる。企業は給料を払えなくなる。
だが、その前に戦争になるだろう。
オーストリアは先日ドイツに併合された。ウクライナはどうなるのだろうか。
「探すところを間違えているんだよ僕たちは」
ああ、女の子の話か。そうだな、ここに、ロケットを作ってくるこの仲間たちの中に女の子がいれば最高だっただろう。
「サークル活動って奴に頼ったのが間違いだったのだと僕は助言するよ。
そもそもサークルの皆が皆、男女交際をしているという訳でも無いんだろう?」
アジモフはサークルの現状を知らない。
キエフ大学幻想文芸サークルは今や男女交際どころではないのだ。レムが2000語の短編を寄稿していたサークル発行ファンジンを昨日受け取っていたが、冒頭からレムは圧倒されてしまった。
ほれ、最新号だよ。レムは謄写版48ページの紐綴じ本をアジモフに投げて渡す。
「巻頭言……"文学に力が、社会的影響力があることは誰でも知っている事だが、こと科学小説、幻想小説の分野となると、これを真空に留めおこうという愚か者が現れるのは何故だろうか。
考えてみて欲しい。空想する頭脳には必ず肉体が付随し、その足は大地に、現実に根差している事を。空想は現実と不可分であり、更に言うなら、社会参加とも不可分なのだ。
文筆には現実に振り上げる拳も伴わなければならないのだ"
……ナニコレ」
「グロモワ先輩はガチの共産主義者だったろ。でさ、真ん中から後ろ、読んでみろよ」
レムが促すと、ペラペラとページをめくる音がする。
「ええと、"スニェーゴフ. C. A, 『モスクワ上空進攻』"?」
スニェーゴフはキエフ幻想文芸サークルの顧問講師、コロリョフらに近い年のおっさんのペンネームだ。スニェーゴフは自分の権力とサークルを二分する民族主義者たちの協力、そして更にレムの2000語を4分の1に削るというやりくちの併用でこれを掲載させたのだという。
レムとしては大いに怒るべき話だったが、掲載誌の惨状はもうそれどころではない。
スニェーゴフの短編の内容だが、まずウクライナが秘密裏に開発していた空中戦艦が出てくる。動力は最近流行りの核エネルギー・エンジンだ。
主人公は黒海艦隊の哨戒艇の若き艇長だったが、民間船を攻撃するソヴィエトの軍艦から民間船を守り戦った事で哨戒艇は動力を失い、救助した民間船の乗員とともに洋上を漂流していた、そこに空からその巨体は現れたのだ。
民間船に乗っていた少女とともに空中戦艦に乗り込む主人公。主人公は密かに乗組員として迎えられる予定であったという。主人公はそのまま空中魚雷の発射指揮の役目を命じられる。
洋上でドイツの空中戦艦と合流すると、二隻は一路北へまっすぐ、ソヴィエト領内へと侵攻する。目標はモスクワだ。
だがしかし、目の前に巨大なソヴィエトの空中要塞が現れる。この空中要塞が完成しないうちにソヴィエトと共産主義者を滅ぼすのが2隻の使命だったのだが、どうやらソヴィエトはそれを既に完成させていたらしい……
まぁざっとこんな内容である。後はもちろん主人公の側が勝つし、モスクワは火の海になる。それもご丁寧に、空中要塞の墜落つまり相手のせいで大火災になるので空中戦艦は無罪扱いだ。攻撃して墜落させたのは誰かは問われないらしい。
「これはひどい……」
ツッコみどころは山ほどあるが、
「女の子はこれ、最後に主人公にキスする以外の役目無いよね」
アジモフは物語としての評論から始めるようだ。
「ナチの、じゃなくてドイツの空中戦艦である点に注意が要るな」
「僕も気が付いていたよ」
民族主義者たちが全員ナチシンパである訳では無い。大抵の民族主義者はナチを完全には歓迎していない。ウクライナを乗っ取られる事を危惧しているのだ。だからドイツと協力して、みたいな描写は大好きだが、それ以上には抵抗があるらしい。
「これ、サークルの反応はどうだったの?」
「勿論、共産主義シンパたちは激怒しているよ。キエフ大学幻想文学サークルも今月限りという訳さ。来月にはきれいに分裂していると思う」
「プラナリアみたいに?」
「そう、プラナリアみたいに」
レムとアジモフは声を上げて笑った。
・
二人はキエフ大学幻想文学サークルを二分する共産主義シンパとも、民族主義者とも、そもそも無縁の立場だった。レムはポーランド人でアジモフはユダヤ人、だから最初から民族主義者には目の敵にされていた。
ただ、実際のウクライナの人口分布は、ウクライナ人を人口全体の五割とするなら、ポーランド人が二割、ロシア人が二割、ユダヤ人が一割、そんな国なのだ。だから実際にはウクライナ人の民族国家を作るという民族主義者の主張は現実的ではない。
だが、ドイツが、ナチスが絡むと話は別になるらしい。
対して共産主義者たちは多民族主義を標榜しており、二人に好意的だったが、レムらは共産主義者ではなかった。共産主義者たちから二人は、アメリカの軽薄なパルブ雑誌を好む資本主義かぶれだと思われていた。
二人が共産主義者を避けていたのは、もっと現実的な理由からだった。
共産主義者の中にソヴィエト政府の手先が数多く潜入しているのは周知の事実だった。
ウクライナの大抵の共産主義者たちはウクライナ1国で共産主義革命を完結させるつもりであり、ロシアに、ソヴィエトに飲み込まれるつもりは無い。だが中には国際間の連帯という理想に駆られた連中が必ず現れる。そして本物のソヴィエトのスパイは言動も行動も完璧に偽装していた。
そんな疑心暗鬼のドロドロのなかに足を突っ込むのは自殺行為だと、二人はしばらく前に結論していた。共産主義はまだ当分人類には早いのだ。
・
「おっ、ここは暖かいなぁ!」
部屋にどやどやと人が入ってくる。コロリョフたちが帰ってきたのだ。
ストーブの周りは瞬く間に人で一杯になる。コロリョフはアジモフの作ったグラフに目を止めると礼を言い、グラフを掲げて凄いぞと見せてまわった。
「加圧試験はどうでした?」
「大丈夫だったよ。何とか行ける。打ち上げは、ゴーだ」
#ウクライナについて
第一次世界大戦以前、ウクライナのほとんどはロシア帝国に属していました。残り、現在西ウクライナの一部はオーストリア-ハンガリー帝国に属し、レムの故郷リヴィウもここに属していました。
ウクライナ人という民族の自覚は、ロシア語ではない言語としてのウクライナ語の認知によって始まりました。18世紀、ロシア帝国やポーランドに併合されたスラヴ人諸国家や自治社会を祖とする歴史の自覚と共に民族主義者たちは現れました。
第一次世界大戦、その東方の戦場は当初、ロシア帝国とオーストリア-ハンガリー帝国の衝突の場となりましたが、崩壊するオーストリア軍に代わり、やがてドイツ軍がロシア軍と対峙します。
1917年、ロシア帝国は崩壊し臨時政府が現れ、更に10月には共産主義者が政権を握り、ドイツと講和に向けて交渉を開始します。結果、1918年の講和条約はウクライナの独立を認めるものとなりました。この時期既にウクライナの広い範囲がドイツの支配下にありました。
この、ロシア帝国崩壊からドイツによる支配までの短い間に、ウクライナに支配的な独立政権が樹立され、そして滅びました。その政権、ウクライナ中央ラーダは、ウクライナの独立を目指す民族主義者や社会主義者、文化、職業団体など広範な勢力の調整の場としてロシア帝国崩壊の直後に生まれ、ロシアの共産主義者政権の発足と同時に、ウクライナ国民共和国の成立を宣言しました。
アメリカおよびイギリスは早期にこれを承認しましたが、ロシアの共産主義者政権、ソヴィエトはこれを認めませんでした。ウクライナに高圧的な要求をおこない、拒否されるとソヴィエトはウクライナと開戦しました。
中央ラーダはドイツと独自に講和してドイツ軍の支援を仰ぎましたが、ソヴィエト軍を退けるとドイツは強権で中央ラーダを解散させて傀儡政権を発足させます。
しかし1918年11月ドイツは降伏し、第一次世界大戦は終わります。ドイツ軍が撤退すると傀儡政権を退けて中央ラーダはウクライナの政権として返り咲きますが、ソヴィエト、独立したポーランド、そして干渉してきたフランス軍と戦うことになります。
ウクライナの独立運動は1921年には完全に制圧され、最終的にウクライナはソヴィエトの版図に組み込まれることとなります。
この状態は第二次世界大戦中の中断を除き、1991年のソヴィエト崩壊まで続きました。
セルゲイ・スニエーゴフ С. А. Снегов
1910年オデッサ生まれ。共産主義的ユートピア風スペースオペラ連作で人気となる。邦題「銀河の破壊者」「ペルセウス座侵攻」「逆時間の環」の三作が翻訳されている。1994年没。