シレーニの娘
次の日、俺とアリシアは、アレトゥーサと共に蒸留塔の仕事を行うことにした。
蒸留釜担当のキキーモラは、俺に丁寧に頭を下げて挨拶をする。
「私はリコールと申します。ペルセポネにいる仲間から、ケイ様の噂を聞いておりますよ。少しエッチな人だけど、仕事は確かで淑女をしっかりと敬う方だそうですね……どうぞお見知りおきを。」
(いや、なんというか誤解なんだけどなぁ……)
俺はリコールの箒にも紺のレースが飾り付けられているのを見て、微笑して礼をした。
「仕事の面で評価して下さっていること感謝いたします。箒のレース、良くお似合いですね。」
リコールは嬉しげな顔をして箒を眺め、釜の掃除に取り掛かる。
彼女が釜の内部に清掃魔法をかけると、黒ずんだ表面の不純物がきれいに取れていき、三十分もすれば磨かれたような美しさに戻っていた。
(普通に落としていたら結構大変そうなのに、こんなに早く終わるんだ)
俺は、改めて清掃魔法の凄さに感心しながら、釜の中へ発酵させた液を仕込んでいく。
ふと気になったことがあって、リコールに訊ねてみた。
「そういえば、この前怒られていたサテュロスはどうして掃除を頼まなかったんですか?」
リコールは顔をしかめて首を振る。
「彼女と逢引する時間を作るために、勝手に仕込み始めたんですよ。まったく……男ってやつは、ほんとにどうしようもないですね。」
アレトゥーサも頷く中、シレーニが助け舟を出す。
「おい、アレトゥーサ! おめえは蒸留で酒が取れるのはなんでだか分かるか?」
アレトゥーサは何を当たり前のことを聞くんだという顔で答える。
「そんなの当り前じゃない。この釜で蒸気かければ酒が取れるのよ。」
「それじゃあ足りねえな……なんでこの釜に蒸気かけりゃ酒が取れるんだよ?」
「えっ? そんなこと考えたこともないわよ。」
シレーニが俺を見てニヤりと笑いながら問いかけた。
「ケイはどうして酒が取れるか答えられるか?」
俺は微笑して頷くと、アレトゥーサに教えることにする。
「今仕込んだのは薄い酒なんです。そして酒の方が水よりも先に蒸発する。さらに蒸発した酒を冷やすと酒が取れるっていうことです。」
シレーニが頷く中、アレトゥーサが俺に噛みついてくる。
「それがどうしたっていうの? 別にそれを知っていたからって、この釜を使えば酒が取れるっていうことに変わりがないじゃない。」
俺はアリシアに話を振ってみることにした。
「アリシア、君だったらこの釜で蒸留をしすぎた場合にどうなると思う。」
アリシアは少し考え込んでいたが、ハッとして手を叩く。
「なるほど……酒だけでなく、水が蒸発してしまって取れた酒が薄くなってしまうってことですね。」
シレーニが満足げな顔でアリシアを見て、アレトゥーサを怒鳴りつけた。
「おめえの考え方は薄っぺれえんだよ! 俺やケイは確かに獣だ。だから、性癖についてをつべこべ言うのは構わねえ。だがな、仕事は別だ……俺の後を継ぐんだったら、目を皿のようにしてあいつの学び方を見るんだ。」
(良いことを言っている気がするんだけど……一緒にしないで下さい)
アレトゥーサは俺を一瞥した後、静かに頷くのだった。
* * *
俺達はシレーニに従って、大麦を原料とした酒の蒸留を開始する。
ある程度まで蒸留したところで、シレーニが蒸気を止めてもう一つの釜に蒸留した酒を移す。
(おおっ……大麦が原料のものでも、透明になっちゃうのか。これは結構新鮮な感じがするなぁ)
俺が目を細めるのを見て、アレトゥーサが笑みを浮かべる。
「ケイさんは蒸留したての新酒を見たことはないのね。」
俺は笑顔で頷いて、彼女に話しかける。
「実際に見たのは初めてです。感慨深いもんですね……自分が飲んでいる物がこうやって出来ていくのを実感できるなんて。」
アレトゥーサがポカンとした顔をする中、シレーニは微笑して言った。
「妙なプライドなんていらねえんだよ。おめえだって昔はそうだったじゃねえか……俺の酒を飲んだ時に嬉しそうな顔をして、後を継ぎてえと言っていた時の気持ちを思い出すんだ。」
彼女は一瞬頬を歪めたが、すぐに表情を戻してそっぽを向いた。
そんな彼女を見たアリシアが俺に耳打ちをする。
「なんであの人は、あんなにケイのことを嫌うんでしょうか?」
「俺というよりも、男が嫌いって感じがするんだけどね。」
気を取り直して、俺達は再度蒸留を始める。
蒸留した酒を樽に詰める際に、シレーニがその酒を試飲させてくれた。
原料の麦の甘い香りを感じる中、舌に荒々しい新酒の味を感じさせる。
だが、これはまだ早すぎる……
濃度の高い酒の強さをそのまま感じる中、大麦の香りが主張しすぎてバランスが取れていない。
喉を熱く焦がす酒の感触とアンバランスな香りは、熟成させたものとはあまりにも違っていた。
俺は時間というものが醸し出す熟成というものがいかに大事かということを、この酒を飲んだことで十分すぎるほど理解したのだった。
「なるほど……熟成させる前の酒を飲ませていただいたことで、酒造りがいかに時間と手間がかかるものかということが理解できますね。」
アリシアも試飲してみるが、すぐに咳込んでしまった。
俺は慌てて彼女に水を差しだして、優しく背中をさする。
水を飲みながら、彼女は熱い息を吐き出しながら苦笑した。
「ケホッ……ありがとうございます。かなり強いお酒なんですね。」
そのとき、アレトゥーサがおもむろにシレーニに問いかける。
「父さん、この麦って前作った時と違う品種使ったんじゃない? まあ、私はこっちのほうが美味しくなると思うから良いですけど。」
シレーニが我が意を得たという顔で娘に笑いかけた。
「よくわかってるじゃねえか。こういった変化がわかるっていうのはお前ぐらいのもんだ。」
(なるほど……彼女はこういった感覚が優れているのか)
こういったものを造る際には、確かに手順を理解することも重要だけど、酒が好きで味覚や嗅覚に優れているということが大事なのだ。
俺は微笑してアレトゥーサを見ると、彼女は一瞬戸惑ったような顔をした。
「何か言いたそうな顔ね?」
「いえ……流石、酒蔵の後継者として期待されていると思っただけです。」
「えっ……そ、そんな褒めても何も出ないわよ?」
俺の言葉に気を良くしたのだろうか、アレトゥーサはちょっと顔を赤くしながらも笑顔となった。
フォラスが俺の脇腹をブスブスと指で刺しながら忠告する。
「ケイよ……アリシア様の前でナチュラルに他の女子を口説くのはどうかと思うのう?」
シレーニが目を細めて俺を見ながら俺に近づき、尻を鷲掴みしてささやいてきた。
「いいんだぜ……俺と妻と娘を交えた熱い一夜を過ごさせてやっても。」
「イヤァァァァ!? そんなことで貞操失うとか、絶対にダメエェェェェ!」
俺は思わず飛び上がって渾身の叫びをあげてしまう。
必死で逃げる俺を見て、アリシアとアレトゥーサが顔を見合わせてクスクスと笑い出した。
「私、男ってみんな獣みたいで、隙を見せるとすぐに襲い掛かってくるような奴ばかりだと思ってたけど、変わった者もいるのね。」
「ケイは真面目なんですけど……どういうわけか、ああいった災難に襲われるんですよね。隙が多すぎるんでしょうか?」
フォラスが呆れた顔で俺を見ながら二人に声をかける。
「大体がケイの自爆じゃて……ささ、あの者たちは放っておいて、そろそろ宿に戻るかの。」
俺は薄情な爺に向かって叫んだ。
「この薄情者があぁぁぁぁ!? 少しでも俺のことが大事だと思うなら、助けんかい!」
「儂とお主はそんな密接した関係ではないじゃろ? ”ふぁーすときっす”はニアミスだったがの……お突き合いはしたくないぞい。」
「俺だって糞爺とそんなことしたくねえ! 俺がキスしたいのはアリシアだけに決まっているだろうが……あの美しくも柔らけえ唇は俺だけのものなんだあぁぁぁぁぁ!?」
アリシアが真っ赤な顔、そしてアレトゥーサが生暖かい目で俺の絶叫を聞いている。
俺が落ち着いた後に、自分の発言を思い返して真っ赤な顔をする中、アレトゥーサはアリシアの肩を優しく叩いた。
「なんというか……アリシア様も大変ね。キキーモラ達の噂の意味が、今になってよく分かったわ。」
「ケイは……とても良い彼氏なんですけど、たまにああやって爆発するのが玉に瑕ですね。」
アレトゥーサが優しげな顔になってアリシアに告げる。
「噂って本当にあてにならないものね。アリシア様がああやって本気で愛されているのを見ると、愛する者を死に追いやるとか転生者を死に誘うなんて噂が、いかに馬鹿らしいかが良く分かるわ。」
そして、俺に手を差し出した。
「私、ケイさんのことを誤解していたわ……まあ、大っぴらにセクハラ発言するのは良くないと思うけど、良い人だと思った。」
俺は彼女の手を優しく握って笑った。
「そう思ってくれるなら嬉しいですね。しっかりと後の作業も覚えますので、一緒に酒蔵の作業の標準化を頑張りましょう。」
アレトゥーサが笑顔で頷く中、シレーニとフォラスが何か話しながら不気味な笑みで俺達を見つめている。
何かとても嫌な予感がして、俺は背中に寒気を感じるのだった。




