シレーニの宿にて
俺とアリシアはシレーニの用意した宿に向かう。
夕刻のエリシオンはペルセポネに比べて、少し静かなような気がした。
恐らく、あの陽気な《ジャック・オ・ランタン》や《スカルヘッド》がいないせいだろう。
夕日に照らされたレンガ造りの工房は美しい朱色に染められており、川は心地よいせせらぎの音を聞かせながら、住宅街へ涼しげな水を運ぶ。
仕事終わりの職人とみられる者達が、続々と酒場に集まっていく。
その種族は多種多様だが、鵺やガーゴイルなどの魔物が多数を占めているようだ。
俺たちが泊まる宿は、ちょうど住宅街の入り口の近くで、一階が食堂で二階が宿泊用の部屋という感じだった。
少し古めの建物の看板だが、お洒落な意匠の施されたランタンとよく調和して、雰囲気が良い。
入り口を開けると、扉に付けられた鈴がきれいな音を出して主人を呼ぶ。
ほどなくして、美しい黒髪をした色白の女性が俺達を出迎えた。
きれいな茶色の目をして、鼻立ちが良い顔をした彼女は間違いなく美人の部類に入るだろう。
どこか水が滴るような不思議な雰囲気をした彼女の服は薄い水色の薄着で、酒場の娘というようにも感じる。
思わずドギマギした俺に、彼女は穏やかな笑顔で話しかけてきた。
「ケイ様とアリシア様、よく私の宿へ来てくださいました。私は《ナイアス》のサルマキス、シレーニの妻です。部屋は相部屋となりますが、ベッドは二つ用意いたしましたので、それでご容赦くださいね。」
そういうと、彼女は俺達を二階へ案内する。
しっかりとした石でできた階段を上がっていくと、焦げ茶色の柱と丁寧に仕上げられた白い漆喰の壁が俺たちを出迎えた。
良い匂いのする扉をあけると、ビロードのカーテンと花柄の掛布団が敷かれたベッドが俺たちを出迎える。
(俺の部屋よりもずいぶんと上等なものが使われているんだが……)
あまりにもすごい部屋なので驚いていると、サルマキスが微笑して恭しく礼をした。
「魔王様のご息女とその婚約者ということで、それなりのお部屋を用意させていただきましたが、如何でしょうか?」
俺は思わず深く礼をして感謝した。
「こんな素晴らしい部屋を使わせてくれるなんて、本当にありがたいです。俺の普段暮らしている部屋よりもずっと良い部屋だと思います。」
サルマキスは笑顔で俺の手を取って、アリシアを見た。
「お二人は婚約者と聞いておりますから、良い機会ですのでいっぱい思い出を作って下さいね。それでは私は下がりますので、存分にお二人の時間を楽しんでくださいませ。」
彼女が部屋を出て行った後、俺とアリシアはお互い落ち着かない気持ちになってしまい、顔を赤くしながらどちらかが話を切り出すのを待つ状態になってしまった。
ふと思い出したことがあったので、俺はアリシアに笑いかける。
「そういえば、この前の酒場の時もそうだけど、俺のことを彼氏って言ってくれるようになったね。なんだか嬉しいよ。」
「そうですか? 私はケイが告白してくれた時からずっと彼氏だと思っていますよ?」
「そういうのって言葉にしてくれると、やっぱり嬉しさが増すもんなんだよ。なんというか実感がわくっていうのかな……相手も大事な人だと思ってくれてるんだってね。」
アリシアが嬉しそうな顔で俺に手を握った。
「ケイは私のことをいつも彼女として扱ってくれてますもんね。付き合う前から『俺の天使』なんて言ってくれるぐらいですから。」
(あれは……さすがにやりすぎたと思ったけどね)
その時、下の階から歓声が上がって階段を駆け上る音が聞こえた。
部屋のドアが勢いよくあけられて、俺達が固まる中……
シレーニが満面の笑みを浮かべて俺たちを手招きするのだった。
* * *
シレーニに連れられて、一階に降りるとサルマキスが俺に抱き着いてきた。
「夫の酒について魔王様に取次ぎをしてくださった上に、お墨付きを与える手伝いまでしてくださったのですね。なんと感謝すればよいか……」
そこそこ広い食堂の上等な席にフォラスが座っていて、俺とアリシアに手を振っている。
「遅いではないか。部屋でいかがわしいことをしてたのではあるまいな?」
俺は静かに首を振って、先にアリシアを座らせる。
「俺にそんな度胸がないって、分かって言ってるんでしょう?」
我ながら情けない言い草だが、フォラスは悪戯っぽい笑いをしながら俺に早く座るようにせかした。
アリシアの隣に俺が座ると、シレーニが酒のボトルとグラス、そして氷を持ってきてくれた。
「今日は俺のおごりだ。好きに飲んでくれ。」
改めてテーブルを眺めると、年季のある立派なテーブルでかなりしっかりとした作りになっている。
食器自体も見事な白磁で、フォークやナイフは銀のものを使っていた。
グラス自体は透明度の高いものを使っており、酒の色を楽しめるようにしているようだ。
食堂全体の雰囲気もとても良く、天上につるされたシャンデリア豪奢に部屋を照らし、各テーブル脇に吊るされた呼び鈴は実用的かつおしゃれな雰囲気を醸し出している。
フォラスが呼び鈴を鳴らすと、サルマキスが料理をもってこちらへ来た。
「燻製肉のソテーと、チーズの燻製、季節の野菜のサラダです。」
早速俺は燻製肉のソテーを食べ始める。
燻した香りと共に胡椒のスパイシーさが相まって、とても食欲をそそられる。
少し塩気が聞いた肉は、いやが応にも酒を体に欲させた。
(これはうまい……しかも蒸留酒とよく合う)
これ食べながら酒を飲むと、燻製と酒の香りが喧嘩せずに絶妙なハーモニーを鼻に届けてくれる。
アリシアも同感だったのか、笑顔で蒸留酒を飲みながら俺に話しかけてきた。
「ケイ、このお酒と料理は美味しいですね。」
「そうだね、きっと燻しているチップもよいものを使っていると思うよ。」
「なるほど……奥が深いものなんですね。」
フォラスが興味深げに俺に訊ねる。
「お主は酒や料理にそこそこ詳しそうだが、何かそういったものを作っていたのか?」
「いや、別にそうじゃないけど……取引先や上司のうんちく聞いたりとか、酒場の主人や行きつけの酒屋の店主と話してたら勝手に覚えるもんじゃないのかな?」
「ほう……《雑用マスター》とやらは、気が利くものなのじゃな。」
「まあ……宴会の幹事とかは、上司の好きな食べ物とか飲み物と飲めない人への配慮をしなくちゃいけないし、それに酒一つとっても話のタネになるから、勉強して損はなかったですからね。」
アリシアが前世の俺のことを思い出して微笑んだ。
「ケイはそういったものの準備をするときに、事前にいろいろな人に声掛けをしてましたね。」
「お金を出させるんだから、ある程度は満足してもらわないと申し訳ないからさ。」
そのとき、食堂の中央から大きな歓声が上がった。
思わずそちらを見ると、シレーニとサルマキスが向かい合って寸劇のようなことを始めたようだ。
シレーニは食堂中に聞こえるように大声で語り始めた。
「俺は色欲の泉と呼ばれるエリシオンでも有名な《ナイアス》がいるところへ行ったのさ。そりゃあ美女と一発やりてえと思ってな。」
サルマキスがそれに答えて、美しい声で歌うように応じる。
「私は同牲すら愛させる泉の主として、多くの者を見てきたの。殆どのものが口ばっかりでたいしたことのない男。そんな奴らは泉に誘い込み、衆道に落としてやったのさ。」
シレーニが震えるようなしぐさをして笑みを浮かべる。
「危うく俺もそっちの道に落とされかけたが、そこでくじけるのは男じゃねえ。サルマキスという名前を聞き出して、どうしたら俺のものになるか聞いたのだ。」
「どうせできないと思ってさ、世界一の酒を持ってきてみなさいと言ったのよ。そしたら本当に酒を作られて、泉から出ざるを得なかった。」
「後は溺れるようにこいつの体にのめりこみ、一日何発やったかわからぬ夫婦生活……さあさあ皆さん、これがサキュロスっていうものだ!」
周囲から歓声が沸く中、サルマキスが意地悪な顔をしてシレーニに問いかける。
「偉そうにのたまってますが、あなたの浮気の回数は覚えてますか?」
シレー二は近くにいる魔物達に厭らしい笑みを浮かべて訊ねた。
「おめえら……今まで飲んだ酒の量を覚えてるか?」
魔物は大笑いしながら叫ぶ。
「そりゃ覚えてるわけねえよ!」
「お前みたいな絶倫親父じゃ、酒飲んだ量よりも浮気が多いだろう!」
「そのイチモツで何人貫いたか教えてほしいぜ。」
サルマキスが微笑してシレーニを見つめる。
「そんなろくでなしの亭主がね。今日はとっても素晴らしい発表するそうです。」
シレーニが満面の笑みで叫んで俺のほうを指さした。
「皆聞いてくれ……こんなろくでなしの俺の酒が魔王様のお墨付きを得ちまったんだ! そして、そのきっかけを作った美男子が、俺の下でしばらく働くとしたら……どうなっちまうと思う?」
周囲の目がこちらに向いてニヤニヤと笑っている。
「兄ちゃん! あいつは女でも男でも構わねえ奴だ。しっかりと気を引き締めて仕事するんだな。」
(イヤァァァァ!? 公認セクハラOK牧場じゃないですか!)
俺はいろんなところがハチの巣にならないように気を付けようと思ったが、酔っぱらい始めたアリシアがすっくと立って男前な声で叫んだ。
「大丈夫れす! ケイの純潔は殺してでも守りみゃす!」
(違うでしょぉぉぉぉ!?)
周囲の魔族達が大爆笑しながらアリシアをはやし立てる中、俺は生命の危機と純潔の危機、どっちも守るためにしっかりと頑張ろうと心に決めるのだった。