シレーニの頼み
俺はシレーニへ路地の店に卸す酒の件について話をした。
シレーニは髭をさすりながら俺の話を聞いていたが、醸造所を見て難しい顔をした。
「俺の方も体力が減ってきたからな。若いもんに仕事教えて、少し楽をしてえと思ったんだが……あいつらは物覚えが悪くてしょうがねえ。結局失敗ばかりして俺の負担が増える一方なんだ。」
(なるほど……事業承継をしたくなったけど跡継ぎを作れていないってことか)
俺が考え事をしていると、ファウヌスが横から口を出してきた。
「親父! このケイって奴はそういった問題解決を得意とするって、パンテラが言っていたぞ。」
シレーニが目を細めて俺を見た。
「ほーう……そういえば、魔王軍の管理者ということは、俺も魔族だから助けてくれるってことだよな。俺の問題を解決してくれたら、今の値段でさらに美味い酒を路地に卸すっていうのはどうだ?」
俺はありがたい提案だと思ったが、彼の目線が気になる。
「もちろん、それはありがたいですが……俺の体に何かついていますか?」
シレーニが好色そうな目で俺を見てささやく。
「なぁに、失敗しても気にするな……その時は、アリシア様をたらしこんだその美貌の体を堪能させてもらうだけのことだからよ。」
(イヤァァァァ!? 俺の貞操が大ピンチィィィィ!)
この仕事だけは絶対に失敗するまいと、俺は心に決めた。
そして、シレーニに案内されて醸造所へ入るのだった。
* * *
醸造所は外観の通り、きっちりと二棟に分かれている。
初めに入った棟では、湿気が残らないようにしっかりとした構造となっており。
かなり念入りに清掃がされていた。
俺は感心して、思わずシレーニに話しかけた。
「美味い酒ができるというだけあって、かなりきっちりと清掃されていますね。」
「ほう……なかなか目の付け所が良いな。ここは原料を仕込んで《糖化(でんぷん質を糖に変える)》し、それに酵母を加えて《発酵(糖をアルコールに変える)》させる棟さ。」
俺は木で出来た大きなタンクを見て微笑する。
「なるほど……あそこで仕込んで寝かせた後に、糖化させたものを配管使って次のタンクへ移送するわけですね。」
「おめえ……初見で良くわかるな。まあ、その前に原料の選別から始めるんだけどな。」
俺は、地面に埋められたタンクを見て笑みを浮かべる。
「これはとても良い方法ですね……地面に埋めることで温度の一定化を考えている。これなら確かに発酵の安定性が増しますね。」
「ケイ、俺はおめえが気に入ってきたぞ。よかったらここで働かねえか? 酒造りにはセンスが必要だ。」
シレーニは上機嫌で隣の棟に俺を案内する。
先ほどの棟とは異なり、こちらはかなりの熱気を感じた。
銅製とみられる釜に発酵された酒を濾したものを入れ、蒸気を使って加熱していたようだ。
(へぇ……炎魔法で蒸気を作っているのか。こういう所は異世界って感じがするなぁ)
シレーニが先ほどのヘマをしたサテュロスを思い出して、俺の肩を叩きながら問いかけた。
「おめえは、これで失敗するとしたら何を想定する?」
俺は、少し考えて銅製の窯を見つめる。
中を少し見せてもらったが、表面に付着した黒っぽい何かが下に落ちていった。
(ああ……なるほど、何も考えないとこうなるってことか)
「そうですね……蒸留をさせすぎて、水が入りすぎて薄い酒になるっていうのは想定できますが、その後に洗浄しないですぐに仕込むと、不純物が蒸留した酒に入り込んでまずくなるといったところでしょうか。」
満足げに頷いたシレーニは、地下への扉を開いた。
坂になっている大き目の通路を抜けると、樽と陶器の壺が整然と並べられている。
思わず目を見張って彼を見ると、自慢げに胸を張った。
「ここで酒を貯蔵してるわけだが、そこの奥のは三十年ものだ。なかなかここまで熟成できる酒は少ないぜ。」
(三十年物が作れる……というか、ここまでしっかりと管理されていることに感嘆するばかりだ。)
シレーニが三十年物の蒸留酒を試飲させてくれたが、その美味さに俺は戦慄した。
熟成されて角の取れたまろやかな酒の味が、羽毛のようにふわりと舌に乗ってくる。
そして、鼻に抜ける重厚な樽の香りは、三十年という年月を重ねたことを確かに示していた。
喉にするりと抜ける酒の感触があまりにも自然で、そのままずっと味わっていたいという素晴らしい余韻を鼻に残しながら体の中に消えていく。
(この域の酒を造るまでに、どれほどの年月をかけたのだろうか……)
俺は感動のあまりため息をついて、彼の酒造りに対して深く感銘を受けた。
「これほどの味の酒に出会えたこと自体が、幸運だったと思いたくなります。ここまでくると、もう芸術ですね。」
「ほう……なかなか嬉しいことを言ってくれるじゃねえか。」
満足げに笑うシレーニに、俺は丁寧に頭を下げる。
「製法についての理解を深めたいので、作業の手伝いをさせてはくれないでしょうか。」
彼は快く了承して、フェンリルに告げた。
「フェンリル! 路地の酒場の分の酒を回してやるから、ファウヌスと一緒にペルセポネに配達に行ってくれねえか? おめえらが返ってくる頃には、ケイに一通りの作業を敬に教えておくからよ。」
フェンリルは渡りに船とばかりに快諾した。
「それはありがてえな。じゃあな、ケイ……後はよろしく頼むぜ。」
彼はファウヌスを引きずるように醸造所から急いで出ていく。
残された俺とアリシアを見て、シレーニは嫌らしい笑みを浮かべながら告げた。
「しばらく、エリシオンで宿をとってやるからそこに住みな。なぁに……ちゃんと相部屋にしてやるからよ。」
俺とアリシアは顔を見合わせた後、一気に顔を赤くした。
慌てて俺は、シレーニに話しかける。
「いや……まだ俺たち婚約したばかりで、そんな一つの部屋になんて言うのはとんでもないです。別々の部屋でお願いできませんか?」
彼は呆れた顔で俺に言い放つ。
「おめえ……婚約まで行ったんなら、もう結婚したも同然だろうが。何を情けないことを言ってるんだか。俺たちの世界じゃ、もうその頃には数発やっていてもおかしくはねえぞ?」
アリシアの顔から蒸気が出そうになる中、フォラスが地面の下から湧いて出てきた。
「シレーニ……久しいの? 酒造りで悩んでいると聞いてきたぞ。」
(おおっ! 爺もたまには役に立ちに来てくれたのか?)
俺が期待する中、フォラスは微笑しながらシレーニの肩を叩く。
「お嬢様は箱入りでのう……うかつに手を出すと、ルキフェル様もお怒りになられるというわけじゃ。しかしのう……別にケイであれば、いくらでもスキンシップはOKなので、好きにするがよいぞ?」
(ジジイィィィィ! 俺の貞操をそんな簡単に人に捧げるんじゃねぇぇぇぇ!)
怒りで頭が沸騰しかけたが、そこで俺はあることを思いつく。
「フォラス……今回の一件、少し力を借りたいんだけど話を聞いてくれないかな?」
不思議そうな顔をして俺を見るフォラスに、俺は今回の件についての大まかな案について話をすることにするのだった。
* * *
俺はシレーニに頭を下げて、教えてもらった内容を一度水晶玉に記録させてほしいと頼み込んだ。
「酒造りの工程は大事な財産でしょうから、画像を外に出すことは決していたしません。」
シレーニは少し難しい顔をしたが、フォラスにくぎを刺す。
「ケイは恐らくそういうことはしないだろうが、フォラス……おめえは何をするかわからねえからな。もし、外部に流出したら俺は『フォラスが秘密を洩らした』と地上中に触れ回るからな。」
フォラスが助け舟を求めるので、俺は周囲に向かって大声で語りかけた。
「おそらく、ルキフェルのことだから今の状況も見ているんでしょう? ちょっと来てくれませんか。」
どこからともなく、ルキフェルが現れて俺に笑いかけた。
「我が見ているとよく分かったな。」
「そりゃあ、俺とアリシアに約束したのはプライベートを覗き見ないってだけで、仕事内容となれば話は別ですもんね。」
「よく分かっておるな……それで、我に何をさせたいのか?」
俺はシレーニを見ながら、ルキフェルに頭を下げた。
「恐らく、この醸造所の技術自体は地上でもかなり貴重なものだろうと思います。俺の勝手な推測ですが、酒はどの種族でも重宝されるものということであれば、こういったものをしっかり保護するのも平和のためには重要だと思うのです。」
「ふむ……確かに、シレーニの酒は人間にも重宝されているようだ。いいだろう、その製法が外に出回らないようにすればよいのだな。」
「すみません、そういうことになります。」
ルキフェルはシレーニに微笑すると、彼に優しく告げる。
「確かに、そなたの酒は地上でかなり重宝されている。我の庇護に加えるにふさわしいだろう……その技術をしっかりと守り、我の為に尽くすと改めて誓えるか?」
シレーニは驚きのあまり固まっていたが、すぐに平伏した。
「へっ……へへぇ……まさか、俺の様な下賤な亜人がこのような名誉に預かれるなんて、なんとお礼を申してよいか。」
「我は亜人を下賤なものと思ったことはないぞ。人間と魔族の懸け橋となる平和の象徴と思っておる。だが、それを良く思わぬものを抑えられぬのは我の不徳だ……許せ。」
「もっ、もったいない言葉でごぜえます。今のお言葉を糧に、より良い酒造りに勤めます。」
ルキフェルは満足そうな顔をした後、俺の肩に優しく手を乗せた。
「それでは我は戻る。ケイには期待しておる故、後は任せるぞ。」
音もなくそのまま消えたルキフェルにシレーニは何度も頭を下げた後、俺の手を両手で掴んだ。
「魔王様のお墨付きだぞ! なんという名誉なことだ……俺はおめえがさらに気に入った。気が向いたらいつでも閨に来てくれ。存分に愛し合おうじゃねえか。」
(ヒィィィィィ!? その感謝はいらねえぇぇぇぇ!)
俺がおののく中、アリシアが優しくシレーニに注意する。
「ケイは私の彼氏なので……それは駄目ですよ。その代り、私もお手伝いさせて頂きます。」
シレーニが渋々俺の手を放す。
(た……たすかったぁ……)
俺は貞操の無事に一安心する中、シレーニはテキパキと宿の手配をしてくれるのだった。




