舞台裏
俺は藤宮さんに連れられて屋上に出た。
残暑の残る季節でアスファルトの照り返しがとても暑い。
空は高さを感じさせる青空だったが、俺の心はそれとは裏腹に灰色に濁っていた。
口の中に感じるさびた鉄のような味は、宮下さんの慟哭を思わせる。
そして、頭のてっぺんが痺れるように痛く、こめかみが重い。
涙こそ出なかったけど、胸の奥がぽっかりと穴が開いたような虚無感を感じてしまう。
だが、その気持ちを強引に塗りつぶすように、俺の顔はゴシゴシとハンカチでこすられた。
「ちょっ!? 痛たっ!」
さっき殴られた頬や唇が痛くて、思わず俺は悲鳴を上げる。
だが、そんな俺を無視して、藤宮さんは乱暴だけどまんべんなく俺の口を拭いていく。
「男だったらそんなもんで悲鳴上げるんじゃないよ! 一方的に殴られるんじゃなくって、せめて顔を腕で覆うなりして防げば良いのにさ……まったく、圭は本当にお人好しだね。」
(あ……ハンカチに血が……)
俺が申し訳なさそうにハンカチを見たことに気がついて、藤宮さんは静かに首を振った。
「あのさ……宮下の件もそうだけど、心配するとこ間違ってるんだよね。ハンカチは洗えば綺麗になるけど、今の圭を見ていると心をジャブジャブ洗濯しても心がすっきりしないって顔をしてるんだよ?」
(だけど……宮下さんは俺のせいで……)
俺の表情から何を考えて居るのかを察したのか、藤宮さんは大きく溜息をついて告げた。
「ああ……まったく、救いようがないね。本当は言うつもりがなかったけど、宮下の件は自業自得なんだよ。」
俺は顔を上げて呟いた。
「自業……自得……?」
藤宮さんは腕組みして頷く。
「そう、自業自得だ。あいつはPTAの役員を『仕事で忙しいから無理です』って言って、ずっとやらずにいたのさ。そして、役員になった奴から何か頼まれても、決して手伝おうとしなかった。そのくせ、プライベートでは沖縄旅行行ったり、ブランド物で着飾ったりして若い奴らに自慢してた。圭もあいつのそういった所は見ているはずさ。」
(確かに……沖縄土産とか海外旅行の土産を結構持ってきてくれてたな)
思い当たることがあって、俺もそれには同意した。
藤宮さんは、じっと俺の顔を見ながら憮然として告げた。
「圭は知らないと思うけど、パートさん達の何人かは宮下と同じ小学校に通ってるんだよね。だから、宮下がしてたことは同じクラスの母親とかにも流れちゃうわけだ。そして、宮下のやり方にもともとかなり不満を持っていた所に圭のあんな惨めな姿見せられて、相当頭にきたらしい……っていうわけで、あいつにもそろそろ義務ってやつを果たしてもらいたいと思ったそうだ。」
「義務……ですか?」
「そうさ。宮下の奴、よりにもよってPTAの広報の委員長にさせられたんだってさ。他の奴らは事前に根回ししたみたいで『類い希なる業績を上げて係長にまで出世する人間なら、間違いなく人を纏められる』と全会一致で推薦して、宮下の逃げ場を絶ったらしいよ。」
俺はそれの何が大変なのかが分からずに単純な疑問を述べた。
「広報って、そんなに大変なんですか?」
藤宮さんは少し考え込んだが、静かに首を振った。
「人による……というか、私も子供が小さいときにやったことはあるけど、周りが協力的だったらさほど難しいもんじゃないね。記事を書く担当の納期調整や印刷業者との折衝、取材の際の事前の根回しみたいな事が出来れば、集まるのは少なくてすむからさ。」
「それって、藤宮さんの天職みたいなものですよね。」
俺の返しに気を良くしたのか、藤宮さんは満足げに頷く。
だが、俺の中で逆に疑問に思うことが出てきた。
「じゃあ……宮下さんはどうして、あんなに休まなくちゃいけなかったんですか?」
俺の問いかけに、藤宮さんはギラリと目を光らせて、あの不敵な笑みを浮かべた。
「そりゃあ……今まで好き勝手やってた奴に協力的な態度を取る奴は少ないからね。むしろ、ここぞとばかりに『今忙しいので、出来ません』なんて形で、あいつの足を引っ張る奴の方が多かったに違いないさ。」
(確かに自業自得とはいえ……恐ろしい世界だ)
俺はなんとなく深みに入ってはいけない世界を垣間見たような気がして身震いした。
藤宮さんは大きく息を吐いて、首を振った。
「まあ、結局の所……あいつはPTAの会議の調整すら出来ないって事で委員長を下ろされて、また来年委員をやってもらうって事になったらしい。」
(ああ……あの休みが取れなった日のことね)
結局、宮下さんは仕事を失った上にPTAの役員の責務さえ果たせなかった。
そう考えると、少しばかり彼女に同情したくなる。
だけど、藤宮さんは俺の表情を読み取って、また溜息をついた。
「これだけ言っても、まだあいつに同情するのかい? まったく、どこまで人が良いのかな。まあ、いいよ……そういった個人的事情がなくても、いずれ宮下は失脚させられたんだけど、圭はそこら辺の事はちゃんと見ていたんだろうね?」
俺は藤宮さんが『宮下は一年経たずに潰れるから、それを反面教師にするんだ』と言っていたことを思い出す。
そして、彼女が係長になってから失脚するまでのことを考えた。
(確かに……不自然なところがあった)
俺は宮下さんの下働きとして現場や技術関係の人間との情報共有を行っていたが、レポートの作成は彼女がやった方が良かったのではないかと思っている。
だけど、課長はそういったことまで全て俺の方に任せて、最終的には俺が会議に出れるように取り計らってくれていた。
そもそも、俺が工程改善の業務全般をやっているのに、彼女は一体何をしていたんだろうか?
「宮下さんって、工程改善の業務の何をやっていたんだろう……」
藤宮さんは俺の鼻先を弾いて言った。
「まったく……あれほど、ちゃんと見ておけと言ったのにね。課長は知っていたけど、あいつは圭が持ってきたレポートを元にして、研究所長や技術部長に自分を売り込んでたんだよ。でも……結局の所は利用されるだけ利用されたに過ぎないけどね。」
ツンと鼻が痛みながらも、俺は思わず叫んだ。
「ええっ!? 何でそんなことが分かるんですか!」
藤宮さんは人差し指を立ててシーッと言って俺を制した。
「声が大きいよ! 屋上とはいえ、もう少し気をつけて欲しいね。まあ……ここで長くやっていると、色々な人と関わりがあるんでね。そういった細かい話とかも私や旦那の方に入ってくるんだよ。」
(うーん……俺も気をつけておこう)
色々と俺の話とかも入ってきているのではないかと思って、思わず彼女から距離を取る。
藤宮さんは呆れ顔で俺を見た。
「別に取って食べたりしないよ。それはとにかく、宮下は自分の技術的な面を期待されて上に上がれたと思ったもんだから、自分を売り込みたかったんだろうね。でも、研究所長や技術部長は逆にあいつを疎ましく思ってたのさ。」
俺は、以前彼らに叱責されたことを思い出す。
「彼らの雑用をやってれば良いのに、出過ぎた真似をするからですか?」
藤宮さんは大きく首を横に振った。
「まったく見当違いだよ。圭は上に上がる気があるなら、もう少しそういった機微を学んだ方が良いね。宮下のせいで女性管理職を増やすって話が立ち消えになった時に、怒っていた奴らは誰だったのかは見ているよね?」
(一番怒っていた人達……ああ、そういうことか)
俺はようやく藤宮さんが何を言いたいかを察した。
「研究所や技術部門の上昇志向のある女子社員でした。そうか……彼女達が管理職になっていくことで自分達のポストがなくなるって事を危惧したって事ですね。」
「そういうことさ。それに、宮下は誰か後ろ盾がいるわけでもなく、ポッと出で昇進しちゃったんだ。つまり、そういう奴は簡単に潰せるっていうことでもある。」
藤宮さんは、空を見ながら寂しげに言った。
「宮下は馬鹿な奴だよ……本当に。期待されていて順当に上に上がっていく奴って言うのは、そいつに期待する上司がいるからこそ成り立っているんだ。そして、その上司はそいつを昇進させるだけの力を持っている。逆を言えば、自分が気に入らない奴を潰すだけの力があるって事なんだよ。だからこそ、後ろ盾のない奴は潰されないように慎重に立ち回るべきなんだ。」
俺は会議室で課長が宮下さんにキレた時のことを思い起こす。
「でも、課長は宮下さんに期待しているっていってましたよ?」
藤宮さんは思わず吹き出した。
「圭……まさか、その言葉を鵜呑みにしたのかい? 課長は最初から社長の思いつきに対しては懐疑的だった。そして、いつでも宮下を切れるように準備していた。あんたもそれは薄々感じてたんじゃないのかな?」
(あの課長のゾッとするような目は……)
俺はようやく自分が色々な人の手の平の中で踊らされていたことに気がつく。
なんとなく釈然としない気持ちがして、藤宮さんをじっと睨んだ。
「宮下さんの仕事の引き継ぎを俺にやらせたのって、こうなるって分かってたって事ですよね?」
彼女は少し考え込んだ後、じっと俺を見つめた。
「半分正解で、半分間違いだよ。私は今の職場を自分がやりやすいように変えたに過ぎない。そして、宮下にもちゃんとその環境の中でチャンスは与えたつもりさ。期待してはいなかったけど、あいつがちゃんと心を入れ替えて、無駄に高いプライドをかなぐり捨ててでも一般的な製品の分析に取り組むなら、私は皆との間を取り持ってやろうとは思ってたんだ。」
(確かにそうなんだけど……)
藤宮さんの言っていることには一理ある。
だが、彼女がこの一件を利用して職場の皆の信頼を集め、より自分の地位を盤石とさせたことに俺は気づいてしまった。
空恐ろしさを感じて身震いしている俺に、藤宮さんは不敵に笑った。
「圭は私が影で『お局』と呼ばれているのを知っているよね? でも、私は別にそう呼ばれるのは嫌いじゃない。だって、その語源って大奥を作った人のことをさして言ってるからね。私は最愛の人と一緒の会社であの人が定年で退職するまでは一緒に居たい。それが私がこの職場に居る理由であり、そのために、自分がいる職場で盤石な地位を築いておきたいんだ。」
大事な人の為にそこまで出来ると言うことに感銘を受けつつも、何処となく怖い物を感じて俺は冷や汗を掻きながら乾いた笑みを浮かべる。
彼女はそんな俺の肩に手を乗せてニヤリと笑った。
「まだ独身のアンタには分からないかもしれないけど、愛する人が居るって言うのは良いもんだよ。そういえば、男は度胸、女は愛嬌……いや、男も愛嬌が必要かもね。まあ、男はいざというときに果断に行動できる人、女は笑顔で場を和ませる人から先に結婚する。だけど、もっと大事なのは挨拶や会釈なんだ。」
俺はポカンとして首をかしげた。
「挨拶や会釈ですか……それって普通にするもんなんじゃないんですか?」
藤宮さんは大袈裟に肩をすくめて、俺の肩をバシッと叩いた。
「圭はまったく分かってないね……それだから、女性にもてないんだよ。まあ、あんたは私にもきっちり挨拶や会釈をしてくれるけど、挨拶は誰にでも平等に与えられるコミュニケーションで、気になる異性でもセクハラにならずに声をかけることが出来る手段なのさ。もちろん会釈も同様だよ。あの係長のおっさんみたいにそれすら出来ない奴は論外で、女性を口説く資格はないってことさ。」
(何気ないコミュニケーションにそんなすごい力が……)
彼女の言葉に心惹かれながらも、俺はある事実に気づいた。
「でも、俺ってモテないですよね?」
藤宮さんは俺のつま先から頭のてっぺんまで見た後、残念そうな顔で告げた。
「うーん……圭の場合はそれ以前に、その冴えない顔と見た目を直すとこからかもね……いっその事、整形でもしてみるかい?」
「結局、良いこと言っておきながら、何だかんだで『ただし、美形に限る!?』だなんて……世の中理不尽だあぁぁぁぁぁ!」
当然のことながら俺の魂の叫びは虚空に消えていく。
藤宮さんは、悪い笑顔で俺に言った。
「ここまで色々と教えてあげたんだから、それなりの授業料は払ってもらえるはずだよね?」
(フッ……そういったことにピッタリのネタは持っていますよ)
俺はサムズアップしながらニッコリと笑った。
「もちろんですよ。最近、藤宮さんの好きな《春の雪解けチョコレート》の抹茶味が出たんですよ。今、若い子のトレンドで抹茶が流行ってるんで、興味ありますよね? 明日、それと大好きな苺ショコラ味をいつもの棚に入れておくので、よかったら休憩時間に食べ比べをしてみて下さいね。」
藤宮さんは俺の肩をバシバシ叩きながら、嬉しそうに笑った。
「まったく、こういう所だけはしっかりしてるんだよね。そういった努力を重ねていけば、圭にも良い彼女が出来ると思うよ! まあ、その冴えない見た目のままだと……来世になるかもしれないけどね。」
藤宮さんなりの気遣いと冗談のおかげで、いつの間にかさっきまでの嫌な気持ちがどこかへと行っていた。
俺は彼女に感謝しながら、いそいそと職場へと戻るのだった。