宮下さんの失脚
俺は工程改善の会議に出席出来るようになるために、今まで以上に現場へと足を運ぶようになった。
……というのは建前で、実際の所は深刻な問題によるものだ。
困ったことに、宮下さんが月に二、三回のペースで会社を休むようになってしまったのだ。
課長曰く『家庭の事情』ということらしいけど、その分の負担は俺の方にのしかかってくる。
そして、当然のことながら、俺の帰社時間はその度に終電コースになった。
だけど、宮下さんは休んだ次の日に出社してくるといつも凄く不機嫌で、感謝どころかまったく関係の無いようなことですぐに俺に当たり散らしてくる始末だ。
そんな彼女の様子を見て、パートさん達があの嫌な笑みを浮かべてヒソヒソと話している。
そして、去年はあんなに宮下さんのことを慕っていた若い子達も、何処となく冷ややかな目で彼女のことを見るようになった。
一方、藤宮さんの方は俺が書いた引き継ぎ資料を元に、パートさんにサニー向けなどの製品分析を教える傍ら、自分が目をかけている子に出荷手続きを教え込んでいるようだ。
職場の状況がこんなだから、藤宮さんが頼もしく見えるらしく、相対的に彼女の株は上がっていくのだった。
* * *
――そんな状況が四ヶ月ほど続いた。
仕事の多さに忙殺されながらも、労働組合で意気投合した人や現場の人の対応が柔らかくなってきた為、俺自身の仕事に対するストレス自体はそれほど感じずにすんでいる。
その反面、自分の職場内の空気は非常に悪く、現場の人からも『なんか最近品管にサンプル持って行くのが辛い』と言われる始末だ。
相変わらず宮下さんは『家庭の事情』とやらで忙しく、月に二、三回半休や全休を取っている。
彼女の状況に業を煮やした課長の計らいで、俺も工程改善の会議に出られるようになり、宮下さんの下働きの立場として、各部署からの質問に答えるようになった。
まあ、実質的に現場や技術の担当者から情報を仕入れてレポートを書いているのは俺なので、そのほうが回答もしやすい。
人づてではなく、その場の雰囲気を直に感じることは大事なもので、どの相手がどんな質問をして、どういう風に答えるのが好みかということも分かるようになってきた。
当然のことながら会議の外においても俺に直接質問が来るようになりつつあったが、そこはきっちりと筋を通して、宮下さんから返答してもらうようにした。
……とはいえ、宮下さんが休むとその分だけ仕事が遅くなってしまう。
他部署でもそれは問題視されるようになってきていて、課長が各部署へ頭を下げてはいるが、周囲の不満はどんどん溜まっていった。
――そんな中、宮下さんの立場を揺らがす決定的な事件が起こってしまった。
その日は宮下さんが一ヶ月前ほどから午前休を取ると申請していた日だった。
だが、その前日の定時後に、現場と技術の人が『工程改善における致命的な問題が発生した』と俺へ報告してきたのだ。
現況のまま進めると思いっきり収率が下がってしまって採算が合わなくなる為、大幅な方針転換をしなければならないそうで、そのまま明日の会議に挙げたら工場長から大目玉を食らう可能性が高かった。
俺は宮下さんに相談しようとしたが、彼女は定時で上がってしまったので、仕方なく課長と二人で対応することとなった。
色々と考えた結果、俺は過去の製品の分析データを引っ張り出してきて、該当する工程上の条件と収率の相関性のグラフを作成して技術部門の人に手渡す。
彼は感謝しながら『明日の会議でそのことについて話すので、宮下さんにもメールしておくよ』と言って自分の部署に戻っていった。
一応、俺はその件を課長に報告しておいたが、レポートについては『今日はもう遅いし、技術部門の人が明日議題に挙げるだろうから、敢えて差し替えなくても良い』と指示された。
そして、次の日の昼休みに出社してきた宮下さんへ声をかけたが、彼女はいつもの通り心ここにあらずで俺の話を聞いてくれなかった。
俺はそんな彼女の態度にムカッとしながらも、なるたけ真摯に彼女に言った。
「昨日、工程改善でかなり大きな問題が発生したので、技術部門からのメールだけでも目を通して頂けないでしょうか?」
だが、彼女は顔を真っ赤にして俺を怒鳴りつけた。
「圭くん……前から思っていたけど、自分の立場を勘違いしているでしょ! 私は係長で、あなたよりも上の立場なんだから、もう少し考えて発言して欲しいわ。それに、大きな問題って言ってるけど、あなたがしっかりと各部門とすりあわせしてないからそうなったんでしょ? ただでさえ忙しいんだから私の仕事を増やさないで欲しいのよね。」
(一体俺が何をしたと……それに、なんでここまで言われなくちゃならないんだ)
俺は思わず課長のデスクを見た。
だが、俺は思わずぞくりとして固まってしまう。
――課長が以前見たあの冷たい目をして、こちらを見据えているのだ。
俺が課長から目を離せずにいると、彼はその目を柔和に細めてこっちに近づいてきた。
そして、課長は宮下さんに優しげに言った。
「少し疲れているようですが、午後の会議は大丈夫そうですか? 駄目そうなら、代わりに私と圭くんだけで行きますね。」
宮下さんは慌てた様子で『大丈夫です、行けます!』と言うと、課長は俺の作ったレポートを彼女に手渡した。
「いつも通り、圭くんが作ってくれたレポートです。これにも目を通すようにしておいて下さいね。」
(ええっ!? それよりも大事なことを言わなくても良いのか!)
俺が思わず課長を見ると、彼は目で俺を制した。
結局、俺はそれ以上何も言えずに、工程改善の会議に出席することになるのだった。
――そして、ついにその時が来てしまった。
会議が始まる前に、課長が技術部門の人と昨日のことについて、少し話し込んでいた。
(むむ?? いつもはあんなことをしないのにな……)
違和感を感じながら俺はいつもの如く末席に着く。
宮下さんは、興味なさげな顔で俺が作ったレポートを読んでいるようだ。
会議が始まり、今回の議題として《工程改善における問題点》が上げられた時、彼女が慌てて俺のレポートを読み返した。
だが、当然のことながら、その内容はレポートには書いていない。
彼女がもの凄い形相になったのを見て、俺は察した。
(技術部門からのメールに目を通してくれなかったみたいだな……)
そして、技術部門担当者が少し意地の悪い表情でこちらを見て言った。
「昨日の定時後に判明した問題だったため、各部署には大変ご迷惑をおかけ致しました。特に品質管理部門からは、本問題についての改善の足がかりとなるデータを提出して頂いたため、感謝をしております。」
宮下さんの表情が少し柔らかくなる中、彼は彼女に質問した。
「ところで、宮下さんには事前に連絡をしたのですが、どの工程でこの問題が発生したのかを工場長に教えて頂けないでしょうか?」
だが、宮下さんはレポートに必死で目を通したまま、席を立つことが出来ない。
(あっ……そういうことか……)
彼から送られたメールには、『技術部門から問題点について説明をするので、品管からは状況の説明をするだけで良いです』と書かれていた。
俺と課長は当事者だったので、そういったことはまったく問題なかったが、宮下さんだけは違った。
彼女がこのメールをちゃんと読んでいれば、俺か課長に確認をしているはずだが、それをしていない以上、状況の説明が出来るわけがないのだ。
課長は静かに首を振りながら、静かに立って工場長に頭を下げた。
「申し訳ありません……部署内での情報のやりとりが上手くいっていなかったため、宮下がこの一件を知らなかったのです。」
工場長は課長の目を見た後、溜息をつきながら俺に言った。
「二人とも昇進したばかりで説教するのはあまり良くないとは思うんだけど《ホウレンソウ》の意味は知っているね? 報告・連絡・相談……これは新入社員に教え込む内容だ。圭くんは、宮下くんの下で仕事をしているなら、彼女がどんな状況でも情報を聞き入れるように努力しないといけないよ。」
俺は色々と思うところはあったが、素直に頭を下げた。
工場長はさほど俺には怒っていなかったようで、笑いながら言った。
「昨日は随分と遅くまで頑張ってこの件に尽力したと聞いているけど、主任になったからにはいずれ下の人達から報告を受けることもある。その時は今回のことを教訓とするんだよ。」
俺は内心ホッとしながら、もう一度工場長に礼の意味で頭を下げる。
工場長は笑みを崩さずに頷いたので、これでこの一件は終わりかと思われた。
だが、彼はそれまでとは打って変わって、もの凄く不機嫌そうな顔で宮下さんを叱責した。
「さて、宮下くんだが……どうも君は自分の立場を理解していないようだ。皆の面前でこういったことを言うのは良くないけど、君は工程改善における分析全般の裁可を任されているわけだ。その君が部下や他部署からの報告を処理出来ていないのに、頻繁に私用で休みを取るという情報が私に上がって来るんだよ。君はその件についてどう思っているのか、この際だから皆に聞かせてくれないか?」
宮下さんはブルブルと震えながら、小声で『PTAの役員が……』と言おうとしたが、工場長が鬼のような形相で彼女を怒鳴りつけた。
「そういう言い訳を聞きたいわけじゃないんだよ! 君がしっかりしていないせいで、こういった形で会議も止まってしまっているし、色々な人に迷惑かけているよね? まず最初に君が言うべきなのは、皆への謝罪じゃないか! まったく……これでは、君を係長にあげた我々の顔が丸つぶれだ。」
そして冷たい声で課長に言い捨てた。
「今日はもう時間が大分押してしまったので、会議は明日に回そう。あと……宮下くんは忙しいようだし、しばらく工程改善からは離れてもらって、代わりに君が責任を持ってその仕事を引き継ぐようにしてね。くれぐれも……同じようなミスは二度としないように頼むよ!」
課長は青い顔をしながらも何度も頷く。
宮下さんの方は土気色の顔をして俯いていた。
* * *
結局その日の会議はそこで打ち切りとなり、俺と宮下さんは課長に言われて会議室に残った。
未だに土気色の顔をして俯いている宮下さんに、課長は問いかける。
「僕は君に言いましたよね? 『プライベートで色々とあるかもしれないけど、それを仕事に持ち込むな』と……それはさておき、圭くんが技術部門の方からのメールだけでも読んでくれと言っていたのを私も聞いていました。なぜ、宮下さんはそれを聞くことが出来なかったのですか?」
宮下さんは俯いたままブスッとした表情で何も答えない。
課長は彼にしては珍しく、怒気を孕んだ表情で机に拳を叩き付けた。
「宮下ぁ! お前がそういう態度なら、こっちにも考えがある。有給には時季変更権があるってことはお前も知っているよな? 俺はお前に期待していたからこそ、PTAの会議の変更が出来ないというお前の言い訳をずっと聞いて、希望通りに有給取らせてやってたんだぞ。だが、それももう終わりだ……会社はお前一人のためにあるんじゃないんだ! これからは自分でプライベートの折衝をやって、会社に迷惑がかからない日に有休を取得するようにするんだな。」
宮下さんが、慌てて課長に取り縋る。
「そっ……そんなのパワハラじゃないですか! こんなのってあり得ない。いくらなんでも横暴ですよ。」
課長は冷めた目で宮下さんを見て、はっきりと告げた。
「有休を取得するのを認めないと言っているわけじゃない。会社が忙しい時期に取るなと言っているだけだからね。君はこれからは手が空くだろうし、幸いなことに藤宮さん達はかなり忙しい。僕は後で藤宮さんに相談して、君でも出来そうな製品分析を割り振ってもらうように頼んどくから、しっかりと彼女の指示に従うんだね。」
二人の会話について行けずに呆然と突っ立っている俺に、課長は言った。
「さて、明日の会議の資料なんだけど……工場長があの調子だと、かなり頑張って作らないといけないと思うんですよ。今からだと大変かもしれないけどお願いできますか?」
(お願いも何も……いまのやりとり見て断れるはずがないじゃないか!)
俺は心の中で震えながらも、にっこりと頷く。
課長は優しげな笑顔を作ると、俺に部屋から出るように告げた。
「じゃあ……お願いしますね。僕はもう少し宮下さんと話をしなければいけないんでね。」
彼の目を見たがまったく笑っておらず、ヤバい雰囲気を察した俺は逃げ出すようにして部屋を後にするのだった。
* * *
会議の次の日、社長が直々に工場に来て工場長と共に宮下さんと課長を呼び出した。
社長が何を言ったかは分からないが、戻ってきた課長は沈痛な面持ちをしていた。
それからまもなく、会社内で女性管理職を増やそうという話が立ち消えになったという噂が流れることとなる。
当然のことながら、技術部門や研究所で上を目指そうとしていた女子社員から、宮下さんは目の敵にされた。
――その一方で、課長の方は宮下さんの処遇について頭を抱えていた。
サニー向けなどの大手製品について、分析はすでにパートさんに移行していて、出荷作業などは他社員に置き換わってしまっている。
大手の出荷担当の社員が頻繁に変わると言うことは、4M変更の手続き上あまり好ましいことではなく、必然的に宮下さんは元のポジションに戻ることは出来なくなっていた。
では、通常製品の分析に回そうかと考えたが、通常製品の分析の多くはパートさん達が担っている。
宮下さんは以前の口論のせいでパートさん達から総スカンを食っている為、仕事の割り振りを行っている藤宮さんが難色を示すことは容易に想像できた。
では、宮下さん一人で通常製品の分析をさせようかと考えたが、それもまた厳しい。
彼女は自分が得意な《機器分析》しかやっておらず、《滴定分析》や《官能分析》といった通常の製品に必要な分析は一切やろうとしていなかった。
そのため、彼女一人で分析をさせるというのは技能的に難しいのである。
だが、今のところ、宮下さんに任せられる仕事はそれしかない。
結局、課長は宮下さんを一般的な製品分析の担当者にすることにして、藤宮さんから《滴定分析》や《官能分析》を教えてもらうように指示をした。
――当然のことながら、宮下さんはその決定にもの凄く反発した。
彼女にとって目の上のこぶだった藤宮さんに師事するなど、プライドが許さなかったのだろう。
だが、彼女には他に選択肢がなく、渋々とそれに従った。
藤宮さんは意外にもかなり丁寧に宮下さんに教えていたが、いきなり新しいことを覚えるのは中々厳しくて、どうしても習熟が遅い。
それを見た女子社員やパートさん達が『自分よりもずっと給料もらってるのに、こんなことも出来ないのか』とヒソヒソと噂するようになった。
また、藤宮さんが前日からの急ぎの出荷作業で手を取られていて忙しいのに、その状態でも宮下さんは自分が決めた日に休むと言い張った。
藤宮さんは『好きにさせたら良いんじゃない』と言っていたが、周囲の社員とパートさん達が怒って、課長に『藤宮さんがあんな状態なのに、なんで宮下さんにそこまで勝手にさせるのか』と談判した。
結局、課長の判断で宮下さんはその日ではなく、違う日に休むように指示が出る。
その日以来、宮下さんが情緒不安定になってしまって、最終的には心身の不調を理由に退職することなるのだった。
* * *
宮下さんが課長に退職願を提出した時、俺はいつも通り工程改善のレポートを作成していた。
その時の俺は彼女がそんな物を課長に提出していたとはつゆ知らず、会議に間に合わせるためにただただ必死でパソコンに集中していた。
だが、ふとモニターに人影が映って思わず振り返る。
すると、頬にもの凄い衝撃を感じた。
――殴られたと自覚するのにはかなり時間がかかった。
何故なら、宮下さんがもの凄い形相で俺を睨んでいたからだ。
彼女の目には深いクマが刻まれていて、目はどこか虚ろにながらも淀んだ怒りを湛えていた。
色々な感情が渦巻いているのか、彼女は身じろぎ一つせずに俺を見下ろしている。
遅れてやってきた痛みに顔をしかめながら、俺は彼女に問いかけた。
「宮下さん……どうして……?」
それが彼女の感情の堰を切ったのだろう。
彼女は俺を何度も殴りながら叫んだ。
「アンタが……アンタが余計なことさえしなければ……私はこんなことにならなかったのに!」
俺は感情が追いつかず、呆然と彼女にされるがままになっていた。
(俺は……自分が会社のためになると思って……頑張っただけなのに……)
いつの間にか殴られる感覚がなくなった。
どうやら課長が宮下さんを羽交い締めにして、止めてくれているようだ。
そして、藤宮さんがツカツカと歩いてきて、思いっきり宮下さんの頬を張った。
「ふざけるんじゃないよ! 圭の手柄を横取りしたのに、それを手前勝手な行動で台無しにしただけじゃないか。それに、圭に当たったのだって、自分が殴っても良い相手だと思ったからだろう? あんたは本当に最後まで最低な女だよ。こうなったのも自業自得さ!」
宮下さんはその言葉に激昂したが、騒ぎを聞きつけた周囲の人達が集まって来て、辛辣に彼女を罵倒したため、逃げるようにその場から飛び出した。
後に残された俺はガクガクと震えていた。
殴られたことなんかより、彼女の人生を狂わせてしまったと言われたことに衝撃を受けたからだ。
「俺は……俺はそんなつもりじゃ……無かったんだ……」
小声でそう呟くのが精一杯立った。
背中がいつぞやのように冷たくなる中、トントンと肩を叩かれた。
――この感覚には覚えがある。
屋上で藤宮さんが俺を気遣ってくれた時とまったく同じ感覚だったからだ。
「課長、ちょっと圭を借りていきますね。」
藤宮さんはそう言うと、俺を強引に立たせて屋上へと連れていくのだった。




