不穏な兆候
春になって期が変わる前、俺は主任、宮下さんは係長への昇進が掲示された。
宮下さんは係長として、工程改善の分析全般に関わる裁可を任されることとなり、彼女が担当しているサニー向け等の製品分析を他の人に回すことになったのだが、その引き継ぎについては俺がやることになった。
なんでも、藤宮さんが『宮下は色々忙しいだろうし、圭の方がこういったことを滞りなくやってくれる』と課長に進言したらしい。
課長としても、藤宮さんと宮下さんがぶつかって課の雰囲気が険悪になるよりはその方が良いと思ったのと、宮下さんが休みの時にヘルプに入っていたなら、確かに俺が適任だろうと考えたようで、快くそれを了承したそうだ。
普段から、雑用などでマニュアル化をするのが習慣となっていた俺にとっては、さほど難しいことは無く、分析自体はパートさんでも出来るぐらいに普遍化した手順書を作成した。
そして、サニーに出荷する際に面倒な手続きなどについては、社員向けに注意点を記載したマニュアルを作成して藤宮さんに渡した。
すると、彼女は意味ありげな笑みを浮かべながら、『流石圭だね……期待通りの仕事をしてくれたよ』と労ってくれた。
そして、休憩時間に俺を会社の労働組合の幹部と引き合わせて、『あたしが教育した中でもかなり見所がある奴だから、しっかりと面倒見てやってくれ』と言って、半強制的に労働組合に入れさせたのだった。
俺としては、先日の一件のせいで結構ナーバスになっていて、少し放って置いて欲しい気持ちもあったけど、藤宮さんに『そういうときだからこそ、会社についてよく勉強するべきだ』と諭された。
――半強制的だったとはいえ、俺は労働組合に入って良かったと今では思っている。
実際の所は労働組合とは名ばかりで、会社の上役達の意向に沿って動く《御用組合》といった感じだったが、それだけに会社の機微に聡い人が多かった。
そのため、俺が営業からこっちに来た経緯とか、今回の一件のことについても知られていて、『なかなかガッツのある奴が来てくれた』と言ってくれた上に有志での歓迎会を開いてくれた。
丁度、あの件で一緒に手柄を分け合った現場の人もいて、『今後も一緒に仕事を頑張ろう』なんて感じで意気投合しながら、酒を酌み交わした。
また、技術部門や研究部門の若い人とかもいて、工程改善の知見とかについての話題で盛り上がった。
俺にとって会社の飲み会は、仕事を盛り上げるための業務みたいな感じで考えていたけれど、この飲み会はとても雰囲気が温かく、楽しい時間を過ごすことが出来た。
この日以来、現場の人達の態度がさらに軟化して、今まで教えてくれなかった《工程についてのここだけの話》や俺からの要請に対して若干だけど協力的に応じてくれるようになった。
また、技術部門や研究所員からも、製品の技術的な疑問点について教えてもらえるようになり、不具合などが生じた際に使える引き出しがどんどん増えていった。
まあ……製品で不具合が出た時や現場がやらかした時なんかは、みんな手の平を返して理不尽な逆ギレをしてくるのだが、俺がこの工場に来た頃に比べて格段に仕事がやりやすくなったのは間違いなかったのだった。
* * *
その一方で、俺の品質管理の仕事はもの凄く忙しくなっていた。
通常の仕事に加えて工程改善の分析をすることになったので、俺の仕事量はもの凄い量になってしまったのだ。
しかも、宮下さんは工程改善のレポート作りも俺に全部やらせるので、残業が絶えない日々を送るハメになっていた。
――そんな中、不穏な兆候が見られ始めた。
宮下さんが係長に就任してから二週間ほど経ったころ、彼女が『どうしても明日は午前休を取りたい』と言い出した。
ちょうどパートさんが同時に数人休みを申請している日だったので、課長が難色を示した。
でも、宮下さんがもの凄い剣幕で『私が係長の仕事と家庭を両立するためにも、絶対にこの日は休まなくちゃいけないんです!』と迫ったため、課長は半ば押し切られるような形で午前休を認めた。
少し離れた場所でそのやりとりを見ていた藤宮さんが課長達を睨んでいたので、課長は困惑した顔をしながらすごすごと俺の方に来て、少し大きな声で独りごちた。
「身内で体調を崩した人でもいたのかなぁ……介護なんかで大変になる人とかもいるからねぇ。」
彼はチラチラと俺を見ながら、同意を求めるように促してくる。
(面倒ごとに巻き込まないでくれよ……ただでさえ、仕事増えていて肩身狭いんだからさ)
俺は周囲に気づかれない程度の仕草で藤宮さんに謝罪した後、課長の言うことに同意する。
周囲の視線は少し厳しめだったけど、とりあえずその場はなんとか収まることとなった。
――だが次の日の午後、宮下さんはなぜか出社しなかったのだ。
昼休みから戻った藤宮さんが若い子にその件を相談されて、眉間に皺を寄せながら凄みのある声で呟いた。
「ただでさえパートさんの休みが多くて大変な中、強引に半休とったくせに無断欠勤ねぇ……良い度胸してるじゃないの。」
その様子を見た課長が慌てて宮下さんに電話をしたが、その日は全く連絡が取れなかった。
藤宮さんは、宮下さんが半休取ると考えて俺に仕事を振っていたため、一日休まれたと言うことは、実質的に一日半分の仕事を振られていることになってしまう。
俺は最悪会社に泊まり込むことを覚悟したが、普段残業をしない藤宮さんが『仕事を振ったあたしの責任でもある』と言って、過剰になってしまった俺の分の仕事を分担してくれた。
そのおかげで、その日はなんとか仕事をこなすことが出来たのだった。
結局、宮下さんはさらに次の日に出社してきたが、声をかけるのが憚られるほど憔悴していた。
そして、昨日休んだパートさん達は意味ありげな笑みを浮かべて宮下さんを観察しているようだった。
(なんだろう……すごく嫌な雰囲気だな)
俺は彼女達の様子がひっかかったけど、とりあえず昨日纏めた工程改善のレポートを宮下さんに手渡すことにした。
だが、彼女はそれを一瞥すらせずに自分の机に放り投げた。
そして、心ここにあらずと言った雰囲気でひとりごとのように呟いた。
「ちょっと課長と話してこなくちゃいけないから……後で見させてもらうわ。」
(いくら機嫌が悪くても、ねぎらいの言葉一つぐらいは欲しいよな)
彼女の態度にかなりイラッとしながらも、俺は相手するのが面倒なのでそのまま仕事を始めることにする。
そして、しばらくすると課長が青い顔をしながら宮下さんと別室に入って行った。
さっきのパートさん達がその様子を見て、意地の悪い顔で笑いながら目配せをしているのを見て、俺は何とも言えない不快感を感じた。
(宮下さん……何か問題でもあったのかな? それにしても、課長は何であんなに青い顔をして居たのかな)
結局、小一時間ほど経ってから宮下さんが戻ってきたのだが、表情は冴えずにとても暗い雰囲気を醸し出していた。
彼女は机の上にあった俺のレポートを一瞥すると、見もせずに叩き付ける。
そして、大袈裟に溜息をつくと俺を呼びつけた。
「ちょっと、圭くん! このレポートは何なのよ。これじゃ全然ダメだわ。」
(内容に目を通さずにどうやって判断したんだろう?)
あまりにも理不尽な物言いに怒りがこみ上げてきたが、俺はなんとか抑えながら彼女に尋ねた。
「現場からの意見の吸い上げと、技術部の方からの裏付けも取った上での報告と提案だったのですが、なにか問題ありましたか?」
宮下さんはレポートの表紙を苛立たしげにバンバン叩きながら、ヒステリックに怒鳴った。
「そういうことじゃないの! 体裁が悪すぎて、読むに値しないっていうこと。まったく、あなたは院卒だって聞いてたから期待してるのに、全くなっちゃいないわ。元データ今すぐ送ってよね……忙しいのに、仕事ばっかり増えちゃって嫌になっちゃうわ。」
(ええと……体裁も何も、表紙ですよね?)
色々とツッコミどころが多かったが、相手にするのも馬鹿らしかったので、俺は敢えて和やかに笑いながら仰々しく礼をした。
「そうでしたか、それは申し訳ありませんでした。元データは昨日の時点で宮下さんの方に送信済みなので、メールの確認をお願いします。後で体裁について反省したいので、俺にもそのレポートをメールで頂けますでしょうか?」
俺が営業で磨き上げた清々しいぐらいに見事な礼を見て、俺達の様子を窺っていた藤宮さんが思わず吹き出す。
周囲の視線が集まっていることに気づいた宮下さんが、拳を硬く握ってブルブル震わせながら絞り出すような声で言った。
「そう……分かったわ。あなたの為に私はレポート書かなくっちゃいけなくなったんだから、今日の現場と技術部門との会議は出てちょうだいね。」
(ちょっ!? 雑用のついでに情報持って来てまとめるのはともかく、そこまでしたら間違いなく仕事がパンクするんですけど)
流石にそこまでは出来ないと、俺が言おうとしたその瞬間……
トントンと肩を叩かれた。
(やばい! 藤宮さんがキレたか!?)
思わず後ろを振り返ると、課長が真面目な顔をして立っていた。
彼はいつもの気弱で情けないような表情ではなく、毅然とした表情で俺に告げる。
「圭くんは仕事に戻って下さい。会議には私が出ますので安心して下さいね。」
そして、宮下さんに冷たく言い放った。
「昨日、そのレポートに目を通しましたが、よく書けていると彼を褒めました。宮下さんは、見るにも値しないと評したようですが、私の目が曇っていたんでしょうかね?」
ブルブルと体を震わせながら、何も言えなくなっている宮下さんに課長はさらに言った。
「係長に昇進したならば、部下をしっかりと管理するのも仕事です。昨日の圭くんの帰社時間は当然知っているんですよね? 宮下さんがいなかった分、彼の仕事が増えた上『明日の会議にも必要だから』と遅くまで残業してそのレポートを書いてくれました。ちなみに、今からそのレポートを書き直しても会議の後には必要ないのでは?」
俯いて黙りこくっている宮下さんに、課長は深く溜息をついた。
「私は言いましたよね? 社長の意向で女性幹部を増やしたいと。そういう意味で、貴女は周囲の注目の的なんですよ。その貴女がしっかりしてくれないと、推薦した私の能力も疑われてしまうんです。プライベートで色々とあるかもしれませんが、くれぐれもそれを会社には持ち込まないで下さいね。」
(馬鹿な……課長が課長をしている!?)
俺を含めて周囲の皆が課長に注目する中、彼は静かに首を振りながら俺達に言った。
「さあ、仕事に戻って下さい。僕は宮下さんともう少し話をしますので、席を外しますね。」
課長は宮下さんについてくるように促すと、別室へ入っていくのだった。
後に残された俺達は何ともいえない気まずさにお互いの顔を見合わせていたが、藤宮さんがパンと手を叩いて一喝した。
「さあさあ仕事に戻った! 圭もボサッとしてないで、現場に廃液処理の依頼を出してきな。」
(藤宮さんなりの配慮のつもりね……いつもすいません)
騒ぎの当事者が残っていると気まずいと思ったのだろう、そう思って俺は現場へと赴くのだった。
――しかし、騒動はこれで終わりではなかった。
昼休みの間に宮下さんとパートさん達が激しく言い争いをし始めたのだ。
なにやら『役員決めで嵌めた』だの、『不公平だし言いがかり』とか聞こえているが、双方ヒートアップしていて収拾がつかない。
俺が思わず藤宮さんに声をかけようとすると、彼女は課長の方を顎で指した。
仕方なく課長を呼ぼうとするが、彼は我関せずと言わんばかりにこちらを全く見ようともしない。
業を煮やした藤宮さんが、課長のデスクを思いっきり叩いた。
「あっちでなにやら揉めてるんですけど、声かけてくれませんかね!」
バシンと机が叩かれる音に、周囲の目が一斉にこちらに向けられる。
課長はばつが悪そうにのそりと立ち上がって、宮下さんとパートさんの元に行く。
そして、彼女達と一緒に別室に入っていった。
藤宮さんはやれやれという顔をしながら肩をすくめると、俺の肩を叩いた。
「圭も私と同じ主任になったんだからさ、あまり頼り過ぎちゃダメだよ。まあ、課長は狸親父だから、ああでもしないと動かないんだけどね。」
(藤宮さんと同じか……まったくそんな気がしないよなぁ)
情けない表情で頷く俺を見た彼女が、今度はかなり強めにバシッと背中を叩いてきた。
「ほらっ! そういうのが良くない。それじゃ、私が振り分けた仕事もしっかりこなしてちょうだいね。」
俺はビシッと背筋を伸ばしてそれに応えると、藤宮さんは満足げに頷くのだった。
* * *
昼休みが終わって、パートさん達は全員戻ってきたが宮下さんは戻ってこない。
代わりに課長が戻ってきて、申し訳なさそうな顔で藤宮さんに声をかけた。
「宮下さんは体調不良のようなので、今日は上がってもらうことにしたよ。」
藤宮さんは興味なさげな顔で頷いた後、ジロリと課長を見据えた。
「宮下の個人的事情は知ったこっちゃ無いんですけど、パートさんと諍い起こされるとこっちの仕事に影響するんですよ。今後、彼女がパートさんと接触しないように取り計らってくれますよね?」
課長は少し考え込んだが、意を決したように頷いた。
「そうだね……彼女の席を僕の近くにするんで、それで良いかな? 宮下さんはこれから研究や技術部門とのやりとりも多くなるから、それで彼女も納得してくれると思うんだ。」
藤宮さんはなおも不服そうな顔をしたが、今のところはそれ以上どうしようもなさそうだったので、渋々と了承するということになった。
パートさん達は藤宮さんに感謝をしながらも、仕事上がりにまた嫌な笑みを浮かべていた。
(なんか気になるんだよなぁ……あの笑い方)
どこか引っかかりを感じる笑い方に不快感を感じながらも、俺は自分の仕事に専念する。
その日はそれ以上何か起こることもなく、俺は課長から工程改善についての会議の結果を聞いて、それを元としたレポートを作成し直す。
定時を大分過ぎた後に課長にそれを提出して帰社しようとしたのだが、帰り際に彼に呼び止められた。
「藤宮さんから聞いたけど、圭くんは労働組合に入ったそうだね。研究や技術部門の担当者とも接する機会も多いと思うし、今のうちに会議に出られるように準備しておいて下さいね。」
(えっ……まさかそれも俺がやれって言うのかい!?)
これ以上忙しくなると流石に終電コースまっしぐらなため、俺は一瞬非難めいた顔を見せてしまう。
だが、課長はとっくに帰社した藤宮さんの席をみながら、目を細めていった。
「藤宮さんの方にはそれとなく伝えておいたから大丈夫だと思うよ。それに、彼女としてもその方が都合が良いだろうから。」
笑っているはずなのに、ぞくりとする雰囲気を感じて俺は思わず頷く。
課長は少しだけ息を吐いた後、今度は本当に笑って俺の肩に手を乗せた。
「藤宮さん同様、僕も君には期待しているんだよ。君は僕が年を取るうちに置いてきてしまったことを思い出させてくれる気がするんだ。努力は必ず報われる……でもね、報われる方向の舵取りは自分でやらないといけない。そして、会社という場所ではその努力による美酒が例え気に入らない味でも、美味そうに飲むことが肝要だよ。でなければ、それを与えた人の不興を買うんだからね。」
俺は少し考え込んだ後、素直に課長に頭を下げる。
「ありがとうございます。頂いたお言葉をしっかりと噛みしめますね。ところで……努力による美酒ってことなら、この時間まで残った部下に現実のお酒を飲ませてくれるってことですよね?」
課長は一瞬固まったが、すぐに笑い出した。
「ぷっ……ははは。そういう意味じゃないんだけどね。まあ、今日は色々あって僕も少し堪っていたところだよ。駅前のチェーン店でも良かったら飲みに行こうじゃないか。」
結局、その日は終電まで課長と飲み明かして、仕事の愚痴やら課長の武勇伝やらを聞きながら楽しい時間を過ごしたのだった。
翌日以降は、工程改善の分担分が増えてしまったが、藤宮さんが課長を睨み付けながらも通常の仕事の分担分を減らしてくれたので、なんとか日々の仕事をこなすことが出来た。
宮下さんは相変わらずの調子だったけど、何処となくパートさん達や若い子達との間に距離が出来てしまって職場に孤立しつつある。
そんな中、新たな問題が生じ始めてしまったのだった。