閑話)ヒルデの独り言1
ルキフェルの私室の隣にある執務室で、私は各幹部からの報告書に目を通していた。
(悪魔関連の方については、フォラスが良く纏めてくれているようね。一部の者に不穏な気配があるようだけど、これくらいのことならば、私が出るまでも無いか。)
(オベロンの方も順調ね。あの神域の件や海の精霊への対応が、精霊達にとって溜飲を下げる結果になったようだわ。さらに、人間達が精霊を尊重するようになったと感謝の声が上がっているというわけね。)
(ヴァルハラの方も問題なさそうね。死霊達の信頼を得たケイからの推薦というお墨付きをアルケインに与えていたから、彼も死霊達に受け入れられやすくなっている。それに、アルケイン自体もかなり精力的に働いてくれているみたいだから、しばらくは様子見で大丈夫そうだわ。)
(フェンリルの方はどうかしら? あらあら……所々にアレトゥーサの影が見えるわね。清書を彼女にさせているのがバレバレよ。しかし……あの娘があれほどまでの器量の持ち主だったとはね。この調子でいけば、彼女の名声がさらに高まって、精霊として一段と強い力を持つことが出来るかも知れないわね。)
そこまで読んだところで、不意に部屋に気配を感じた。
私は書類から目を離さずに、その相手に声をかける。
「フォラスかしら? 私が仕事中に入ってくるなんて珍しいわね。いつもなら空気を読んで、もう少し後ぐらいに来るのに。」
「儂もそうしたかったのですが、またケイの力を使いたいと思う一件がありましてな。ヒルデ様の裁可をいただきに参りましたのじゃ。」
彼が私に一通の報告書を差し出してくる。
それに目を通した私は、その内容に肩透かしを食らったような気分になった。
「私の仕事を止めるにしては、些事のように見えるけど……自分達で解決できないのかしら?」
だが、彼は真面目な顔をしながらきっぱりと首を振る。
「儂の勘では、きっとこれが元で魔王軍にさらなる発展をもたらすと考えておりますのじゃ。それに、これがうまくいけば、人間との交渉もさらにうまくいくのではないかと思われますぞ。」
自信たっぷりに言い放つフォラスを見て、私は肩をすくめた。
「わかったわ。ルキフェルに『アリシアとケイに丁度良い仕事が見つかったのでやらせてみたい』と伝えておくから、貴方はしっかりとその下準備をしておきなさい。」
彼は嬉しそうな顔をしながら私に深く頭を下げて、静かに姿を消した。
先ほどまで彼がいた場所を見て、私は思わず苦笑しながら独り言つ。
「ケイが転生するに当たって一番反対していたくせに、今じゃ口を開けば彼のことばかり。新婚さんなんだから、ノクターンのこともしっかり構ってあげなきゃ愛想を尽かされるわよ?」
フォラスは少し過保護なくらいにアリシアによく仕えてくれているが、彼女が異世界の何の変哲も無い小市民の男に恋をしたと聞いた時は『どこの馬の骨とも解らぬ若造に、お嬢様を幸せに出来るはずがない!』と、目の色を変えて怒ったものだ。
――でも、私は彼が英雄でないと聞いて、少し安心した。
《戦乙女》という種族として一番の禁忌は、《他の世界の英雄》と恋に堕ちることだ。
本来であれば、このようなことは起こりえないようになっているのだが、ごく稀にその世界にとって必要な英雄と戦乙女が出会って、恋に落ちてしまうことがあるのだ。
もちろんのことながら、彼女らの使命は他の世界にとって排出しても良い者を、受け入れさせてもらうという立場だ。
それをわきまえずに、その世界にとって多大な影響力を持つ者と想いを寄せ合うなどと言うことは、とても畏れ多いことなのだ。
ただ、英雄がその戦乙女を愛しているのであれば、それは尊重されるべきことである。
だから、その場合は私達の世界から戦乙女が追放されて、その英雄の居る世界に嫁ぐと言うことが通例となっている。
私達の世界としては《天界から選ばれし戦乙女》を失うため、大きな痛手となるが、そういった結果を招いた責任を取るという形では、それが一番妥当な対価というわけだ。
まあ、その点で言うならば、あの世界におけるケイの価値は小石程度のものだったから、特にこの世界に連れてきても問題視はされなかった。
それに、アリシアは私が教えたことをしっかりと守って、あの世界では決してケイの前に姿を見せることは無かったのだ。
だからこそ、天界への説得の際にケイとアリシアの因果関係を問われても、偶然に発生した不幸な事故が重なっただけだという言い訳が出来たのだった。
――そうは言っても、アリシアはこの世界で笑い者にされてしまった。
心ない者からは、『《男殺し》なだけでなく、何の能力を持たない男に恋をするとは何という愚かな娘か……親が親だから、子も同じように私情に走ったのだろう』との嘲りを受け、大いにあの子は傷ついたものだ。
内心はらわたが煮えくり返るような気持ちだったが、私とルキフェルは涼しい顔でそれを聞き流すことにした。
なぜならば、私達はアリシアの資質を誰よりも評価していたからだ。
《天使長》であったルキフェルと《戦乙女の長》だった私の魂が混じり合った娘の能力が低いだなんてことは、天と地がひっくり返ったとしてもあり得ないことなのだ。
そのアリシアが見初めたというのであれば、この世界にとって有益な存在になるに違いない。
そうなった時、アリシアを嘲った者達は手のひらを返したようにあの子を評価するだろうと確信していた。
――実際の所、ケイはよくやってくれている。
事前にガブリエルからは『冴えないけれど、とても優しそうな印象』と聞いていたが、その前評判とは裏腹に、魔王軍で生じていた色々な問題を解決してくれた。
ただ、魔王の娘の婚約者にしては威厳が無さすぎると、陰で言う者も居る。
でも、彼の恐ろしいところは、就任してから僅かの間に《悪魔の総統》、《妖精王》、《金狼王》、《死霊の始祖》、さらに《教皇》とも本当の意味での交誼を結んでしまったということだ。
力関係や利害で繋がることはそう難しくない。
だが、交誼を結ぶとなると話が別だ。
ルキフェルの意向で、ケイと対等な関係を築くようにと幹部達には申しつけているが、心の中まで縛ることは難しい。
だが、彼はあの一癖も二癖もある幹部達と真っ直ぐに向き合って、信頼を勝ち取ってしまった。
今では、彼らはケイの後ろ盾として、彼のために協力を惜しまないだろう。
そして、《教会の影》の一件は、流石に私も驚かされた。
天界に対する絶対的な忠誠を誓っているあの者の心を、あそこまで引き寄せたことに恐ろしさすら感じたものだ。
ケイはそのことについて、完全に自覚はしていないだろうが、あれは魔王軍と人間との交渉役について、公式的に彼が指名されたということだ。
それと同時に、人間側に彼を引き入れたいというベネットの意思も含まれていたわけだが……
結局、ケイは逆にベネットを中立寄りに引き寄せてくれた。
そのおかげで、これからはもう少し人間側との交渉もやりやすくなるのでは無いかと私は考えて居る。
彼には威厳が無いかも知れないが、そういった功績を鑑みれば、娘の婚約者としては及第点と言えるのではないだろうか?
――それに、彼は下々の信頼もしっかりと得ているのだ。
まず第一に、キキーモラやシルキーの信頼を勝ち取ったことはかなり大きな意味を持っている。
家事に関わるあの者達は、それこそクロノス全体の者に関わることが多い。
そういった意味で世情に聡い彼女達と、何気ない会話をすることで最近の動向を知ろうとするのがこの国では常識なのだ。
そんな中でケイとアリシアの話題が出れば、当然のことながら、彼女達は好意的な反応を示してくれる。
結果として、クロノス全体でケイと娘は民達に好感を持たれやすくなるというわけだ。
もちろんだが、彼自身の実績による者も大きい。
私達の頭を悩ませ続けてきた《亜人》、《死霊》、《精霊》の問題を、彼らの心に寄り添った手法で解決してくれた。
当然のことながら、それによって救われた者はケイに信服するだろう。
さらに、フォラスの店での見事な対応から、悪魔の奥方達からの評価も上がってきている。
色々と面倒な悪魔の派閥の問題にケイとアリシアを関わらせたくないから、『ケイはルキフェルの眷属だから、専属で動いてもらっている』としているが、彼女達からのケイやアリシアに対する興味は日を増すごとに増えていっているのだ。
――そして、ケイはアリシアのことを尊重してくれている。
《男殺し》の払拭だけでなく、アリシアの名が高まるような形で彼は立ち回ってくれている。
私にとって、これが一番彼を評価しているところだ。
宝石の原石は、磨かれなければただの石同然の価値にしか見えない。
ケイがアリシアを独占したいと思うのであれば、彼女の価値が低いまま自分の地位を高めるという方法を取ることも出来た。
だが、彼はそうせずにアリシアという宝石を美しく磨き上げ、自らがその傍らにいても遜色ないようにと、自分を磨こうと努力し続けている。
『誰も見向きもしないが、自分だけ君の価値を解っている』と娘に優しく語りかけ、そして自らの手中に収めるということの方が、明らかに容易なのにも関わらずだ。
母親としてそれはとても好ましいことであるし、魔王の娘の庇護者としてもそれはとてもありがたい。
恐らく、ケイとアリシアはそう遠くないうちに、魔王軍を強く結びつける楔の役割になるのではないかと私は考えている。
魔王の娘とその相手が魔王軍全体の要となるということは、ルキフェルと私としても望ましいことに違いない。
――ただ、今のケイは魔王の器ではない。
彼は《前世は小市民》を自称している。
ある意味、それは幹部と下々の者の壁を越える免罪符のような役割を果たしていて、相手に下々の者達の視点で物を見てくれると信じ込ませるいう利点がある。
その反面、相手から舐められやすいという一面もある。
前世の経験からか、ケイはあえてへりくだるような態度を取ることで、相手からの警戒を解いているような節があるが、王は畏敬の念を抱かれるべきであって、軽々しく民達に頭を下げるべきではない。
それが不安になって、『アリシアの夫となるものがそれで良いのか?』とルキフェルに聞いたことがある。
だが、彼は微笑してこう答えた。
「我が必要としている転生者は勇者のような存在ではない。力を持つ者であれば、フォラスやオベロン、そして竜族の者もおる。むしろ、力ある者達と力なき者達の間を取り持つ力を持つ者が必要なのだ。」
確かに、これ以上力を持つような者を迎え入れれば、魔王軍はさらに警戒はされてしまう。
だが、ケイをフェンリルやノクターンに師事させて、あそこまで鍛える理由を天界にどう説明する気なのか?
私の表情を読み取ったルキフェルは、笑みを浮かべながら頷いた。
「そうは言っても、正論を通したところで力なき者のいうことは聞かぬもの……天界とて、勇者でもない小市民が、何度も死にかけて強くなったというならば、文句を言うことは出来まい。また、ケイ自身がその力の使いどころを間違えないということを周囲に示させることで、ヒルデが感じている懸念を払拭することができるはずだ。」
ルキフェルが言っていることは理想論ではあるが、それほどまでにケイのことを信頼していることが分かったので、私はそれ以上のことは聞かないことにした。
――今となってみれば、彼が言っていることは正しかった。
現在の地上の状況についてもそうだが、彼の洞察力と決断力には目を見張らされる。
物事の本質と言うことを良く捉え、その時に必要であることについては周囲の批判を恐れずに敢行する胆力を持っている。
そして、最後には自分が望むような形での結果を出すようにしてしまうのだ。
* * *
そこまで思い起こしたところで、私は《クロノスの王女》のことを考えた。
「あの娘は力はあるかも知れないけれど、表面的なことしか理解できていないのよね。」
ティターニアを通じて、ロゼッタとアントピリテのやりとりについての報告を受けたが、海を支配する者が誰かということや、精霊の加護を失うことの意味というものをあの娘は全く知らなかったそうだ。
もちろん、魔王軍としては最大限に人間に配慮して、彼らが生活が出来るように協力をする。
だからこそ、人間達から受ける多少の無礼な振る舞いは大目に見なければならないと各種族にきつく申しつけている。
――だが、我慢にも限度があるのだ。
今回の網の件は、流石にやり過ぎだった。
ケイがアントピリテの婚約に一役買った上に、ポルトゥスの奇跡にてネレイス達の支持を得たので事なきを得たが、一歩間違えれば海の精霊達が職務を放棄して、海が荒れ狂っていてもおかしくは無かったのだ。
まあ……そうなったとすれば、その咎がこちらに向かってくるのだろうから、ロゼッタのやり方も一見すればありだったのかも知れない。
だが、その時はしっかりと天界に私が全て報告して、きっちりとした審判を受けさせるつもりだった。
仮定の話だが、考えただけでも頭が痛くなり、私は思わずため息をついた。
「まったく……他国の事情を理解する必要は無くても、他国の状況を知らなければならないということぐらいは教育しておいてほしいものだわ。」
仮想とはいえ、敵国である魔王軍の事情を理解して、その状況を汲むようなことはしなくても良い。
だけど、一国の王女ともあろう者が、相手の国の状況……いや、地上全体の状況について知らなすぎるというのは怠慢でしか無いのだ。
もちろんアリシアには、それについてしっかりと教育しておいたつもりだ。
人間の考え方や常識、教会の教義、クロノスの国や街などの情報をしっかりと叩き込み、それを自分の判断の糧として使えるようにしておきなさいと。
だが、ロゼッタはそういったことはせずに、クロノスのことだけを見ていたのだろう。
だからあんな狭量な考え方になってしまう。
ベネットの背中を一見するぐらいの器量があれば、もう少しましな考え方が出来たはずなのだが……
「そうね……ケイのような存在が傍らに居てくれたら違ったかもしれない。」
ケイであれば、ロゼッタと周囲の中をうまく取り持ってくれたかもしれない。
その場合はロゼッタが即位して女王となり、ケイが教皇と宰相を兼任するのが良いのだろうか。
でも、それは決してあり得ないことだ。
今やケイの存在は、娘だけで無く、亜人や死霊、精霊達にとって無くてはならないものになっている。
それに、彼自身がアリシアを深く愛している上に、魔王軍の幹部達と交誼を結んでいるのだから、無理矢理それを引き離すことは難しい。
(そういえば、あのネレイス達の住処での《愛の告白》は、実に素晴らしい出来事だった)
ルキフェルと一緒にあの光景を見たが、まるで駆け出しの戦乙女のように新鮮な心持ちになれた。
あれほどまでに惹かれ合っている二人の姿は、母親ということを差し引いても心を動かされる。
しっかりとあの二人が幸せになれるように応援したいものだ。
「それにしても、あの王女は大事なことを見過ごしているのよね……何故、アリシアは魔王の娘でありながら《戦乙女》という、白銀に輝く羽を持つ天使なのかということを……」
私は教皇を迎える神事についての報告書を読みながら、ルキフェルの刺客として地上に舞い降りたときのことを思い出すのだった。