シレーニとベネディクト
ゲートを抜けてエリシオンの街に到着すると、俺とベネディクトはシレーニの酒蔵へと向かう。
街の様子をベネディクトは興味深げな顔で見ながら何度も頷く。
「ふむ……水の使い方や、建物の配置が実に効率的ですね。それに、建物が堅牢性と美観を両立させている所も素晴らしい。機会がありましたら、本格的に視察などをしてみたいものです。」
「俺もこの街に初めて来たときに、技術力の高さに驚かされたんですよね。川の上流にあるあの大きい建物がシレーニの醸造所です。今回は時間も少ないことだし、急ぎましょうか。」
俺はベネディクトを抱きかかえると、シレーニの醸造所に飛んでいった。
彼は嬉しげな顔で、眼下に広がるエリシオンの街を観察しているようだ。
「自然と街がこれほどまでに見事に融和しているとは……教義に書かれている理想がここにある気がします。」
「機会がありましたら、ベネディクト様も定期的に魔王軍の街を視察されたらどうでしょうか? 案が通るか解りませんが、ルキフェルにも相談してみますよ。」
俺の提案に、ベネディクトは苦笑しながら静かに首を振った。
「お気持ちはありがたいのですが……『教皇は人が天界を崇める象徴として振る舞わなければならぬのだ。魔王領へ直接訪問したいなどとは、その自覚が足りん!』と、眉間に皺を寄せながら、何かとうるさく騒ぐお方がいるのですよ。」
(なるほど……ミカエルが色々と言ってくるわけか)
「そうですか……他に何か、俺に出来ることがあったら、その時は協力させて頂きます。」
「そう思って下さるだけで十分ですよ。大事な初デートをすっぽかしてまで、私のために動いて下さっている。十二分に貴方の誠意は伝わっていますから。」
(あれ? なんで、俺の初デートのことを何で知っているんだ?)
訝しげな顔でベネディクトを見つめたが、シレーニの醸造所に到着したので地面に舞い降りる。
どうやらシレーニは俺達を待っていたようで、満面の笑みを浮かべながらいそいそとこちらへ駆け寄って来た。
「ベネットさん! フォラス様から話は聞いているぜ。何でも俺の《愛の手順書》をえらく気に入ってくれたそうじゃねえか。さあさあ、こんなところで立ち話も何だから、中に入ってくれねえか?」
シレーニは上機嫌で俺達を醸造所の事務所に招き入れると、唐突に俺に問いかけた。
「つかぬ事を聞くんだが……こんな別嬪さんと二人っきりでいて良いのか? アリシア様から浮気したって思われねえか、心配なんだが。」
俺は不思議そうな顔でシレーニに聞き返す。
「へっ!? 別嬪さんってどこにいるんだ?」
シレーニは嫌らしい笑みを浮かべてベネディクトを指さした。
「おめえの隣にいる方に決まってるじゃねえか! 一つ一つの所作や、その身から醸し出す素晴らしい気配。ベネットさんよぉ……あんたほどの上玉が、恋人がいる男と二人っきりでいたら、勘違いする奴がいてもおかしくないと思うぜ。」
俺は改めてベネディクトをまじまじと見つめた。
短く刈りそろえられた銀髪に、サファイアのような目、そして壮年にさしかかったエネルギッシュな外面はどこから見ても、男性でしかない。
確かに物腰は柔らかく、丁寧な所作は女性的ではあるが、俺の目には精力的なイケメンとしか写らなかった。
俺の視線にベネディクトは苦笑しながら肩をすくめる。
彼は優しげな顔でシレーニへ向き直ると、優しげな声で窘めた。
「シレーニ殿、ケイ様と私は親友としてのお付き合いをしているのですよ。それに、彼は純粋な方ですから、そのような冗談を仰られると真に受けてしまいます。確かに私は神事などの為に、女方を演じる必要があるので、そのように見えたのかもしれませんね。それに、そう思ったとしても、それを口に出すのは野暮というものでございましょう?」
シレーニはベネディクトの目を真っ直ぐに見つめた後、何かを悟ったような顔をして、静かに首を振った。
「ベネットさんがそう言うなら、そういうことなんだろうな。久々に良い所作をする相手が現れて、俺も興奮しちまったらしい……すまなかったな。」
「いえ……ご理解頂けて、ありがとうございます。それでは本題に入りましょうか。」
ベネディクトは懐から《愛の手順書》を取り出し、シレーニへ告げる。
「この本を一読させて頂きましたが、内容的にはとても深く、性に対する真摯な思いが伝わってきます。安易に魔法などに頼らず、技法や心理を利用して性に対する悦楽を生じさせようとする姿勢が素晴らしいと感じました。」
シレーニは満足げな顔で頷いているが、ベネディクトは残念そうな顔で首を振る。
「ですが、この本をクロノス側で広めることが出来ないと私は考えております。」
「何故だ? ベネットさんは俺の本を賞賛していたじゃねえか?」
「そうですね……内容的には素晴らしいと思います。ですが、この本には致命的な問題点があるのです。」
ベネディクトは本を開くと、挿絵を指さした。
「人間というものは、基本的な観念として同族同士の交わりを尊ぶ傾向にあります。確かにこの描写は貴方が体現なさりたい内容を見事に表していますが、人によってはこれを禁忌を呼ぶ悪書と判断する可能性があるのです。」
シレーニは真面目くさった顔で頷く。
「なるほど……つまり、挿絵は亜人同士ではなく、人間同士での形にしければならないというわけだな。」
ベネディクトは柔和な笑みを浮かべながら、シレーニに優しく告げた。
「そういうことになりますね。しかしながら……恐らく王都や教会としては、この本を流通させてはならないと考えるでしょうね。それを言う前に、聞きたいことがあるのですが……シレーニ殿は、何故この本をクロノスに流通させようと考えたのですか?」
シレーニは少し考え込むような顔をした後に、俺に問いかけた。
「ケイは婿殿の母親の話は知っていると思うんだが……亜人が結婚した際、何が一番問題になると思うかい?」
俺はフェンリルの身の上話を思い出して、ふと思い当たる。
「なるほど……寿命が極端に異なる場合があるということですね。」
シレーニは我が意を得たりという顔で俺の肩を叩いた。
「そういうことになるわな……種族だけではなく、血の濃さによっても寿命が異なっちまう場合もある。そういった不安定な存在が子孫を残すとなれば、性に対するきちんとした知識と技術を身につけるというもの大事なことなんだよ。限りある時間の中で、愛の営みをいかに健全に、そして充実した形で行えるかというのはとても重要だと考えたわけだ。人間という寿命の短い種族にも、それに通ずるものがある……だからこそ、クロノスにこれを出回らせたいと思ったのさ。」
(いつもの変態丸出し会話ではなく、もの凄く真面目なことを言ってるよ!?)
ベネディクトは眉を緩めて、感心したような顔で頷く。
「確かにシレーニ殿の仰ることは理にかなっています。恐らく、強者が実権を握る魔物の世界では、それが正しい考え方なのでしょうですが……クロノスでは、血筋を重視する傾向がございます。高貴な血筋に生まれた者同士が高い水準の教育を受け、そしてさらなる有能な者を残そうという考え方です。そのため、むやみに市場にそのような書が出回ると、悦楽に興じた者達が秩序を乱して、クロノスの土台が揺らぐという危険性があるのですよ。」
「ふむ……ベネットさんよ。そろそろ腹を割って話をしてくれねえかな。恐らく、あんたは俺に何かさせてえと思っているようだが、一体何をして欲しいのかい?」
ベネディクトは微笑しながら、《愛の手順書》を指さした。
「先ほどシレーニ殿に伝えたとおり、クロノスでは血筋によって選ばれた者同士が交わり、さらに優秀な者を残します。そして、貴方の仰るとおり、人間という者は寿命の短い種族なのです。だからこそ、《房中術の専門書》として貴方が作られた《愛の手順書》を採用したいと考えているのです。」
シレーニは破顔してベネディクトの手を取った。
「なるほど! お貴族様は、ややもすれば性知識が薄く、子を成せない場合もあるという訳か。おもしれえ……喜んで、そのお役目受けさせてもらうぜ。」
ベネディクトは穏やかな顔で頷くと、何やら考え込んだ後にシレーニへ問いかけた。
「そう言って下されば助かります。ところで、シレーニ殿は奥様やお子様がいらっしゃるのですか?」
「もちろんだとも! 俺自慢の妻であり、男色の泉の精霊サルマキス。フォラス様の店のナンバーワンにして、《愛の手順書》の共著者である、息子のファウヌス。もの凄く生意気な娘だが、フェンリル様の奥方となっちまった俺の跡継ぎのアレトゥーサ。そして、アレトゥーサの婿となった亜人を統べるフェンリル様。どれをとっても俺の誇りであり、最愛の家族だ。」
「それはそれは……でも、最愛の家族がいるのに性に奔放では、ご家族の方が心配されるのではないでしょうか?」
シレーニは自信たっぷりな顔で、その問いかけを一笑に付した。
「それは問題ねえな。そもそも俺の種族は《シレノス》。つまりは酒と性に貪欲なのさ。俺にとっては性に対する探求は船乗りが航海に出るようなものだ。自分と異なる肉体や精神、そして性別を超えて性の悦楽を共有できたときの一体感を味わう。それこそが生きがいであり、俺という存在を成り立たせているんだよ。」
彼は俺とベネディクトをじっと見ながら遠い目をして語る。
「だがな……船はいつかは港に戻るもんだ。船乗りは港へ戻って休息を得て、船は海で酷使したその船体を修復する。俺にとってサルマキスと家族は港であって、それ以外の所に戻ることはないのさ。あいつらもそれが解っているからこそ、俺を信頼して送り出してくれると思っている。」
俺は思わずシレーニにツッコミを入れた。
「でも、アレトゥーサは随分と厳しめの反応していた気が……」
「ケイは解ってねえなぁ……ありゃあ、反抗期って奴だ。最愛の旦那が出来た後は、あいつの態度も大分柔らかくなったんだぜ? その点では、ケイに感謝しねえといけねえな。」
ベネディクトは俺達を見てクスクスと笑いだした。
「フフフ……お二人は仲がよろしいんですね。ですが、シレーニ殿のお考えはよく分かりました。そのような方であれば、安心してお任せすることが出来そうですね。それでは私とケイ様は、今後の進め方について協議させて頂きますので、これで失礼させて頂きます。」
シレーニは残念そうな顔をしながらも、ベネディクトの手を放す。
「出来れば酒蔵も見て言って欲しいところだが……そういうことなら仕方がねぇ。ベネットさんよ、あんたが期待する以上の物に仕上げてみせるから、楽しみしていてくれよ!」
ベネディクトは微笑しながら頷くと、俺の手を引きながら醸造所を後にする。
彼は嬉しげな顔で俺に礼をした。
「実は更衣の間に、フォラス様を通じてシレーニ殿にお目にかかりたいとお願いしたのですよ。少し誤解もあったようなので、それについても連絡させて頂きました。」
「そうでしたか……てっきり、またあの糞爺の手のひらで踊らされたのかと思っていました。」
「フフフ……糞爺ですか。フォラス様はクロノスでは魔王軍第一の知恵者として有名なのですが、そのような異名があるのですね。」
「えっと……あっ……いや……俺の教育係みたいなものなんですが、それだけ親しみやすいってことですよ。」
その時、不意に俺の耳に息を吹きかかった。
「ひゃあああぁぁぁぁ!? なっ……何を!」
思わず振り返ると、フォラスが呆れた顔で俺を見ている。
「誰が糞爺じゃ……年長者は敬わなければならぬぞい。」
ベネディクトがフォラスにも深々と礼をした。
「この度は、私の無理なお願いを聞いて下さってありがとうございました。おかげで、有意義な時間を過ごすことが出来ましたよ。」
フォラスはそっぽを向きながらにべもなく言い放つ。
「ふん……教皇ともあろうものが、そんなに簡単に頭を下げて良いのかのう?」
だが、ベネディクトは微笑を崩さずにフォラスを見つめる。
「今の私は、ただのべネットでございましょう? そのような肩書きに縛られる必要などありますまい。それでは、もう少しケイ様をお借りさせて頂きますね。」
フォラスは複雑な顔をしながら、ゲートを開く。
その表情の意味が何か分からず、それが気にかかりながらも、俺はベネディクトを抱きかかえてゲートの中に入るのだった。




