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アントピリテの歌声

 アントピリテが美しい声で歌い始める。

 高く儚げな声が調べとなり、誘うように俺の耳をくすぐってくる。

 あまりにも素晴らしい歌声に、俺はその歌を聞き逃すまいと聴き入ってしまう。

 声が醸し出す距離が絶妙に遠く、もっとその声を聴きたいのにそれが叶わない。

 もどかしさを感じる俺をあざ笑うかのように、彼女が今にも壊れそうな切ない声を上げた瞬間、俺はもの凄く大きな焦燥感を感じた。



――焦燥感と共に目の前がぼやける。


 胸の中がまるで中空になったように空っぽで、体が芯から冷えていく。

 空っぽになった胸が締め付けられるように苦しくて、肺と背骨から突き抜けるうな衝動的な感覚が頭にせり上がってくる。

 どこか心が落ち着かずに苦しくて、喉が砂漠になったかのように渇き、鼻の奥が痛くなった。

 目の奥が熱く、頭は思いっきり殴られたようにクラクラしている。

 頭の中では冷静になろうとするのに心は抑えが効かず、すぐにでもこの衝動的な何かの為に叫びたいと訴え続けてくる。

 そんな俺にアントピリテが優しげな声で歌いかけ、思わず彼女に目を奪われた。

 いつの間にか、彼女の周りにネレイス達が集まり、春の日向に出たときのような爽やかで心地よい暖かさの声音が包み込んでくる。

 周囲から絹のようなさらりとした音が耳に流れ込み、さっきまで感じていた胸の苦しみがなくなっていく。

 俺の心は完全に歌に取り込まれ、恍惚した表情を浮かべてしまう。



――だが、そこで俺の心地よさを邪魔する者が現れた。


 顔ははっきり解らないが、美しい女性が必死に俺の腕を掴んで何を叫んでいる。

 途端に、歌がそれを拒絶するように悲しみに暮れ、俺の心は焦燥感と苦しみに落とされて、思わずその手を振り払ってしまった。

 振り払ったことが正しいことを示すように、優しげな声が大きくなり俺の心が満たされていく。

 俺の足がふらふらとアントピリテに向かおうとする中、俺の手が優しく両手で包まれ、熱い水滴の感触が手に伝わってくる。

 その感覚に、俺は雷にでも打たれたような衝撃を受けた。



――この涙の熱さには記憶がある。


 激しく心を揺さぶられて、俺は思わず振り返った。

 先ほどの女性が涙を流しながら、俺の手を愛おしむように両手でそっと包み続ける。

 手と涙から感じる暖かさからは確かな愛、そして手の震えからは戸惑いと縋りつくような悲しみを感じて、俺の心は張り裂けそうなくらいに痛んだ。

 俺の表情を見た彼女が俺を力一杯抱きしめて唇を重ねる。

 そんな彼女が愛おしくて堪らなくなり、俺も彼女を力一杯抱きしめた。

 周囲の音が何も聞こえなくなり、彼女の顔がはっきり見えてくる。

 それは、俺がこの異世界に来た理由であり、俺の心をずっと満たしてくれている女の顔だった。



――そう、それはアリシアと言う名の俺の天使だ。


 涙を流しながら俺を見つめるアリシアに、心の奥底から溢れる思いが抑えきれずに叫んだ。


「俺にとって君がいない世界なんて何の意味も無い……だから、ずっと俺の側に居て欲しいんだ!」


 俺の想いを乗せた告白が海に響き渡り、歌がかき消されていく。

 アリシアは優しく俺の唇に口づけして、その想いに答える。

 永遠とも思えるような静寂の中に互いの愛を感じて、俺とアリシアは涙を流し続けながら唇を合わせ続けるのだった。



 * * *



 静寂の中で確かな愛を感じ続ける俺とアリシアを祝福するように、ネレイス達が周囲を泳いで歌い始める。

 先ほどまでの不安感や昂揚感が嘘のように治まり、逆にあんなに直情的に愛を叫んでしまったことと、彼女の手を振り払ったことへの羞恥心が湧き上がってきた。


「すまないアリシア……俺は君の手を振り払って、もう少しで誘惑に乗るところだった。」


 俺は申し訳なさげにアリシアの方を見るが、彼女は幸せそうな顔で涙を流しながら俺の胸に顔を埋めて呟いた。


「いいんです……ケイはアントピリテの歌を打ち破り、あんな素敵な告白をしてくれました。私も同じ気持ちです。」


 ふと、アントピリテの方を見ると、彼女はワナワナと震えて膝をついている。


「私の歌が……完膚なきまでに破られるなんて……」


 オベロンが少し興奮気味に俺に近づいて声をかけた。


「良い物を見せて貰ったよ……これほど心が揺さぶられたのは久々だった。君とアリシア様が結婚できるよう、心から応援したいと思っている。」


 一方のティターニアは微笑しながらアントピリテに駆け寄り、彼女の背中を優しくさすっている。


「ケイ様はこれほどまでに人を愛することが出来る方です。この方に海の命運を任せても良いですね?」


 アントピリテは深く頷くと、どこかスッキリとした表情をしながら俺とアリシアに深く礼をした。


「試すような真似をして申し訳ありません。私の歌は天使ですら虜に出来るんだけど、真に愛し合っている者達はその誘惑に打ち勝つことが出来るの。でも、あんな風に歌をかき消されたの初めてだわ……ケイ様はアリシア様のことを本当に愛しているのね。」


 呆気にとられる俺を見ながら、ティターニアが悪戯っぽくアントピリテに告げる。


「それと、アントピリテが恋した殿方に対しての歌には、まったくそういった効果が無いのよね……私情が入っちゃうからかしら?」


「そっ……それは今は関係ないことでしょ!? とにかく、ケイ様が信頼できる方だということは解りました。」


 そこまで言ったところで、アントピリテは悪戯っぽい顔になってアリシアをじっと見る。


「それに、あの理性的なアリシア様が衆目を気にせずに、自分の感情にまかせてあんな情熱的なことをするなんて……男が出来ると、やっぱり女性は花開くものなのかしら。」


 アリシアが真っ赤な顔をしてうつむく中、アントピリテは遠い目をしながらため息をついた。


「ノクターン様がさっさと結婚しないから、《私達(ノクターン親衛隊)》もそれを慮って婚期逃しちゃってるのよね。私なんて、天使との戦いで張り切り過ぎちゃったから、普通の精霊には恐れられちゃっているので、なおさらなのにね……良い男がいても、私の歌が目当てだったりするしなぁ……」


(フォラスとノクターンは結構罪作りなことをしてたんだな……こんな綺麗な娘さんがずっと独り身なんて)


 アントピリテから黒いオーラが出始めたのを見て、慌てて俺は話題を変えようとする。


「天使との戦いで活躍されたんですね。やっぱりその歌で魅了する様な感じだったんですか?」


 彼女はクスッと笑うと、すっと俺の近くに泳いできた。

 そして、怖い笑顔で俺に告げる。


「ケイ様は深海の果てを知っているかしら? 光届かぬ暗闇に支配されし深淵へと引き込まれた者は、海の重みに潰され続ける虜囚となる定め……この海が涸れ果てる時まで抜け出ることは叶わぬでしょうね。」


(おおぅ!? 流石にノクターンの親衛隊だけあって、天使の始末の仕方を心得てらっしゃる)


 若干引き気味になりながらも、俺はアントピリテに問いかけた。


「ちなみにアントピリテはどんな人が好みなんですか?」


 彼女は顎を人差し指を乗せながら、考え込む。


「そうねぇ……身分的に私に釣り合うくらいの人じゃないと、色々な人に迷惑かかっちゃうから、それはまず前提条件になるわね。性格的な好みとしては……優しくって、献身的すぎるくらいに仲間思いで……美や芸術を解するような知的な素養があって、イケメンじゃないとね……それに、浮気しなさそうな真面目人が良いなぁ。」


(そんな都合の良い奴が簡単に見つかるわけ……ん? いや……まてよ!?)


 脳裏にある男が浮かんだ俺はティターニアに近づいて、耳打ちをする。

 ティターニアは深く頷きながら意味深な笑みを浮かべて、アントピリテの方に優しく手を乗せる。


「それは……とても好都合ですね。アントピリテ! 私は急用が出来ましたので、ちゃんとケイ様のお力になるのですよ。」


 そして、強引にオベロンの腕を掴みながらそそくさと浮上していった。

 アリシアが不思議そうな顔で俺に問いかける。


「一体、ティターニアに何を耳打ちしたんですか?」


「いや……その、人助けって奴かな。」


 アントピリテは怪訝な顔をして俺を問い詰めようとした。


「ティタ姉様があの顔をするってことは、何か企んでいるわね……一体何を吹き込んだのかしら?」


「それは後でのお楽しみってことにしましょう。まずは、今後の進め方について相談させて貰いますよ。今は海の平和を取り戻すことが最優先ですからね。」


「うっ……分かったわよ。でも、この件が終わったら、ちゃんと教えてよね。]


渋々と頷くアントピリテに、俺は当面の対応についての案を出すことにするのだった。

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