海の精霊
料理の手順書の第二弾が待ち焦がれる中、アリシアはアレトゥーサに頼まれて毎日のように《料理の手順書へ載せる料理》を作っている。
それをルキフェルとヒルデと共に食べることが、俺の最近の日課となっているのだ。
今日も、俺達はルキフェルの私室で彼女の作った料理を楽しむ。
ヒルデとルキフェルは、満面の笑みで料理を賞賛した。
「今日の料理も素晴らしいわ。もう私達の料理人はいらないかしら。」
「うむ! このような楽しみが出来るとは……ケイには感謝せねばならぬな。」
そんな二人を見てアリシアは嬉しそうに笑っている。
「そういえば、お父様にはもう一品を加えさせて頂きますね。」
アリシアが意味ありげにルキフェルにウインクをすると、貝と魚のスープをテーブルに置く。
彼はそれを口にすると目尻を下げて喜んだ。
「おお……これは懐かしい。昔、アリシアを海に連れて行った時に《海の精霊》が作ってくれた料理だな。あっさりとしながらも、海の香りを確かに感じられる素晴らしい一品だ。」
「お父様とお母様に料理を食べて貰っているとアレトゥーサに伝えたら、彼女が『折角だから、思い出の料理を作ってあげると良いわよ』と提案してくれたのです。なので、取材もかねて彼女たちに会いに行って参りました。」
「なるほど……ネレイス達に礼を言わねばならぬな。天界と地上との折衝で忙しくて最近は海にも行けないのだが、彼女らは元気にしていたかね。」
アリシアは、少し曇り気味な顔でルキフェルを見る。
「実は……その件で、残念な報告をしなければなりません。ネレイス達があらぬ噂を立てられている上に、海が穢されているとの訴えがありました。」
ルキフェルが眉をひそめて、アリシアに問いかけた。
「む……彼女らは清純で美しい歌声を持つ乙女だったと思うのだが、何故そのようなことになっているのだ?」
アリシアは俺を一顧した後に、ネレイス達の訴えをルキフェルに伝え始めるのだった。
* * *
ネレイス達が言うには、最近の料理の手順書に掲載されている魚を捕ろうと、漁に出る船が続出し始めたそうだ。
漁師達は海には境界線など無いという理屈で、ネレイス達の住処にまで進出してきた上に、漁で使って仕えなくなった網を投げ捨ててしまっている。
当然のことながら、魚やネレイス達は網に絡まって動けなくなり、とても海が住みづらくなってしまった。
さらに、彼女らの美声に聞き惚れてしまい、うっかり船から落ちる船乗りが続出していることから、『海の魔女の歌声のせいで人間に危害が及んでいる』という噂が立てられていて、被害を受けているネレイスの方が悪者にされてしまっているから始末が悪い。
彼女らを統率する《アンピトリテ》という名のネレイスは、『いっその事、本当に魔女として船を沈めてやろうかしら』とまで言い始めているようで、このまま放置すると漁師とネレイスが一触即発の事態になり得る危険性があるとわけだ。
* * *
アリシアの話を聞いたルキフェルは、深くため息をつくと俺を見た。
「ミカエルと話を付ければ、この件を収められると思うか?」
俺は少し考えた後に、首を振った。
「恐らく、禁止しても儲かる以上はこっそりと漁をするものが後を絶たないでしょうね。俺の前世でも、やるなと言ってもやる奴はどうしても出てくるんですよ。こういった場合は、最初から出来なくさせる方法を考えた方が良いかもしれないですね。」
「なるほどな……それでは、この件はケイに一任しても良いか?」
「いつもの通り、ミカエル様や天界との折衝が必要になったときはお願いしますね。」
「それは任せておくのだ。ケイは、自分が思うとおりに思う存分やるが良い。」
「そう言って頂けると嬉しいですね。俺は本当に良い上司に恵まれました。」
「褒めても何も出ぬぞ。だが、まずはこれらの食事を食べてからにしようではないか。折角アリシアが作ってくれたのだからな。」
俺は笑顔で頷くと、アリシアの作ってくれた料理を美味しく頂くのであった。
* * *
ペルセポネの最南端、地上で言えば最南東に広々とした海が存在している。
ゲートを抜けた俺は、思わずテンションが上がった。
(サラサラとした砂浜に、そして青い海……そして、お楽しみのあれですな!)
俺は鼻の下を伸ばしながらアリシアを見ると……
いつものように男装の姿だった。
「えっと……服が濡れちゃうし、水着に着替えなくても良いのかな?」
「大丈夫ですよ! そもそも私は水魔法とかにも耐性ありますし、魔力で纏った服は水を弾いてしまいますので。」
「へえぇぇぇぇぇ!? そんな……そんなぁ……」
がっくりと砂浜に倒れ伏す俺を、気恥ずかしげな顔でアリシアが覗き込む。
「あの……水着は仕事中は恥ずかしいので、お仕事が終わって二人っきりの時に来ますから……ね?」
(仕事が終わったら……アリシアの水着姿が拝める!?)
俺は瞬時に跳ね起きて、血走った目をしながらアリシアの手を両手で握った。
「それなら、早速仕事に取りかかろうじゃないか! ネレイスはどこに居るんだい?」
「えっ……ええと……ここから少し離れた海の中にいます。なんか、今日のケイは雰囲気が違いますね。」
「そりゃあ、愛するアリシアの水着姿がご褒美となれば、気合いの入り方が違うに決まってるさ。さっさと仕事を終わらせて、君の素晴らしい姿をしっかりとこの目に焼き付け……いや、心のメモリーに刻み込まなければ!」
興奮してあらぬ事を叫んだその時、俺の肩をトントンと優しく叩かれた。
「また糞爺なのか……今回ばっかりは俺の情熱は止められない……って、あれぇ!?」
俺が振り向くと、優しげな顔をしたティターニアと、気まずげに頭を掻いたオベロンがたっていた。
「なるほど……キキーモラやシルキー達の噂はあながち嘘というわけでもなさそう。ケイ様は情熱的なアプローチをされる方なのですね。」
「あっ……いや……これは言葉の綾というか、それだけアリシアのことが好きなのですよ。ところで、オベロンとティターニアは何故ここにいらしたのですか?」
「《義姉》から、『フォラスから聞いたんだけど。アントピリテがへそを曲げて暴れそうだから、少し宥めてきてちょうだい』と言われましたの。あの子はとても良い子なんだけど……ちょっと直情的なところがあるから、オベロンにも同行してもらうことにしたんです。でも、ケイ様とアリシア様が一緒なら心強いですわ。」
「そうでしたか。こちらとしても、そういった事情ならとても助かります。」
オベロンがティターニアの脇をつつくと、彼女は思い出したように俺に深く礼をした。
「あら……私としたことが、失礼致しました。先日の神殿と神域の件、本当にありがとうございます。ケイ様とアリシア様のおかげで、境界の中にいる精霊達はとても幸せに暮らせるようになりました。今回はネレイス達と人間達との問題となりますが、またよろしくお願い致します。」
「そんなにかしこまらなくても大丈夫ですよ。なあ、アリシアもそう思うだろう?」
アリシアは真っ赤な顔をしたまま、固まっている。
オベロンがやれやれといった顔をして俺の肩に手を置いた。
「愛する相手に対して情熱的なこと自体は素晴らしいことだと、私も思っている。だが、過ぎたる炎は全てを燃やし尽くしてしまう。女性とは繊細な花のようなものなのだから、あまりにも愛の炎が強すぎると相手を火傷をさせてしまうものだよ。」
(オベロンは素敵な大人だなぁ……俺も彼みたいな紳士になるべきなのだろうか)
オベロンの言葉を聞いたティターニアが悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そんなことを言ってられるのは、《義姉様》が私達の間を取り持ってくれたからじゃない。貴方ったら意気地が無くって、結局私の方から好きだと言ったことを忘れたのかしら? 直情的かもしれませんが、ケイ様みたいに相手のことを魅力的だとしっかりと伝えることは大事だと、私は思いますよ。」
オベロンは憮然とした表情でティターニアを見つめる。
「ティターニア……ここでそんな昔のことを持ち出さなくても良いだろう? 確かに姉さんに君との仲を色々取り持って貰ったことは確かだが、今も昔もずっと君を愛し続けている。それに、精霊達の不満を全て君が聞いてくれているおかげで、私はこうして仕事に専念できているんだ。それを感謝しなかった日はないのだよ。」
「そういうのは言葉にしてちゃんと伝えて下さいませ。その方が私も嬉しく思います。」
(これ以上続くと、アンピトリテよりもこっちの方が厄介になりそうだ)
そう思った俺は、未だに固まっているアリシアの耳にフッと息を吹きかけた。
「ひゃああぁぁぁぁ!? なっ……何をするんですか!」
アリシアが飛び上がりながら叫び声を上げたので、オベロンとティターニアが思わずこちらを振り返る。
やれやれと肩をすくめながら、俺はアリシアに優しく笑いかけた。
「それじゃ、オベロン達と一緒にネレイス達のところへ行きたいんだけど、案内して貰えるかな? 俺じゃ、どう行けば良いか解らないから、アリシアに案内して貰いたいんだ。」
「そそそ……そうですね。それじゃ、ネレイス達の元へ向かいましょう。」
アリシアは俺の手を取りながらいそいそと、海へ向かって飛んでいく。
その様子を見たオベロンとティターニアはお互いの顔を見合わせた後、笑いながら俺達の後に続くのだった。
 




