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巡り合わせ復讐のスパイラル

作者: カミング浅田 

人間世界はすべて不思議な世界。何のためにか意味もなく産まれ意味もなく死ぬ。それをとめどもなく繰り返す宇宙のスパイラル。男女の性の交わりは永遠にメビウスの輪のように連環し、しかし個の一生は短い。あっという間のその生は終わればすべて無でありこの世の不思議な巡り合わせはしかし永久に続く。無精子症の夫の反対を押し切って人工授精をした妻。妻の過去との因縁。産まれてきた子どもの不思議な行動。

運命の復讐


      夫のこと


 

    

 ジュンと私は仲の良い夫婦だった。結婚してからもうかれこれ五年になる。今まで一度も夫婦喧嘩などというものはしたことが無かった。夫婦喧嘩は犬も食わないというけれど、その夫婦喧嘩というものは一体どんなものか一度味わってみたいとさえ思っている。


 性格的には私の方が活発でありジュンはおとなしい。口数の多いのは私の方で、ジュンはいつもモゴモゴと一言、二言私に適当に合わせて返事を返す程度だ。「まあね」とか「そうだよね」とか、たいていそんな相づちに近い生返事がジュンの口からは返ってくる。


 だいたいにおいてこういう調子だったので、夫婦喧嘩も起こりようがない。

 長年の夫婦生活の中ではジュンにしてみれば時々はむかっとする事もあるのだろうけど、折れるのはいつもジュンの方で「俺が悪かったよ。ゴメンな」口答えしてみてもとうてい太刀打ちできないことはわかっているとみえてさわらぬ神に祟りなし、という感じだった。

 

 幸せな日々が続いていた。

 でも、私には一つだけ不満があった。

 子どもができなかった。もちろん私の身体についてはきちんと何度も調べてもらった。その結果は私自身には難の異常も無いということだった。

 ジュンとのセックスにも問題は無かった。ジュンはちゃんと勃起したし、毎回いつも私を満足させてくれた。

 結局。夫のジュンの身体に問題があった。夫は先天的な無精子症だったのだ。



 「くそっ。俺はどうしてこんな身体に生まれて来たんだ」

ジュンは検査を受けてからというもの悔しそうに顔を歪めてそんなことをよく言うようになった。「親を恨みたいよ・・・」夫婦の営みのあとでいつも夫は悔しがった。


 私はそんな夫、ジュンを見ていると次第に情けなくなってくる。どうしても自分の子どもが欲しい。どうすればいいのだろう・・・。





選択


 私はどうしても自分の子どもがほしい。近所の同年代の主婦の友達がベビーカーで買い物をしている。みんな自分の子どもの事を話している。そんな時には私はたまらなく寂しい。

 無精子症なんてそんなどうすることもできないさだめを持った宿命の夫、ジュンへの愛情は変わらないつもりだった。


 でも夫へのそんな気持ちも日が益すごとに変わっていくのを自分でどうすることもできない。

 それはちょっとした日常のささいな事で夫への不満となって出てくる。


 たとえば、夜遅く帰って来た夫ジュンのためにつくったお料理を、彼はおいしいとも言わずに黙々と食べている。

 そんな時、どうなの?おいしくないの?まずいの?ややトゲのある口調で尋ねている自分に気づく。

 ジュンは、そっけなく、「別に。フツウにうまいよ」

 ただそれだけ。


 そんな時に次第に夫ジュンへの愛情が冷めていく自分に気づく。夫婦の間に感情の亀裂が入るのを自覚したときその裂け目はまた日ごとに大きくなっていくような気がした。

 病院での検査してからというものそれ以降、確かにお互いに口数が少なくなっていた。


 ある日、私は考えた。子どもが欲しい。他人の子どもを引き取るのは躊躇された。あくまでも私は自分のお腹ではらんだ子どもが欲しいのだ。

 自分の子どもを持つための選択肢は3つある。


 一つ、人工授精。誰かはわからないが別の男の精子をもらうこと。

 二つめ。いっそのこと夫、ジュンと別れて別の人と再婚すること。

  ジュンへの愛情が急速に冷めていった今ではそれも選択肢のうちだった。

 三つ目は、夫と別れなくても、強引だけど夫、ジュンの公認で他の人とセックスをすること。

 不倫ではない。そこには別に感情が入らなくてもかまわない。ただ他の男の精子を注入してもらうだけのセックス。自分の子どもを産むためにはそれさえも私いとわない。


 そんな事を考えている自分が空恐ろしいような気もする。でもそれほどに私は自分の子どもが欲しい。


 夫の休日に私はそれとなく話を切り出した。

 「ねえ、私どうしても自分の子どもが欲しいの・・・」

 ジュンはきょとんとした顔をして私の言うことを聞いていたが、3つの方法のどれを選ぶかという段になって明らかに表情を変えた。


 「何を馬鹿な事を言うんだ」

 夫は眉に皺を寄せて苛立った。

「お前ちょっと頭おかしいんじゃないか」

 そう言って呆れたように私の顔をまじまじと見る。


 無理もない。そりゃ怒って当然でしょう。こんな話を切り出す自分が我ながら冷たい女だと思う。もうジュンへの愛情はいよいよ本当に無いのかもしれない。

 生殖に対して無能な夫なのだ。男としての何の価値も無い夫。そんな風に私の中で次第に思ってしまっている。



    人工授精


 一ヶ月後、

 夫婦の仲はますます冷え切っていったのだが、それでも何とか必要最低限の日常会話だけを交わしながら日は過ぎていった。夫は私との離婚をも考えたようだった。


 でもそうなることは私の思う壺でもあったわけだからわざと夫はそういう決定はしなかった。冷たい女だとつくづく思う。

 夫は結局「そんなに子どもが欲しいなら他人の精子で人工授精でもしたらいいじゃないか」と言った。

 夫婦にとっては一番無難といえば無難な選択だった。人工授精。ほかの男の精子を私の子宮に植え付ける。

 夫には苦悶の末の決断だったと思う。



 そうしてやがて人工授精の日がやってきた。信頼のおける病院を紹介してもらった。当然のことながら受精は私の排卵日に合わせて行われる。その日、夫はふてくされて仕事を休んでどこかへ行ってしまった。ほんとうは一緒に病院に行ってほしかったのだけれど。


 でもまあこれも元はと言えば私の自分勝手な行動選択だから仕方が無いといえば仕方がないのだ。あとで夫にどこへ行ってたの聞くと「ソープに行って来たよ」と憮然と答えたんだけど今となればジュンが誰とどこで遊ぼうともうどうでもいい。


 私も誰の子どもでもいい、子どもさえ授かればそれでいいのだから私も私だ。

 診察台にまたがって大きな注射器のようなもので医者はほかの男の精液を注入する。その時、感動で思わず声が出た。神様、いい子を授かりますようにと祈った。

 だが、その日を境にあれだけ仲の良かった私達夫婦の関係は決定的におかしくなっていったのだ。


夫・その後


その後、夫はしばらく私と口をきかなくなった。

 日を追うごとに夫ジュンと私の仲はますます険悪になっていった。

 ちょっとした事でいさかいが絶えなくなった。ことあるごとに夫は私になんぐせをつけてくる。

 こんな料理が食えるか、こんな所にこんな物を置いて邪魔になる、

 そのたびごとに私は感情を出さずに冷たく言い放つ。


 「悔しかったら自分の子どもを産ませてみたら。能なしのくず亭主が何を言うの」

 言わなくてもいいことだとはわかっている。でもあえて口に出してやるのだ。


 その刹那、夫はすごい剣幕で私に殴りかかってきた。私のお腹を蹴ろうとしてくる。

 私はその辺にあるありとあらゆるものを夫に投げつけて応戦する。

 もう完全に家庭は夫婦仲は破綻していた。

 人工授精をしてからというものすべてが狂って来ていた。



 次の日の夜のことだった。夫ジュンは夜遅くまで酒をあおっていた。

 酒を飲みながら例によっていらいらした口調でお前ってやつは何てヤツだ、自分勝手な女だ、もう顔を見るのも嫌だ、出て行ってくれ、さんざん悪態をついていた。


  私はまたいつものように冷たく無視していた。やがてジュンは感情の起伏がピークに達したのか突然大声を出すとまたしても私のお腹を蹴ろうとしてきた。


「お前のその腹の子を殺してやるっ」

 ジュンの眼は異様に光り、吊り上がっていた。明らかに何かがおかしかった。



 私はためらいなく外へ飛び出した。

 ジュンの眼には明らかに狂った殺気が見て取れた。


 携帯電話を取り出すと私は即座に警察に電話をした。

 電話がつながった。ジュンは追いかけて来るやいなや私の手から電話機をもぎとろうとした。

 私は即座に電話に出てきた担当官に「殺されそうなんです!。すぐ来てください」と絶叫していた。担当官は落ち着いてください、という。私は住所を早口で伝えた。了解しました、すぐ行きますと返答が電話の奥で聞こえた。


 その直後、ジュンは私の携帯電話を庭石に叩き付けた。

 がちゃんという金属質の音をたてて携帯はとんでいった。狂ったようにとっさにジュンは私の首に手を回した。私はそうはさせまいとジュンの手をふりほどいて走って逃げる。


 待てえーと野獣のような吠え声を上げるとジュンは追いかけてきた。

 私は道路に出た。助けてえーと必死で叫んだ。しばらく走ったがやがてジュンに追いつかれた。

 覆い被さるように強烈な勢いで私は背中を突き倒され路上に突っ伏した。ジュンは後ろから私の首に手を回して絞め始めた。渾身の力をこめて両手で私の首を締め付けてきた。私は遠のいていく意識の中で必死にあらがった。


 気がついた時には目の前にアスファルトの地肌が見えた。暗闇の中をぬって私の視覚に灰色の地面が入った。吐き気がした。私は道路の上に放り出されたまま俯せになっているらしかった。


 私のすぐそばに二、三人の人が何かを大声で叫んで走り回っている。何が起きているのかわからなかった。やがて近所の人が外の異変に気づいて出てきてくれたのだとわかった。

 ジュンは走って逃げていこうとしているところらしかった。それを近所の人が追っかけようとしている。そこまでわかった時、また私は意識を失いかけたようだった。ぶーんというような耳鳴りがしたかと思うと奈落の底へ落ちていくような感覚に襲われて目の前が真っ暗になった。パトカーのサイレンの音が遠くの方に聞こえる。 その時意識がとぎれた。



 夫、ジュンの死体が発見されたのはその翌朝だった。


 隣町の公園の林の中で首を吊っているのを散歩中の人が発見したのだった。

 警察の調べで自殺と判定された。その夜あれから走って逃げたあと発作的にベルトで首を吊ったものらしかった。


 私は担ぎ込まれた病院でそのニュースを聞いた。

 悲しくもなんともなかった。

 むしろこれで夫の暴力から開放されたという安堵感があった。ほっとした。


 これで私の願い通り自分の赤ちゃんを産むことができる。幸い私の身体には異常はなかった。首筋が圧迫されて少し痛みは残っているものの二、三日入院していれば大丈夫だという診断だった。警察の事情聴取を受けたが私には何の法的な非もない。


 ただ一方的に夫ジュンが私に暴力をふるい、そして勝手に自殺しただけのことなのだ。

 近所の人もそれは証言している。奥さんが夫に首を絞められて殺されかけていた。

 路上で「助けて」という女の声が聞こえたので窓からのぞいてみると男に首をしめられてもがいていた。すぐさま外へ飛んで出て行って間に割って止めたのだった。そういう事実はゆるぎない。警察側としても一一〇番通報は受けている。夫婦間のもめごと、ドメスティックバイオレンスのあげくの夫の自殺であった。


 

出産・そして子どもは


 その年の暮れ、ジングルベルの歌が町に響き渡っている頃に私は赤ちゃんを出産した。


 待望の赤ちゃんだった。男の子だった。どんなに嬉しかったことか。

 ありきたりの表現だけど天にも昇る気持ちっていうのはこういうことを指すのだろう。

 赤ちゃんにおっぱいを含ませながら私は幸せのひとときに包まれる。

 赤ちゃんにはヘブンという名前をつけた。ヘブン。天国の意味だ。

 天国にいるようにこの子の人生は幸せになって欲しい。そんな事を願ってそう名付けた。すやすやと眠っているかわいい我が子に私はそっと口づけをした。


 それから何日か経った。でもそんな幸せのひと時はいつまでも続かなかった。

 私のおっぱいが急にでなくなってしまったのだ。

 お医者さんに相談しても不思議そうに首をふるばかり。


「奇妙な事ですねえ・・・」 

今まで順調に母乳は出ていた。なのに急にそれが出なくなるその原因が特定できないというのだ。

「何かわからないが心因性のもので急激なストレスなどがあった場合はこういう風に母乳が出なくなることはありますが・・・」と医者は言う。


 でも夫ジュンも今はいないわけだし、私には今のところそんなストレスなんてまったく無い。

 不可思議なことではあったがとにかく母乳が出ないので市販のミルクを飲ませる。


 ヘブンは最初は喜んでそのミルクを飲んでいた。やれやれと思っていたところ、二、三日経つと今度はまたそのミルクをまったく飲まなくなった。飲んでもすぐにはき出してしまうのだ。そしてそれ以後ヘブンは何も受け付けず次第に元気をなくしていった。私はいても立ってもいられなかった。いったいうしたというのだろう。かかりつけの医者も相変わらず首を振るばかりだった。

 

   

 ミルクを飲まない赤ちゃん


 考えられない事だった。母乳も飲まない。ミルクも飲まない。栄養剤の点滴をしても苦しがって泣きわめいているヘブン。


 ヘブンにいったい何が起きているのか見当もつかなかった。医者もさすがに困っていた。紹介状を書いてもらってほかの病院のいろいろな偉いお医者さんにも診てもらうことにした。


 異常児という以外にこの子には為すすべもない。でも、ほかの病院の権威のあるお医者さん達に診てもらっても、結局何もわからなかった。異常児というがヘブンの身体には何の異常も見付けられなかったのだ。


 なぜヘブンは母乳やミルクをまた栄養剤までも受け付けないのか私には想像もできないことだった。このままではヘブンは死んでしまう。


 私は気が狂いそうなほど心配だった。とにかく病院でこの子に合った方法で生きていく道を探してもらわねば。必死の思いで私は神に祈るばかりだった。為す術もないままベッドの上で痩せていくヘブン。その姿を見るのは辛かった。


 ところがある日。


、たまたま担当の看護師さんが血液の入った採決容器をぶらさげたままヘブンの様子を見にきた。

 ヘブンのベッドに近づくと急にヘブンの様子が変わった。


 ヘブンが突然興奮したように泣き叫ぶ。看護師さんの持っている採決容器の方を向いて手や足を振ってばたばたと異常な様子で興奮しているのだ。


 その血液を求めている風な様子なのだ。その看護師は笑いながら冗談まじりに

 「あら、なあに?どうしたのかしら?そんなに泣いちゃって。ひょっとしてこれが欲しいのかしら」と言ってその容器をヘブンの目の前にかざした。

 するとその後信じられない事が起きた。


 なんとヘブンはその容器をむさぼるように両手でつかむとその容器ごと口に持って行きそれをちゅうちゅうと吸おうとしているのだった。


 これには看護師も驚いた。眼を丸くしてヘブンの様子を見ている。ヘブンはその容器にむしゃぶりつくと急に泣くのをやめて真剣にそれを吸っている。容器の中身の血液は封印されているため出てはいないがほ乳瓶のミルクを与えられた乳児のように

ヘブンはひたすらその容器を吸い続けているのだった。



ポンペイ型・Oh


 ヘブンの血液型はポンペイ型Ohと呼ばれる血液型だった。

 最初はAB型との診断判定だったがさらに詳細な分析をした結果ポンペイ型Ohと判断された。


 ポンペイ型というのは日本ではまれにみる珍しい血液型で国内でも数十例という事だった。

 極めて珍しい血液不適合型の一つとされている。

 

 いわゆる「好血症」または「給血病」と呼ばれる。病名はバンパイア・フィリア。


 人や獣問わず血液を好む症状を現す病気のことだ。先天的な吸血嗜好を持っている。自傷行為により自分の血液を飲む場合もあれば、付き合っている人から血液をもらうという場合もある。極度に症状が進行した場合は自分の血液に飽きたらず犯罪に走って血液を追い求めることもある。一度バンパイア・フィリアにかかってしまうと止められようにも止められなくなる。


 私もこれには驚いた。

 ヘブンが吸血人間ですって!

 信じられないことだ。けど、もっと驚いたのは病院の権威あるお医者さん達だった。

 医学的にもこんな症状を持つ者は希有なのだった。

 お医者さん達の研究グループでヘブンに対する研究と観察が続けられた。


 新聞の小さな記事にこの事が載った。それを機に特に外国のマスコミがそれを大きく取り上げた。

 ヘブンはあっという間に全世界の注目となった。

 名前こそ伏せられたが日本のメディアもこれを機にわっと飛びついた。

 おかげで私は連日のようにマスコミの取材攻勢を受けるはめになった。

 こんなことはでも悲しい。なんで?なんで?私の発する言葉はそれだけだった。


 やがて学会からの要請でヘブンに関するあらゆるデータがそろえられることになった。

 そして究極的には、人権擁護上極秘とされている遺伝子上の父親つまり、人工授精時の精子の提供者の男性についてのデータも洗われた。


 当然、それはヘブンやその母親に知らされることはないが純粋に医学的見地に立ってその精子提供者がどんな人物だったはもとよりそのDNAその他ありとあらゆるデータが収集されたのだ。


  

   十五年後 



 時の流れは速い。

 ヘブンがバンパイア・フィリアだと判定されて大騒動してからもう十五年の年月が過ぎた。

 ヘブンはあれから見違えるように大きくたくましくなった。


 彼が生まれた時のあのパニックといったらもう生きていることさえできないほどのショックだった。でももうあれから十五年。年月は自然に人の心の傷を癒す。私ももうこの現実を受け入れてやっとこの頃は落ち着いた。


 ヘブンはあれからずっと人様から血をいただいて生きている。


 献血活動によって輸血センターから送られてくる血液を三度三度の食事代わりにしてずっと生きてきた。血液型は何型でも良かった。ただ相当量の血液が必要だった。

 一回につき約一リットルほどの量が必要だった。


 国の難病指定も受け地方公共団体からはそれなりの支援金も交付してもらった。そのお陰で今は何とかしっかり生きることができている。ただ、顔は青白く極度に痩せていて病身な体つきだ。これは無理もない話だった。


 朗報といえばこの頃ではそれこそ血の滴るような新鮮な牛や豚の生肉が少しずつだが食べられるようになっていることだった。

 動物の血液も飲めるようになった。


 ポンペイ型ではあるけれど飲料血液は喉から胃へ流れるので血液型の不適合は起きないらしい。血液成分を胃や腸から吸収するその内臓のメカニズムが通常の人間の場合とは違うのだという。

 それはもうそれでいい。そういう宿命を背負って生まれてきたのだ。

 これからずっとそういう風に生きていくのが彼の定めでもあるのだからそれは可愛そうなことではあってもいたしかたなかった。


 それよりもまた別のところに私の心配はあった。

 私の別の悩みがまた一つ増えていた。

 それが何かを語るまえに、私のある過去をここで告白しなければならないと思う。



私の過去 その1


  ・・・・・・・・・・・・・・

 もう遠い昔のことです。私にはあの自殺した夫ジュンと結婚する前にずっと付き合っていた人がいました。その人の名前は伏せておくことにします。あえてここで言う必要もないでしょう。仮にその人の名をX君としておきましょうか。X君とわたしは真剣に愛し合っていたと思います。少なくとも私はそのつもりでいました。X君と結婚するつもりでいましたし、X君もそう言ってくれていました。X君と私は一緒に同棲していました。お互いに仕事はフリーターでしたが経済的なことは気になりませんでした。二人の絆は強く結びついていたと思います。


 ただ、結婚ということになるとただ一つ彼には気がかりなこと、心にひっかかる事があったようです。彼は自分の血液型のことをひどく気にしていました。あまりくわしくは語ってくれなかったんですが、今思い出してみると、そう言えば自分の血液型はどこにもめったに無い型なんだ、とぽつりと言ってたような気がします。陰性なので自分の異常は表には出ないけど、あり得ないような珍しい型なんだよ。結婚して生まれて来る子がオレに似てたらかわいそうだしな・・・。そんな事を言っていたような気がします。

 そのせいかどうか、結婚に二の足を踏んでたような気もするのです。



 彼は・・・。もう結論だけ言いましょう。

 途中の話なんか今この際はどうだっていいのですから。

 彼は、ある日突然私の前から姿を消してしまったのです。

  ショックでした。なんで忽然と彼はいなくなったのか全くわかりませんでした。私は泣きました。血液型のことなんかどうだっていいのに。彼はよほどそのことを思い詰めていたのでしょうか。私は悲しくて泣き暮らしていました。


 ところが、

 ある日私が街を歩いていて信号にさしかかると偶然にも向かい側の道路を彼によく似た人が歩いています。私は息を飲みました。

 彼の腕に若い女の人がしなだれかかるように自分の腕を巻き付けているのです。

 楽しそうに二人は寄り添いながらぴったりとくっついて歩いていました。人違いだろうと食い入るようにその男の人の顔を見ました。向こう側の道路まで二十メートルぐらいの距離です。見間違えようもありません。


 間違いなく彼でした。私はバットで頭をがんと殴られたようなショックを受けました。思わず身体中から血の気が引くような思いがしました。信じられませんでした。



 なんで?絶望感が怒濤のように押し寄せてきました。

 こんなことがあっていいの?自分の部屋に倒れ込むように帰ってくると私はもう死のうと思いました。こんなひどい事があっていいの?私はずっと泣き続けていました。でも涙が枯れるほど泣いたあと私は思いました。死ぬことは簡単だわ、でもこれじゃあまりにも私は惨めじゃないの?私は考えました。


 私も死ぬ代わりに彼にも死んでもらおうと。私はそう決心したのです。



私の過去 その2


 その事があって二、三日経ってから私は高校時代の同級生のジュン、そう前の夫だったジュン、に電話をかけました。ジュンと私は高校時代にしばらく付き合っていたことがありました。ジュンは今でも私のことが好きなのはよくわかっていました。ジュンは病院の薬局で働いていました。私はジュンに相談しました。そして一部始終を話しました。


 「そりゃひどい話だ。よし、君のためなら何でもするよ」

 ジュンはひどく同情してくれました。ジュンと私はその夜、何年ぶりかに結ばれました。


 そして準備は用意周到に進められました。ジュンはもはや完全に私の味方でした。

 それからさらに一週間ほど経って私はそのXの居場所を突き止めました。興信所に頼んで彼の住むアパートを突き止めてもらったのです。費用はかかりましたがどうしてもこれだけは許せなかったのです。

 Xのアパートの住所と部屋番号を知ると私は彼に長い手紙を書きました。今でも愛してること、恨んではいないこと、どうしても会って欲しいこと、今となれば自分の気持ちと正反対の事ばかりを書き連ねました。Xをおびき寄せるためには綿々と愛している気持ちを書き連ねる必要があったのです。

 そしてとうとう私はXを自分の部屋に呼び出すことに成功しました。Xは臆面もなく今まで何も無かったかのように昔の恋人気取りでやってきました。


 「久しぶりだね」

 Xは笑顔満面で私の部屋に入ってきました。

 「どうしても会って欲しいって思ったの」

 私も笑顔で答えました。

 「この部屋も懐かしいな」Xは平然とそう言ったかと思うと、あっという間に私はXに抱きすくめられていました。一瞬のことで抵抗のしようもなく私はXの下に組み敷かれていました。


 行為のあと

 「何も話さずに急にこんな事するなんてひどいじゃないの」

 私はXにそう言いました。

 「悪い悪い、ごめんな。でも久しぶりに君もいい思いをしたじゃないか」

 Xはそんな風にうそぶいていました。

 「何か冷たいジュースでも飲む?」

 Xはタバコを吸っていました。私は裸のまま立ち上がると冷蔵庫に冷やしてあったジュースを差し出しました。

 Xはためらいもなくうまそうにごくごくと喉を鳴らしてそのジュースを飲みました。私はその様子をじっと見つめていました。


 やがて数秒後、Xは顔を歪めて悶絶し始めました。しばらくすると床を転げ回りながら激しく痙攣を始めたかと思うとそのまま動かなくなりました。

毒薬はジュンが薬務室から持ち出したのですが、その死体の処理もジュンに頼んでありました。

 大きな段ボールに詰め込んで見つからないように二人で下の駐車場まで運びました。

 ジュンは用意してあったライトバンにそれを乗せて一晩かけて北陸まで走るのです。


 検問の時にも気づかれないように段ボールに工具用のシートをかぶせひたすら走ります。目指すところは、北陸では有名な自殺の名所、東尋坊です。

 断崖絶壁が続いているところです。ここでは年間何十体という自殺者の死体が上がります。現地に着いたら段ボールも何も全部はぎ取って死体を傷つけないように注意しながら海に放り込むのです。放り込んだらすぐにトンボ帰りで引き返します。ジュンはこの処理を実に見事にやってくれました。


 それからは新聞などを注意していました。

 特に北陸の新聞を特別に郵送購読する契約をしました。それを取り寄せて注意して読んでいました。不明死体が上がったという情報はたいてい地方版の欄外の小さな記事になって出るものです。向こうの地方新聞社は購読料と郵送代金さえきちんと払えば喜んで送ってくれます。そのことで別段怪しまれることはありません。


 一週間経ち二週間経ち、一ヶ月が経ちました。何も変化はありませんでした。 幸いなことにXの捜索願いも出されていないようでした。気になるのはXと一緒に腕を組んで歩いていた例の女でしたが、どうやら急にXがいなくなったことに不審を持っていないようでした。自分はXに振られた事と判断してさっさとあきらめたのでしょう。こんな事になっているとは思いも染めもしていないと思われました。私はXにも親や兄弟はいることは知っていますが、長い間Xの親兄弟は音信不通の状態になっていて連絡も取り合っていないことを私は知っています。


 もう一つはアパートの管理人でしたが、これはジュンが事前に手を回していました。Xの親族ということで急にXが病気になったためアパートを引っ越すことになったという電話を入れています。アパート代金の支払いと敷金の振り込みの処理、部屋の鍵は本人が紛失したと申し立て、合い鍵を受け取って引っ越しを完了させていました。ジュンは念入りに変装して、Xの身内ぶりをうまく発揮してくれました。

 Xのフリーターの仕事場の方は気にする必要はありません。なぜなら、その頃はXは仕事も止めてぶらぶらとしていたのですから。お金が無くなれば、日雇いの土方仕事に行くというその日暮らしの生活だったことを私は知っています。

 それから三ヶ月が経ち、半年、まもなく一年になろうとしています。

 私は確信しました。私は勝ったんだと。



私の心配


 話はもとにもどります。

 私の過去については今書いた通り。でもこんなことは誰にでも言えることじゃない。あなただけに言っていること。では私の心配とは? 


その通り。私には心配が一つある。

 それは私の子、ヘブンが過去のその男、Xにすごく似てきたこと・・・。



 ヘブンの血液型を聞いたときからもしかしてという予感があったがまさかそんな奇っ怪な偶然があろうはずが無いと心の中で打ち消してきた。でもそれはやがてどす黒い不安に変わっていった。そしてそれが間違いなく真っ黒なある確信に変わっていったのはあの時だ。


 ヘブンが赤ちゃんの時、吸血病だというので医学界が大騒ぎして調査を始めた時だ。その時に当然、精子の提供者の男性のデータも収集したことは前にも述べた通りだ。その精子提供者の調査結果は私には伝えられなかったけど、私にはわかった。精子の提供者はほかでもないあのXだという事が・・・。


 Xの場合は、ポンペイ型が陰性だったため発症はしていなかった。オレの血液型はめったにない型なんだとポツリとつぶやいたX。でもどうして死んだはずのXの精子が生き残っていたのだろうか?


 東尋坊で死んだはずの彼の精子がなぜ人工授精で今頃になって私の卵子と結合することができたの?そんな事って絶対にあり得ない!私は何度も心の中で叫んだ。あり得ない!

 そう。最初は絶対にあり得ないと思っていた。だけど、医学界の調査チームはいとも簡単にその謎を解明してくれた。


 血液バンクがあるなら当然精液バンクもある。

 もちろんそれは人道上においても人権上においても極秘にそれは採集され極秘に保存される。そのデータはよほどでない限り公開されることはもちろん無い。


 フリーターのその日暮らしの男Xは金が無くなると、血液を売ってメシ代を稼いでいた。のみならず、自分の精子も売って金にしていたのだった。その証拠にネットでも精液は販売されているのが今日の状況だ。フツウの家庭の主婦がネットで精液を購入し注射器でそれを体内に受注する、そういう時代だ。


 Xが生活のために医療実験関係の特殊な研究団体や遺伝子研究の研究室、医療福祉関係の先進技術開発研究法人などあらゆるところにコネクションを持って自分の精液を売り歩いていたことは十分に考えられる。

 ましてXの場合は、まれにみる珍しい血液型でもある。Xの血液や精子は希少価値がある。研究室では喜んでそのポンペイ型の提供者から精子を高額で買っていたといえる。高く買ってくれるからXは金が無くなればそうやってメシ代を稼いでいたのだ。

 定職につかずぶらぶらしていてもメシが食えたのはそのためだった。このようにXの精子はXの死後も冷凍され保存されていたのだった。たまたま偶然に医療福祉関係の精子バンクからその精子は持ち出され、私の子宮の中に入っていったのだ。とても考えられないような事だが、そういう事だ。私はそう確信したのだ。


 その時、私は、関係の該当医にきっぱりと言った。

 「こんな事態になった以上、はっきりとどういう方の精子の提供を受けたのか、私にも知る権利があります。情報公開してください。でなければ訴えを起こします」

 強硬にそう言うと、医療チームの代表は口ごもりながら答弁した。


 「詳しいことは言えませんが、年齢は25歳から30歳。血液型はやはりポンペイ型の陰性の男性でした。東京大田区蒲田在住の男性です。この血液型に関しては第一次検査ではAB型の反応表示を示すため当初はわかりませんでしたが、まさかポンペイ型とはわかりませんでした。この点については深くお詫び申し上げます。訴訟を起こされるのであれば我々も受けて立ちますが」


 額に皺を寄せ苦悩の表情で担当官は私を上目遣いに見ながら答えた。

 「いえ、けっこうです。今さら訴訟を起こしてもヘブンの血液はもうどうにもなりません」

 担当官のこめかみがぴくりと動いた。

 年齢は25歳から30歳で東京大田区蒲田在住、いずれもXに当てはまる。それ以上きかなくても私はその時に確信したのだ。間違いなくXの精子だったのだ。ヘブンの顔を見ればXにそっくりだということでもそれはわかった。


 ヘブンは間違いなくXの子だった!



    俺・ヘブンの独り言


 

 俺はヘブンだ。

 俺ヘブンは十五歳だった。

 血液で育ったことをのぞけば、そして青白くやせこけていることをのぞけば普通の中学三年生だ。 血液を主食して飲む。このことをのぞけば何の異常もない普通の学生だ。


 だが、俺ヘブンは今まで誰にも言わなかったがずっと心に誓って来たことがあった。表面は普通の中学生である俺ヘブンが誰に言うともなくひたひたと胸の中に秘めてきたこと。


 それは復讐の二文字だった。それは俺が意識するとしないとにかかわらず幼い頃からのぼんやりした心証だった。何か胸の中にもやもやとしたものがあった。やがて成長するにつれてそれはくろぐろと形にならない憎悪とも吐き気ともつかない嫌な気持ちに変化していく。そういうものが胸の奥の方にたまっていくのだった。それはますます拡大され、それは次第にかすかな音響となり脳裏の奥で何かが耳鳴りのように鳴っている。


 「あの女を殺せ」「母を殺せ」「復讐だ」・・・・。時々、雑音のように小さいがちりちりと鳴る風鈴のようにさざ波となって耳の奥でそんな風に聞こえてくる。何かの錯覚だろうか、いや錯覚でも聞き違いでもない。確かに内耳の奥で本当にそういう声がするのだ。

 

 


わたし



 巡り合わせだ。不思議な因縁だ。私はそう思う。縁は不思議なものというがこれはそんな世間でいうような単なる縁ではない。

 おや?今日は息子ヘブンの顔色が悪い。どうしたのかしら?

 「どうしたの?顔色が悪いわよヘブン。お腹すいたの?さあ。ここにある血をもっと飲んだらどう?」

 

 わたしはテーブルの上にあるトマトジュースのような色の赤いコップを指さした。

 「・・・・・」

 ヘブンは無言だ。

 「おかしいわよヘブン。今日はどうしたの?」

 確かに変だ。

 いつもと違う。


 「俺、母さんの血が欲しい・・・」

 ヘブンはそう言ってじろりと白い眼でわたしを睨む。ぞくっとした。

 するとヘブンはまな板の上に置いてあった包丁を取り出した。 

 「え!?何それ。どうしたのよ!」

 わたしは思わず叫んだ。 


 「俺は、母さんの血が欲しいんだ!」

 ヘブンは野獣の咆哮のような声をあげてそう叫んだ。

 

 わたしは目を皿のように見開いた。

 どうしたというの!ヘブン!


 そういう間もなくヘブンはその包丁をわたしの胸に突き立てた。一瞬の出来事だった。

 何が何だかわからなかった。何か白い鳥の羽根が胸に飛んできたのだと思った。

 その刹那、焼けつくような鋭い痛みが全身に駆け抜けた。

 わたしはヘブンの目を見た。

 憎悪に満ちた息子ヘブンの目がじっとわたしを見つめていた。

 すーっと目の前が真っ暗になった。

 


 

 ヘブンは薄ら笑いを浮かべた。

 「とうとう復讐したぞ!」

 そうつぶやくと包丁を母親の胸から引き抜いた。血がどっと噴出してきた。

 ヘブンはその傷口に唇をあてるとちゅうちゅーと音をたてながその生き血を啜った。



   エピローグ


 翌日の新聞の三面記事には次のように載っていた。


 「中三 母親を刺殺。○月○日午前7時40分頃、母親を殺したと警察に通報があり警察官が駆けつけると母親が倒れており、十五歳の少年をその場で殺人未遂の疑いで現行犯逮捕した。少年は、耳元で母親を殺せ殺せという声が聞こえるので殺したと意味不明の事を口走っており、現在慎重に調べを進めている。この少年は十五年前に話題になった血液を食べる子ども、いわゆる血液飲食症候群を患っており、医療専門家はその関連性についてもくわしく捜査を進めている。なお、調べによるとこの少年は母親を刺殺後に母親の血液を吸い取って飲んでいたとの警察関係者の証言もあり、精神鑑定も視野に現在慎重な調査を行っている」


    


 その日の夕方、突然天候が急変し落雷が都内のあちこちで発生した。電車のパンタグラフが壊れたりしたが、そのうちの一つが民家に落ち火災が発生した。

 ヘブンの家だった。その後から、二つの男の白い亡霊が煙のようにゆらゆらと暗い空を彷徨いながら上へ上へと昇っていった。

 

                  了


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