この島にないもの
第一章 三人と二十七人
島の人口は三十人。
正確には、先月おじいちゃんのトメさんが本土の病院に入院したから二十九人。でもトメさんは「退院したら絶対戻る」と言い張っているので、島の人はみんな三十人のまま数えている。
その三十人のうち、小学生は三人。
ハヤテ、リヒト、ザンタ。
六年生が二人に五年生が一人。たったこれだけの人数で、この島の小学校は回っている。回っている、というより、かろうじて息をしている。
来年の三月、三人が卒業すると——正確にはハヤテとリヒトが卒業し、ザンタが六年生に上がると——在校生はザンタ一人になる。一人では学校は成り立たない。島の小学校は、百十二年の歴史に幕を下ろす。
そのことを、島の誰もが知っていた。でも誰も口にしなかった。口にすると本当になる気がするから。まだ三ヶ月ある。三ヶ月もある。だから今日も、学校のチャイムは鳴る。
◇◇◇
朝七時半。
港の掲示板の前に、三人が集まっていた。
掲示板には漁協のお知らせ、台風シーズンの注意書き、公民館のイベント告知なんかが画鋲で留めてある。その隅に、段ボールで作った小さな箱がくくりつけてある。ガムテープで補強された、お世辞にもきれいとは言えない箱。正面に油性ペンで書いてある。
『なんでもやります 願い代行屋』
その下に小さく。
『依頼はこの箱に入れてね ハヤテ・リヒト・ザンタ』
「今日は——」
ハヤテが箱の蓋を開ける。中を覗き込む。
「一件!」
折りたたまれた紙を取り出して広げる。鉛筆書きの、丸っこい字。
「『うちの畑のトマトがカラスにやられてます。なんとかしてください。よしこ』——よしこばあちゃんだ」
「先週もカラス対策やったじゃん」リヒトが眼鏡の位置を直しながら言った。ノートを開いて先週の記録を確認している。「ネットを張ったのに、また?」
「ネットの下から入ってるんだと思う」ザンタが言った。しゃがんで地面のアリを観察しながら。「カラス頭いいからね。一回やり方覚えたら同じ手は通じないよ」
「じゃあ新しい手を考えないとな」ハヤテが腕まくりをした。「よし、行こう!」
三人が港から歩き出す。島のメインストリート——と言っても、車一台がやっと通れる細い道だ——を抜けて、よしこばあちゃんの畑に向かう。
これが「願い代行屋」の日常だった。
始めたのは三ヶ月前、夏休みが終わった頃。ハヤテが突然言い出した。「俺たち、島のためになんかやろうぜ」。リヒトは「なんかって何だよ」と返し、ザンタは「いいね」と即答した。
具体的に何をするかは決まらなかった。でもハヤテが段ボールで箱を作って、港の掲示板に取り付けて、「なんでもやります」と書いた。リヒトは「なんでもって言い過ぎだろ」と文句を言いながらも、依頼管理用のノートを用意した。ザンタは箱にどんぐりの絵を描いた。意味はないらしい。
最初の依頼は、漁師の源さんからだった。「網の繕いを手伝ってほしい」。三人は源さんの作業場で半日かけて網を直した。下手くそだったけど、源さんは笑って「助かったよ」と言ってくれた。
それから依頼は少しずつ増えた。おばあちゃんの買い出し代行。神社の落ち葉掃き。郵便局のおじさんの猫の捜索(結局、屋根の上にいた)。墓地の草むしり。公民館の窓拭き。
どれも小さな依頼だ。大人が本気を出せば三十分で終わるようなことばかり。でも島の人たちは、わざわざ箱に依頼を入れてくれた。三人がやってくると、お茶やお菓子を出して、「助かるねえ」と目を細めた。
本当は分かっている。この依頼は、大人たちからの贈り物だ。
三人が「島のためにやっている」と思えるように。三人がまだここにいる意味があると感じられるように。大人たちが、わざと頼んでくれている。
リヒトは多分それに気づいている。ハヤテは気づいていないふりをしている。ザンタは——ザンタは多分、そんなこと考えていない。ただ楽しいからやっている。
◇◇◇
よしこばあちゃんの畑は、島の東側の斜面にある。
海が見える。というより、島のどこからでも海は見える。見えないのは学校のトイレの中くらいだ。
「ここか——」
ハヤテが畑のネットをめくった。確かに、隅のほうに隙間ができている。地面との間に拳ひとつ分の空間。ここから入ったのだ。
「ペグが甘かったんだな」リヒトがしゃがんでネットの固定部分を調べる。「地面が雨で柔らかくなって、抜けてる」
「カラス除けの案もうひとつあるんだけどさ」ザンタが畑の周りを歩きながら言った。「テグスを張るのはどう? 透明の糸。カラスは羽に何か触れるの嫌がるから、上に何本か張っとけば近寄らない」
「お前なんでそんなこと知ってるんだよ」
「じいちゃんが言ってた」
ザンタの祖父は去年亡くなった。島で生まれ、島で育ち、島で死んだ人だった。ザンタの自然や動物の知識は、ほとんどがこの祖父から受け継いだものだ。
三人はネットを張り直し、ペグを深く打ち直し、テグスを追加した。ザンタが支柱を立てて、ハヤテが糸を引き、リヒトが間隔を測った。
よしこばあちゃんが麦茶とおにぎりを持ってきてくれた。
「ありがとねえ。うちの息子たちが本土にいるもんで、こういうのなかなか頼める人がいなくてさ」
「任せてください!」ハヤテがおにぎりを頬張りながら胸を叩く。「願い代行屋は、なんでもやりますから!」
「卒業するまでの期間限定だけどな」リヒトが付け足す。
その一言に、空気が少しだけ止まった。
よしこばあちゃんが笑った。笑ったけれど、目の奥が少しだけ揺れた。
「三ヶ月、たっぷりあるじゃないの」
「そうそう!」ハヤテがすぐに声を上げた。「まだまだ依頼受けますよ! どんどん出してくださいね!」
帰り道、三人は夕焼けの中を歩いた。
ザンタが道端のススキを一本抜いて、振り回しながら歩いている。ハヤテは両手を頭の後ろで組んで、空を見ている。リヒトは少し遅れて、ノートに今日の記録をつけている。
「なあ」
ハヤテが言った。
「なに」
「……なんでもない」
ハヤテは「卒業」とか「廃校」とか、そういう言葉を自分からは絶対に言わない。リヒトはそれを知っている。ザンタも、たぶん知っている。
三人の影が、夕日に長く伸びていた。島の道は狭いから、三人並ぶとちょうどいっぱいになる。
卒業まで、あと三ヶ月。
願い代行屋の依頼ボックスは、明日も港の掲示板にぶら下がっている。段ボールの箱。ガムテープで補強された、不格好な箱。でもこの島で一番大事な箱だと、三人は思っている。
少なくとも、あと三ヶ月は。
第二章 読めない手紙
次の朝、依頼ボックスに手紙が入っていた。
ハヤテが取り出す。いつもの折りたたまれた紙とは違う。封筒に入っている。白い封筒。表に何も書いていない。
「封筒って初めてじゃない?」
ハヤテが封を開ける。中から便箋が一枚。薄い水色の便箋で、端にちいさな花の模様が印刷されている。
三人で覗き込む。
文字が書いてある。鉛筆の字。でも——読みにくい。
丸っこいわけでも、達筆なわけでもない。一文字一文字がカクカクしていて、線がふるえている。力を入れて書こうとしているのに、思い通りに動かなかったような文字。
「……なんて書いてある?」
ハヤテが便箋を裏返したり、斜めにしたりしている。
リヒトが手を伸ばした。「貸して」
便箋を受け取って、目を細める。一文字ずつ、指でなぞるように読んでいく。
「——『この島に、ないものを、つくって』」
三人が黙った。
「この島にないものをつくって?」
ハヤテが繰り返す。
「それだけ。名前もない。住所もない」
リヒトが便箋をひっくり返す。裏は白紙だった。封筒にも差出人の記載はない。
「この島にないもの……」ザンタが呟いた。腕を組んで、本気で考えている。「ないもの? この島に?」
「いっぱいあるだろ」ハヤテが笑った。「コンビニとかファミレスとか映画館とか——」
「それを"つくって"って言われても」リヒトが眼鏡を押し上げる。「俺たちは小学生だぞ。建物を建てろって話か? これは依頼として成立してない。具体的じゃないと受けられない」
「でも、依頼ボックスに入ってたんだから依頼だろ」
「形式上はな。でも依頼には条件がある。誰が、何を、いつまでに。全部が欠けてる」
「お前、そういうとこあるよな。かたい」
「かたいんじゃなくて正確なんだ」
二人が言い合っている横で、ザンタは便箋を手に取っていた。じっと見つめている。文字を、ではない。文字の形を見ている。
「この字、すごく頑張って書いてる」
ハヤテとリヒトが口を閉じた。
「ふるえてるけど、丁寧なんだよ。一文字ずつ、ゆっくり書いてる。急いでない。時間をかけてる。この一行だけで、たぶんすごく疲れたと思う」
三人は便箋を見つめた。
カクカクした文字。不器用な線。でもザンタの言う通り、一文字一文字に力が込められている。投げやりに書いた字ではない。ふざけて書いた字でもない。
「……書きたくて、書いたんだな」
ハヤテが言った。声のトーンが変わっていた。さっきまでの軽さが消えている。
「依頼主、見つけようぜ」
リヒトは何も言わなかった。でもノートを開いて、便箋の特徴を書き始めた。水色の便箋。花柄。封筒は白。筆圧は弱いが丁寧。筆記具は鉛筆。
記録している時点で、リヒトはもう「受ける」と決めていた。
◇◇◇
「手がかりは三つ」
学校の教室——三人しかいない教室——の机を寄せて、リヒトが指を立てた。授業は午前中で終わる。先生も一人しかいない。午後は自習という名の自由時間だ。
「一つ目、便箋。これは本土のショッピングモールで売ってるやつだ。島の商店には置いてない。つまり依頼主は本土から取り寄せたか、誰かに買ってもらったか、ネットで注文したか」
「それ、手がかりになるの?」
「なる。島で本土の通販を使う人は限られてる。高齢者が多いこの島で、ネットで便箋を注文する人は少ない」
「二つ目は?」
「筆跡。この字は、書き慣れていない字じゃない。書きたいのに書けない字だ」
ザンタが頷いた。「そう。それ」
「子どもの字じゃない。大人——少なくとも中学生以上の文章力がある。でも手が思い通りに動かない」
「三つ目は?」
「依頼の内容そのものだ。『この島にないものをつくって』。これを書くってことは、島の外のことを知っている。島の外に"あるもの"を知っていて、この島に"ない"と感じている。でも自分では手に入れられない」
リヒトがノートにまとめた三つの条件を指で叩いた。
「本土の物品を入手できる手段がある。手が不自由。島の外のことを知っているが、自分では行けない。——この三つに当てはまる人を探す」
「島の人、全員で三十人だろ? すぐわかるんじゃね?」
「二十九人な。トメさん入院中。そこから俺たちと先生を引いて二十五人。さらに——」
「いや、そこまで計算しなくても」ハヤテが立ち上がった。「聞いて回ればいいだろ。走ってくる!」
「待て。いきなり聞き込みしたら依頼主に伝わる。匿名で出してるのには理由があるはずだ」
ハヤテが止まった。
「……確かに」
「まずは島の人の情報を整理する。誰が本土との通販をやってるか、体の不自由な人はいるか。聞き込みじゃなくて、俺たちが知ってることから絞る」
ザンタが窓の外を見ていた。教室の窓からは海が見える。その向こうに、島の高台がある。
「ねえ」
「なに」
「あの丘の上の家、誰が住んでるか知ってる?」
ハヤテとリヒトが顔を見合わせた。
「丘の上……? あそこは確か——」
「お母さんと女の人が住んでるよ。女の人、若い。でもあんまり外に出てこない。たまに窓から海見てるの見かける」
「お前、なんでそんなこと知ってるんだよ」
「山歩きしてるとき、上から見えるから」
リヒトがノートに書き加えた。丘の上の家。母親と若い女性。外出が少ない。
「あと、商店のユキばあちゃんが」ザンタが続けた。「ときどきあの家に届け物してるの見たことある。荷物、結構多い」
「通販の荷物か」
三人の視線が合った。
「——行ってみるか」
ハヤテの声は、もう軽くなかった。
第三章 島の地図
丘の上の家に行く前に、リヒトが言った。
「先にやることがある」
「何だよ、早く行こうぜ」
「依頼の内容を理解する。『この島にないもの』が何か、俺たちが分かってないと話にならない」
ハヤテは反論しかけて、やめた。リヒトが正しいことは、悔しいけど分かる。
「島を一周して、"ないもの"を全部書き出す。リストを作る。それから依頼主に会いに行く。準備なしで行っても何もできない」
「……わかった。じゃあ走ろう!」
「走らなくていい。島一周しても四キロだ」
「四キロなんか走ったほうが早いだろ」
「俺が書けない」
リヒトがノートとペンを掲げた。ハヤテが「ああ」と頷いた。
◇◇◇
三人は島を歩いた。
港から時計回りに。まず港の周辺。定期船の待合所がある。木造の小さな建物で、中にベンチが三つ。自動販売機はない。
「自販機がない」リヒトが書く。
「売店もない」ハヤテが付け足す。
「船は一日三本だけだね」ザンタが言った。「朝と昼と夕方」
港を過ぎると、島の南側。漁師の源さんの家と作業場がある。その先にユキばあちゃんの商店。島で唯一の店。食料品、日用品、文房具。棚は少ないが、だいたいのものは揃う。ないものはユキばあちゃんが本土から取り寄せてくれる。
「コンビニがない」リヒトが書く。
「スーパーもない」
「本屋もない」
「あ、ユキばあちゃんとこに週刊誌はあるよ」ザンタが言った。
「本屋とは違うだろ」
さらに進む。小学校が見えてくる。木造二階建て。校庭は広いが、遊具は錆びたブランコと鉄棒だけ。桜の木が三本。春になると見事に咲く。
「塾がない」
「ゲームセンターがない」
「そもそもゲーセン行ったことある?」
「ない。でも、ないものリストだから」
島の西側。田んぼと畑が広がっている。よしこばあちゃんの畑もこのあたりだ。農道を歩いていると、猫が三匹、塀の上で昼寝をしていた。
「ファミレスがない」
「カフェがない」
「回転寿司がない」
「回転寿司は——まあ、ないな」
島の北側。ここは岩場が多い。海が荒い。灯台がある。昔は灯台守がいたらしいが、今は無人だ。
「カラオケがない」
「映画館がない」
「ボウリング場がない」
「美容室がない」
「タツさんが散髪してくれるじゃん」ザンタが言った。
「あれは床屋だろ。美容室とは違う」
「何が違うの?」
「……わかんないけど、違う」
島の東側。高台に向かう坂道がある。その上に、二軒の家が並んでいる。一軒は空き家。もう一軒に、明かりが灯っている。
三人は立ち止まった。
「あの家か」
「うん」ザンタが頷いた。「あの家」
坂道の途中から、島の全景が見える。小さな島だ。端から端まで見渡せる。港も、学校も、商店も、畑も、全部見える。
「リヒト、リスト、いくつになった」
リヒトがノートを数えた。
「——二十三」
「二十三個もないのか、この島」
「数えたらもっとある。信号機、エレベーター、エスカレーター、公園の遊具、ショッピングモール、ファストフード、病院——診療所はあるけど病院はない——図書館、プール、電車——」
「やめろよ」
ハヤテの声が少し硬かった。
「やめろよ、リヒト。そんなに数えんなよ」
リヒトはペンを止めた。ハヤテの顔を見た。
「——数えないと依頼に応えられないだろ」
「わかってる。わかってるけど——」
ハヤテは言葉を探していた。うまく見つからないらしい。唇を結んで、海を見た。
「なんか、嫌じゃん。自分の島の"ないもの"を数えるの」
ザンタが道端にしゃがんでいた。地面に生えている小さな花を見ている。名前も知らない雑草の花。白くて、ちいさい。
「ないものはいっぱいあるけどさ」
ザンタが言った。しゃがんだまま。
「あるものもいっぱいあるよ」
ハヤテとリヒトがザンタを見た。
ザンタは花を見ていた。それから空を見上げた。空は青くて、雲が高くて、トンビが一羽、円を描いていた。
「星がきれい。魚がうまい。おばあちゃんたちが優しい。猫が多い。海がどこからでも見える」
「それはリストに書かないのか」リヒトが聞いた。
「書く必要ある? もうあるのに」
リヒトは何か言いかけて、やめた。ノートに目を落として、「ないものリスト」の横に、小さく「あるものリスト」と書いた。何も書き込まなかった。書かなくても、三人とも知っていることだから。
◇◇◇
商店に寄った。
ユキばあちゃんは店番をしながらラジオを聴いていた。小さな木造の店で、棚には缶詰や調味料が並んでいる。レジは手動の古い型だ。
「ユキばあちゃん、丘の上の家のこと教えて」
ハヤテが単刀直入に聞いた。リヒトが「もう少し回りくどく聞けないのか」という目をしたが、ハヤテは気にしない。
ユキばあちゃんは少し驚いた顔をした。それからラジオの音量を下げた。
「丘の上? ああ、シゲさんとこね。シゲさんと、娘のナギちゃん」
「ナギちゃん?」
「高校生の女の子だよ。通信制ってやつに通ってる。体がね、生まれつき不自由なの。車椅子でね。シゲさんが一人で面倒見てる」
三人は黙って聞いていた。
「いい子だよ。おとなしくて、礼儀正しくて。でもあんまり外に出てこない。坂が急だからね、車椅子じゃ大変なんだよ。たまにシゲさんが押して降りてくるけど」
「島の外には?」
「ほとんど行かないんじゃないかねえ。船着き場までの道も段差が多いし、定期船もバリアフリーってわけじゃないし。シゲさんが病院に連れて行くときくらいじゃないかな」
リヒトがノートに書いている。ハヤテは拳を握っていた。ザンタは棚に並んだ缶詰を見つめていた。
「なんで急に丘の上のこと聞くの?」
「ちょっと、用事があって」
ハヤテの声が少しかすれていた。
ユキばあちゃんは三人の顔をじっと見て、それから微笑んだ。何かを察したのかもしれない。でも聞かなかった。代わりに、棚からチョコレートを三つ取って、三人に渡した。
「がんばりなね」
それだけ言った。
店を出て、三人は港のベンチに座った。チョコレートをかじりながら、海を見ていた。
「ナギって人だと思う?」ハヤテが聞いた。
「状況証拠は揃ってる」リヒトがノートを閉じた。「本土の通販を使える環境。手が不自由。島の外に出られない。外の世界を知っているのは——通信制の学校で、画面越しに見てるからだろう。同年代がどんな生活をしてるか、ネットで見えてしまう」
「見えるのに、行けない」ザンタが言った。
チョコレートの包み紙が、海風に飛ばされそうになった。ハヤテがぐしゃっと握った。
「行こう」
「丘の上に?」
「うん。明日、行こう」
リヒトが頷いた。ザンタも頷いた。
夕日が海に落ちていく。島に信号はないから、赤い光は空にしかない。三人のチョコレートで汚れた指が、夕焼けにオレンジ色に染まっていた。
第四章 ナギ
丘の上への坂道は、思った以上に急だった。
コンクリートで舗装されているが、ところどころひび割れて草が生えている。ガードレールはない。道幅は大人二人がすれ違えるくらい。
「これ、車椅子で降りるの大変だな」
ハヤテが息を切らしながら言った。元気なハヤテでも少し汗をかいている。リヒトは無言で坂を上っている。ザンタだけが平気な顔をしていた。山歩きで鍛えた足腰は伊達ではない。
坂を上りきると、二軒の家が並んでいた。手前は空き家。窓ガラスが割れていて、庭は草で埋まっている。奥の家には、小さな花壇があった。プランターにパンジーが咲いている。
玄関に、スロープが設置されていた。手作りらしい。木の板とブロックで組まれた、簡素だが丁寧なスロープ。
ハヤテがインターホンを押した。
少し間があって、ドアが開いた。五十代くらいの女性。エプロン姿で、手にタオルを持っている。
「はい?」
「あの、すみません。ぼくたち、島の小学校の——」
「ああ! 願い代行屋さん?」
女性の顔がぱっと明るくなった。
「知ってますよ。港のところに箱があるでしょう? 島のみんなの評判、聞いてます。えらいわねえ、小学生なのに」
「えへへ」ハヤテが照れる。リヒトが小さくため息をつく。
「あの、それで——ナギ……さん、に、ちょっとお話があって」
女性の表情が少し変わった。明るさが消えたわけではないが、何かを考えるような間があった。
「ナギに? ……どういうお話?」
「依頼のことで」
ハヤテはそれ以上詳しく言わなかった。リヒトが事前に「手紙のことは直接本人に聞け。親に先に言うな」と指示していた。
女性——シゲさんは、少し迷った顔をした。でも三人の顔を見て、ドアを大きく開けた。
「上がって。ナギの部屋、奥だから」
◇◇◇
廊下は広かった。車椅子が通れるように作られている。段差がない。ドアは引き戸。手すりが壁に沿って付いている。
奥の部屋の前で、シゲさんがノックした。
「ナギ、お客さんだよ。島の小学生の子たちが来てる」
少し間があった。
「……入って」
小さな声だった。高い声でも低い声でもない。静かな声。水面に石を落としたときの、最初の波紋のような声。
ドアが開いた。
部屋は明るかった。大きな窓があって、海が見える。島の全景が一望できる。港も、学校も、商店の屋根も。
窓際に、車椅子に座った女の子がいた。
長い黒髪。細い体。膝の上にタブレットが載っている。画面には通信制の授業の画面が映っていたらしく、慌ててタブレットを閉じた。
「こんにちは」
ナギが言った。微笑んでいる。穏やかな表情。でも目が泳いでいた。なぜ小学生が三人、自分の部屋に来たのか、わからないのだろう。
「こんにちは!」ハヤテが元気よく頭を下げた。「願い代行屋です!」
「あ……知ってる。港の掲示板の」
「ナギさん、ですよね。あの——」
ハヤテが懐から封筒を取り出した。あの白い封筒。水色の便箋が入っていた封筒。
「これ、書いたの、ナギさんですか」
ナギの表情が変わった。
微笑みが消えた。穏やかさが消えた。代わりに、凍りついたような顔になった。唇が引き結ばれて、手がタブレットを握りしめた。
「——どこで」
「依頼ボックスに入ってました」
沈黙。
ナギは封筒を見つめていた。三人を見ていなかった。封筒だけを見つめて、何かを考えて、それから——
「忘れて」
静かな声だった。さっきと同じトーンなのに、全然違う声に聞こえた。
「変なこと書いた。本気じゃないから。忘れてください」
「でも——」
「本気じゃないんです」
ナギは三人を見た。微笑んでいた。最初と同じ穏やかな微笑み。でもその下に何かが隠れていることが、三人にも分かった。
「わざわざ来てくれてありがとうございます。でも大丈夫です。忘れてください」
大丈夫。
その言葉を聞いた瞬間、ハヤテの胸の中で何かがざわついた。この島で何度も聞いた言葉。大丈夫。大丈夫だよ。大丈夫。自分だって使う。本当は大丈夫じゃないときに。
「あの——」
「ごめんなさい。今日は授業の続きがあるので」
ナギは車椅子を少し動かして、窓のほうを向いた。三人に背を向けた。背中は小さかった。
シゲさんが廊下に立っていた。心配そうな顔をしていた。でも何も言わなかった。
「……お邪魔しました」
リヒトが頭を下げた。ハヤテとザンタも頭を下げた。
玄関を出る前に、ザンタが振り返った。ナギの部屋の方向を見た。窓から海が見える部屋。島の全部が見える部屋。
見えるのに、行けない。
ザンタは黙ってスロープを降りた。
◇◇◇
坂道を下りながら、三人は黙っていた。
港が見えてきた頃、ハヤテが口を開いた。
「なんで——なんで本気じゃないなんて言うんだよ。あの手紙、本気で書いてるじゃん。ザンタだって言ってたろ、すごく頑張って書いてるって。あの字は——」
「本気だからだろ」
リヒトが静かに言った。
ハヤテが振り向いた。
「本気だから、"本気じゃない"って言ったんだ。本当にどうでもいいことなら、"忘れて"なんて言わない。取り消す必要がない」
ハヤテは何か言いかけて、口を閉じた。
「あの人は——本気で願って、本気で書いて、本気で出した。でも出した後に怖くなったんだ。叶わないかもしれない。叶えようとしてくれる人が来ても、結局無理だって言われるかもしれない。それなら最初からなかったことにしたほうが傷つかない」
「……リヒト」
「期待して裏切られるのが一番つらいんだよ。だから期待しないことにした。それが、あの"本気じゃない"だ」
リヒトの声は平坦だった。いつも通りの、感情を抑えた声。でもノートを持つ手が、少しだけ強く握られていた。
ザンタは海を見ていた。坂の途中から見える海は広くて、午後の光がきらきら反射していた。
「ナギさん、あの部屋から毎日これ見てるんだね」
「ああ」
「きれいだよね。海」
「ああ」
「でも毎日同じ景色だったら、きれいって思えなくなるのかな」
三人は港まで下りて、ベンチに座った。いつものベンチ。願い代行屋の箱が見える位置。
ハヤテが空を見上げた。
「やろう」
リヒトとザンタが、ハヤテを見た。
「あの人が"忘れて"って言っても、依頼ボックスに入ってた手紙は依頼だ。願い代行屋は、依頼を受けたら最後までやる。——やろうぜ」
リヒトは何も言わなかった。
ザンタが小さく笑った。
「うん」
リヒトがノートを開いた。新しいページに、ペンを走らせた。
『依頼番号十八 依頼主:ナギ 内容:この島にないものをつくる』
その下に、受理日の日付を書いた。
第五章 三人の夜
その夜、三人は浜辺にいた。
島の西側の小さな入り江。砂浜というほど広くはないが、岩場の間に砂が溜まった場所がある。三人の「秘密基地」だ。秘密基地といっても屋根があるわけではない。流木を組んでベンチを作って、上に板を渡しただけ。雨が降ったら使えない。でも三人はここが好きだった。
空には星が出ていた。島には街灯が少ないから、星がよく見える。天の川が端から端まで伸びている。本土では見えないらしい。リヒトが本で読んだと言っていた。
波の音だけが聞こえる。
「で、どうすんだ」
ハヤテが口火を切った。流木のベンチに座って、砂を靴の先で掘っている。
「"この島にないものをつくる"。受けるって決めた。それはいい。問題は、何を作るかだ」
リヒトがノートを開いた。昼間に作った「ないものリスト」のページ。
「リストは二十三項目ある。コンビニ、カフェ、カラオケ、映画館、美容室、本屋、ゲームセンター、ボウリング場、ファミレス——全部は無理だ。物理的にも時間的にも」
「全部じゃなくていい。でも——」ハヤテが立ち上がった。「いくつかなら作れるだろ! カフェなんか、机並べてコーヒー出せばそれっぽくなるし。カラオケだって、機材さえあれば——」
「だからそれが偽物だって言ってんだ」
リヒトの声が硬かった。
「段ボールの壁で教室仕切って"カフェです"って看板出して、それで何になる。本物のカフェを知ってる人にとっては、ただの子どもの遊びだ」
「遊びでいいだろ!」
「よくない」リヒトが立ち上がった。いつもの冷静さが少し崩れている。「あの人は——ナギさんは、"忘れて"って言ったんだ。期待して裏切られるのが怖いから取り消したんだ。そこに俺たちが中途半端な偽物を持っていったら、どうなる。"やっぱりこんなもんか"って思わせるだけだ。余計に傷つける」
「じゃあどうすんだよ! 何もしないのかよ!」
「何もしないとは言ってない。ただ、偽物を渡して満足するなって言ってんだ。渡す側の自己満足になったら意味がない」
二人の声が大きくなっていた。波の音よりも、星の下に響いていた。
ザンタは黙って座っていた。流木のベンチに寝そべって、星を見ていた。
「ザンタ、お前はどう思う」
ハヤテが振り向いた。ザンタは星を見たまま答えた。
「あの人が欲しいの、カフェとかカラオケとか、そういうのじゃない気がする」
「じゃあ何だよ」
ザンタは少し考えた。腕を頭の下に組んで、星を見ながら。
「手紙に"この島にないもの"って書いてあったよね。でもあの人、島にないものが何か、たぶん全部知ってるよ。スマホで見てるんだから。カフェがどんなものか、カラオケがどんなものか、映画館がどんなものか。知ってる。知ってて、"つくって"って書いた」
「だから——」
「でも本当に欲しいのは、建物じゃないと思う。建物なら"欲しい"って書くでしょ。"つくって"って書いたんだよ。つくるものなんだよ。形がないのかもしれない」
ハヤテとリヒトが黙った。
波の音。星の光。ザンタの声は静かだった。自分でもよくわかっていないまま、でも確信だけがある声だった。
「……わかんないけど、なんとなく」
ザンタはそれ以上言わなかった。
三人の間に沈黙が落ちた。長い沈黙。波が寄せて、返して、また寄せた。
ハヤテが座り直した。砂に棒で何か書いている。星明かりの下では読めない。
「——リヒトの言うことは分かる。偽物を渡して終わりにしたくない。ザンタの言うことも分かる。本当に欲しいのは建物じゃないのかもしれない」
ハヤテは棒を砂に突き立てた。
「でもさ、俺たちに考えてわかることなんか限界あるだろ。正解なんかわかんない。だったら、偽物でもいいからまず作ろうよ。偽物から始めて、本物にすればいい」
「偽物から始めて、本物にする?」
「そう。段ボールのカフェでもいい。手作りのカラオケでもいい。最初はハリボテでいい。でも、そこにあの人が来て、そこで何かが起きたら——それは偽物じゃなくなるだろ」
リヒトは黙っていた。ハヤテの言葉を反芻している顔だった。
「場所が本物かどうかじゃなくて、そこで過ごす時間が本物かどうかなんじゃないの。——俺はそう思う。間違ってるかもしんないけど」
ハヤテの声は、いつもの勢いとは違っていた。考えて、考えて、やっと出てきた言葉だった。
リヒトがため息をついた。長い、長いため息。
それからノートを開いた。
「……で、何から作る」
ハヤテの顔がぱっと明るくなった。
「マジ? やるの?」
「やらないとは言ってない。さっきから一度も」
「言ってたろ! 偽物だ偽物だって——」
「偽物を渡して終わりにするなって言っただけだ。作るのは最初から反対してない」
「え——ええ?」
ザンタが笑った。声を出して笑った。流木のベンチの上で体を丸めて、腹を抱えて笑った。
「なんで笑ってんだよ!」
「だって二人とも、同じこと言ってるのに喧嘩してるんだもん」
ハヤテがザンタの頭を小突いた。ザンタは笑いながら避けた。リヒトは眼鏡を外して拭いていた。レンズが曇っていた。海風のせいかもしれない。
「整理する」リヒトがペンを取った。「リストの中から、俺たちの手で"作れる"ものを選ぶ。場所は学校を使う。教室が余ってる。というかほぼ全部空いてる」
「何を作る?」
「ナギさんが一番見てるもの——同年代のSNSから推測する。カフェ、カラオケ、美容室。この三つは外せない。あと映画館」
「四つ?」
「教室が四つある。ちょうどいい。——ただし、俺たちだけじゃ無理だ」
「島の人に頼むか」
「頼む。一人じゃだめだ。全員に頼む」
ハヤテが拳を握った。
「よし。島じゅう巻き込むぞ」
ザンタが起き上がった。砂を払って、空を見上げた。
「ねえ、いつやるの」
「早いほうがいい。準備に——一週間か。来週の土曜日」
「一週間で四部屋作るの?」
「やればなんとかなる」
ハヤテの口癖が出た。でもこの夜ばかりは、その言葉が軽く聞こえなかった。
三人は立ち上がった。流木のベンチに、波の音を残して。
帰り道、リヒトが歩きながらノートに書いていた。企画書のようなものだ。タイトルは——
『この島にないものツアー 実施計画書』
「ツアーって」ハヤテが覗き込んで笑った。
「お前がネーミング考えると"爆裂大作戦"とかになるだろ。却下」
「爆裂大作戦、かっこいいじゃん」
「却下」
三人の笑い声が、夜の島に響いた。星が見ていた。波が聞いていた。島のどこかで、猫が鳴いた。
第六章 島じゅう巻き込み大作戦
翌朝から、三人は走り回った。
リヒトの実施計画書をもとに、島の大人たちに協力を頼んで回る。まずは漁師の源さん。
「カラオケ? うちにカラオケの機械あるぞ。古いけどな。演歌しか入ってないかもしれん」
「それ貸してください!」
「いいけど、何に使うんだ」
三人は説明した。全部ではない。「依頼を受けた」「島にないものを学校に作る」「来週の土曜にやる」。それだけ。依頼主がナギだとは言わなかった。
源さんは腕を組んで考えた。
「面白いことやるな。……まあ、機械は持ってけ。重いから運ぶの手伝ってやる」
次に、島唯一の理容師・タツさん。港の近くの自宅の一角で、月に数回だけ店を開いている。
「美容室? 俺のは床屋だぞ」
「でも髪は切れますよね?」
「切れるけど、パーマとかカラーとか、そういうのは——」
「カラーやりたいんです。一日で落ちるやつ」
「カラースプレーか。それなら本土で買えるけど——誰の髪をやるんだ?」
「当日来てくれれば分かります」
タツさんは怪訝な顔をした。でも「まあいいか」と言った。島の大人は、三人のやることに対して最終的には「まあいいか」と言ってくれる。
問題は、カフェだった。
コーヒーを淹れて、ケーキを出す。それくらいなら三人でもできる。でも「カフェ」という空間を作るには、雰囲気が必要だ。机と椅子だけではカフェにならない。
「誰か、料理が上手い人に頼みたい」
「島で一番料理が上手いのはユキばあちゃんだろ」
三人は商店に向かった。
◇◇◇
ユキばあちゃんは、話を聞いて黙った。
長い沈黙だった。三人は少し不安になった。今までの大人たちは、割とすぐに「いいよ」と言ってくれた。でもユキばあちゃんは黙っている。
「——ナギちゃんでしょう」
三人がびくっとした。
「依頼主。ナギちゃんだろう?」
「なんで——」
「この島で、"島にないもの"が欲しいって一番思ってるのは、あの子だよ。分かるよ、そのくらい」
ユキばあちゃんは棚の下からコーヒー豆の袋を取り出した。
「あの子のお母さん——シゲさんにはね、昔から世話になってるんだよ。ナギちゃんが小さい頃、シゲさん一人で育ててて。旦那さんは早くに亡くなったからね。島のみんなで助けたけど、一番大変だったのはシゲさんだ」
ユキばあちゃんはコーヒー豆の封を切って、匂いを嗅いだ。
「ナギちゃんはね、小さい頃は笑う子だったんだよ。よく笑って、よく話して。でもだんだん——大きくなるにつれて、静かになった。自分と周りが違うってことが、分かってきたんだろうね」
三人は黙って聞いていた。
「カフェの担当? やるよ。コーヒーとケーキ。ケーキは前日に焼く。スポンジケーキでいいかい?」
「はい!」
「で、美容室もやるんだろう? カラーもやるって?」
「はい、タツさんに頼みました。一日で落ちるカラースプレーで。ピンクとかパープルとか、いろいろ色があるんですよ」
「ピンク髪ねえ」ユキばあちゃんが棚からコーヒーフィルターを取り出しながら、何気なく言った。「ピンク髪なんて、魔法でも使えそうだねえ」
「そうなんですよ。シューッてやるだけで——」
「ふうん。便利な世の中だね」
それだけだった。ユキばあちゃんはそれ以上何も言わず、コーヒー豆の保存方法について話し始めた。三人は特に気に留めなかった。
しかしその夜、ユキばあちゃんは一人でタツさんの家を訪ねていた。
「タツさん、一つお願いがあるんだけどね」
「なんだい、ユキさん」
「前日に、時間もらえるかい。あの子たちには内緒で」
タツさんは少し考えて、それからユキばあちゃんの顔をじっと見た。
「……いいのかい?」
「いいんだよ。七十八年生きてきたんだから、これくらいやったっていいだろう」
タツさんが笑った。ユキばあちゃんも笑った。二人の間で、何が決まったのかは——まだ誰も知らない。
ユキばあちゃんが動いたことで——まだ誰も知らないところで——島の空気が変わり始めていた。
翌日、よしこばあちゃんが「体育館に敷くシートなら貸すよ」と言い出した。農家のケンさんが「プロジェクターなら公民館にあるぞ」と教えてくれた。郵便局のおじさんが「スクリーン代わりに白いシーツ持ってくよ」と言った。
誰かが動くと、次の誰かが動く。島はそういう場所だった。全員の顔が見える。全員の事情が分かる。だから一人が「やる」と言えば、伝染する。
リヒトのノートに協力者リストが埋まっていく。
源さん——カラオケ機材提供・搬入手伝い
タツさん——美容室担当・カラースプレー手配
ユキばあちゃん——カフェ担当・ケーキ・コーヒー
よしこばあちゃん——シート提供
ケンさん——プロジェクター
郵便局のおじさん——スクリーン用シーツ
先生——学校の鍵と許可
先生にはリヒトが正式に企画書を提出した。先生は読んで、眼鏡の奥の目を細めて、「いいよ」と言った。それから「手伝おうか」と聞いた。リヒトは「大丈夫です」と答えた。先生は少し寂しそうに笑って、鍵を渡した。
◇◇◇
準備は放課後に進めた。
一年一組の教室がカフェになる。机を壁際に寄せて、中央にテーブルを二つ。ザンタが山から取ってきた野花を、ジャムの空き瓶に挿して飾った。黒板にハヤテがチョークで「島カフェ」と書いた。下手な字だが、勢いがあった。
一年二組がカラオケ。源さんのカラオケ機材を運び込む。テレビは学校の視聴覚室から借りた。マイクは二本。ハヤテが新しい曲を入れるために、源さんの機械の型番を調べて、対応する追加曲のカードを本土から取り寄せた。翌日届いた。リヒトが「よく一日で届いたな」と感心した。ハヤテは「お急ぎ便ってやつ」と胸を張った。
理科室が美容室。タツさんが椅子を一脚持ち込んだ。鏡は家庭科室の姿見を運んだ。棚にドライヤー、コテ、ブラシ、カラースプレーが並ぶ。ピンク、パープル、ブルー。一日で落ちるタイプ。
体育館が映画館。プロジェクターをステージの上に設置し、白いシーツを壁に張った。ケンさんが「映画は何を流すんだ」と聞いた。三人は考えていなかった。
「ナギさんが見たい映画、何だろう」
「聞けないだろ。サプライズなんだから」
「じゃあ——笑えるやつがいい」ザンタが言った。「泣けるやつより、笑えるやつ」
リヒトが何本か候補を出して、三人で話し合って決めた。
そして廊下に、もうひとつ。
リヒトが模造紙を壁に貼った。ピンクの画用紙で枠を作り、星やハートを切り抜いて貼り付けた。ハヤテが三脚と学校のデジカメを用意した。ザンタが百均のキラキラシールを——これもお急ぎ便で——取り寄せた。
プリクラ風の写真ブース。
「これ、ナギさん喜ぶかな」
「わかんない。でもSNSでプリクラの写真いっぱい流れてくるって、ユキばあちゃんが言ってた」
「じゃあ、作る意味はある」
◇◇◇
金曜日の夜。準備が終わった。
三人は教室を一つずつ見て回った。カフェ、カラオケ、美容室、映画館、プリクラブース。手作りで、不格好で、プロが見たら笑うかもしれない。でも三人と島の人たちが、一週間かけて作った空間だった。
最後に校庭に出た。月が出ていた。校舎が月明かりに照らされていた。
「明日か」
ハヤテが言った。
「明日だな」
リヒトが言った。
「明日だね」
ザンタが言った。
それから、リヒトが小さな声で言った。
「これが、最後の依頼だな」
ハヤテが振り向いた。リヒトは校舎を見上げていた。
「依頼番号十八。これが終わったら——次の依頼を受ける前に、卒業が来る」
ハヤテは何も言わなかった。言えなかった。
ザンタが校庭の真ん中に立って、両腕を広げた。月に向かって。
「最後なら、最高のやつにしよう」
ハヤテが笑った。リヒトも——ほんの少し——笑った。
「ああ」
「おう」
三人の影が、月明かりの校庭に伸びていた。明日のために。最後の依頼のために。
第七章 この島にないもの
土曜日の朝、シゲさんが車椅子を押して坂道を下りてきた。
ナギは黙っていた。三人から「学校に来てほしい」という手紙を受け取ったのは二日前だ。断ろうとした。でもシゲさんが「行ってみたら?」と言った。ナギは「別にいいけど」と答えた。本気じゃない声で。
校門の前に三人が立っていた。
「いらっしゃいませ!」
ハヤテが大声で言った。満面の笑み。リヒトが「声がでかい」と呟き、ザンタが手を振った。
ナギは三人を見上げた。車椅子から。この前、「忘れて」と言った相手だ。気まずさと、少しの怒りと、それよりも大きな——何だろう。期待、ではない。期待はとっくに捨てたはずだ。でも、ここに来てしまった。
「何をするの」
「ツアーです」リヒトが答えた。「"この島にないものツアー"。本日限りの特別企画」
「……頼んでないんだけど」
「依頼ボックスに入ってました」ハヤテが言った。にっこり笑って。「願い代行屋は、受けた依頼は最後までやります」
ナギは何か言いかけて、やめた。シゲさんが後ろで微笑んでいた。
「——好きにすれば」
前に来たときと同じ言葉。でも今日の声には、ほんの少しだけ、柔らかさがあった。
◇◇◇
最初は一年一組。ドアに手書きの看板が貼ってある。
『島カフェ OPEN』
ドアを開けた瞬間、コーヒーの匂いがした。
教室が変わっていた。机を並べ替えて作ったテーブルが二つ。ジャムの瓶に野花が挿してある。黒板には「島カフェ」とチョークで書いてあり、その下にメニューが書いてある。
『コーヒー ケーキ 笑顔 ——ぜんぶ無料』
カウンター代わりの教卓の向こうに、エプロン姿のユキばあちゃんが立っていた。帽子をかぶっている。ニット帽。室内なのに。
「いらっしゃい、ナギちゃん。座って座って」
ザンタが椅子を引いて、車椅子が入れるスペースを作った。ナギはテーブルの前についた。
ユキばあちゃんがコーヒーを淹れ始めた。ドリッパーにフィルターを敷いて、豆を入れて、お湯を細く注ぐ。湯気が上がる。教室にコーヒーの匂いが広がっていく。
「カフェのコーヒー、飲んだことある?」
ユキばあちゃんが聞いた。
「……ない」
「私もないよ。でもね、豆はネットで評判のやつを取り寄せたから。味は本物のはず」
黒板の下に、小さなテーブルが並んでいた。その上に、容器がいくつも並べてある。
「今日は特別サービス。カスタムできるよ」
リヒトが説明した。教卓の上のラミネートされたメニュー表を指差す。手書きの、丁寧な字。リヒトの字だ。
『島カフェ カスタムメニュー』
『トッピング:ホイップクリーム / チョコソース / はちみつ / シナモン / キャラメルソース』
「本物のカフェって、自分で好きなの選んでカスタムできるんだって」ハヤテが言った。「ネットで調べた」
「トッピング、島にあったの?」
「はちみつはザンタん家のやつ」
「じいちゃんが飼ってたミツバチの」ザンタが言った。
「チョコソースとキャラメルソースはお急ぎ便。シナモンはユキばあちゃんの棚にあった」
「お菓子作り用に買ってあったんだけどね、出番がなくてね」ユキばあちゃんが笑った。
白いカップにコーヒーが注がれた。ナギの前に置かれる。
「好きなの、選んでごらん」
ナギは並んだトッピングを見つめた。ホイップクリーム、チョコソース、はちみつ、シナモン、キャラメルソース。選ぶ。自分で選ぶ。それだけのことなのに、少しどきどきしている顔をしていた。
「……ホイップクリームと、キャラメルソースで」
「お、甘党だ」ハヤテが笑った。
ユキばあちゃんがホイップクリームを絞って、その上にキャラメルソースをかけた。白と茶色の渦巻き。
「あとね」ユキばあちゃんが空の白いカップを一つ、教卓の上に置いた。「本物のカフェだと、店員さんがカップにメッセージを書いてくれるんだって」
「メッセージ?」
「島カフェでは、店員が三人いるからね。三人で書いてあげな」
ユキばあちゃんがカラーペンのセットを出した。ハヤテが赤を取った。リヒトが青を取った。ザンタは迷って、緑を選んだ。
「ナギさんのカップに、店員からメッセージを書きます!」ハヤテが白いカップを掴んだ。迷わずに、赤い太い字で書いた。
『また来てね!!!』
ビックリマークが三つ。ハヤテらしかった。
リヒトがカップを受け取って、青い小さく丁寧な字で書き足した。
『本日のおすすめ:全部』
「おすすめ全部って」ナギが少し笑った。
「全部おすすめなんだから仕方ない」
ザンタが最後にカップを受け取った。余白に、緑のペンで小さな絵を描いた。太陽と海と、丸い何か。
「これ何?」ハヤテが覗き込んだ。
「島」
「島に見えない」
「島だよ」
三人のメッセージが書かれたカップが、ナギの前に置かれた。赤と青と緑。ユキばあちゃんがそこにコーヒーを注いだ。ナギはカップをゆっくり回して、三人が書いたものを全部読んだ。ザンタの絵のところで、少し長く止まった。
「好きなの、選んでごらん」
ナギは並んだトッピングを見つめた。ホイップクリーム、チョコソース、はちみつ、シナモン、キャラメルソース。選ぶ。自分で選ぶ。それだけのことなのに、少しどきどきしている顔をしていた。
「……ホイップクリームと、キャラメルソースで」
「お、甘党だ」ハヤテが笑った。
ユキばあちゃんがホイップクリームを絞って、その上にキャラメルソースをかけた。白と茶色の渦巻き。
ナギがカップを両手で包んだ。三人のメッセージが描かれたカップ。一口飲んだ。
「……苦い。でも甘い。不思議」
「大人の味ってやつだね」ユキばあちゃんが嬉しそうに笑った。
「さて、次はケーキだけど——」
ユキばあちゃんが教卓の下から大きな丸い皿を出した。上にスポンジケーキが載っている。素朴な、何も飾りのないスポンジケーキ。
「これは?」
「これはね、半完成品」
ハヤテが横からボウルを持ってきた。中にホイップクリーム。リヒトがいちごの入ったパックを持ってきた。ザンタがチョコペンとカラースプレーを並べた。
「ここからは、お客さんの仕事です」
ハヤテがにっと笑った。
「え——私が?」
「カフェって、ケーキを選ぶだけじゃなくて、自分で作るのもあるんだよ」
「それはカフェじゃなくて——」
「島カフェです。ルールは俺たちが決めます」
ナギは困った顔をした。三人とユキばあちゃんが見ている。
「……手、あんまり上手く動かないんだけど」
「大丈夫、大丈夫」ザンタが言った。「ケーキのデコレーションに上手いも下手もないよ」
ナギは少し迷って、それからクリームのボウルに手を伸ばした。ヘラを握る。指が少し震えている。クリームをすくって、スポンジの上に載せる。
はみ出た。盛大にはみ出た。
「あ——」
「いいよいいよ、そのままそのまま!」ハヤテが声を上げる。
ナギはクリームを広げようとした。でもヘラの動きが安定しなくて、ケーキの表面がでこぼこになった。いちごを載せる。一つ、二つ。三つ目が転がって落ちそうになった。ザンタがさっと受け止めて、もう一度載せた。
チョコペンを握る。何か書こうとしている。カクカクした線。ゆっくり、ゆっくり。
——あの手紙と同じ字だった。同じ不器用さで、同じ丁寧さで。
ケーキの上に文字が書かれた。
『ありがとう』
傾いていて、線が震えていて、「う」の字がはみ出ている。でも読める。
三人は黙って見ていた。
ナギがチョコペンを置いた。自分のケーキを見つめた。クリームがはみ出て、いちごが傾いて、チョコの字がカクカクしている。
「……ぐちゃぐちゃ」
「うまいじゃん」ハヤテが言った。
「うまくない」
「本物のカフェではやらないだろうな」リヒトが言った。
ナギが少し笑った。初めて——この日、初めて笑った。
「本物のカフェより、いいかも」
四人とユキばあちゃんで、ケーキを食べた。ナギのケーキは見た目がぐちゃぐちゃだったけど、味は甘くて、柔らかくて、温かかった。
◇◇◇
次は一年二組。ドアに『カラオケ 島ルーム』と書いてある。
中に入ると、教室の前方にテレビとカラオケ機材がセットされていた。源さんの機材だ。年季が入っている。マイクが二本、テレビの横に置いてある。
「カラオケも初めて?」ハヤテが聞いた。
「……うん」
「じゃあ、まず見本を見せます!」
「見本?」
ハヤテがリヒトとザンタに目配せした。三人がテレビの前に並ぶ。リヒトが渋い顔をしている。
「俺は歌うだけでいいだろ」
「だめ。踊る。練習したろ」
「三日しか練習してない」
「三日もやったなら大丈夫だろ」
ハヤテがカラオケの画面を操作した。曲を選ぶ。今、一番流行っている曲。お急ぎ便で取り寄せた追加曲のカードに入っていた一曲。
イントロが流れ始めた。
三人が踊り始めた。
ハヤテがセンター。腕を振って、ステップを踏んで、サビでは指を突き出す。動きは大きい。元気はある。でもリズムが時々ずれる。気にしない。気にしたら負けだと言わんばかりに、全力で踊る。
リヒトが右側。腕の振りが小さい。足の動きがぎこちない。顔が赤い。でも——ちゃんと振付を覚えている。三日間で覚えたのだ。正確に、几帳面に。動きは硬いが、一つも間違えていない。
ザンタが左側。振付を完全に無視している。音楽に合わせて自由に体を動かしている。回転する。ジャンプする。床に手をつく。元の振付とは全く違う動きだが、妙に楽しそうだ。楽しいから動いている。それだけ。
ナギは最初、呆然としていた。
口が半開きになっている。目が丸い。車椅子の上で固まっている。
ハヤテが歌いながら踊る。声が裏返る。気にしない。リヒトが小声で歌っている。聞こえないくらいの声で。でも口は動いている。ザンタは歌っていない。代わりに口笛を吹いている。振付はますます自由になっている。
ナギの肩が震え始めた。
笑っている。
声は出ていない。でも肩が震えて、口元が歪んで、目が細くなっている。
サビに入った。三人が声を揃える——揃っていない。全然揃っていない。ハヤテの声がでかすぎて、リヒトの声が聞こえない。ザンタは口笛だ。
ナギが吹き出した。
「なにそれ——」
声が出た。笑い声が出た。
三人は歌い続けた。踊り続けた。二番に入って、ハヤテの動きがさらに大きくなる。リヒトが眼鏡を直しながら踊る。ザンタがハヤテの周りをぐるぐる回り始める。
教室の窓が開いていた。外から、手拍子が聞こえてきた。源さんだ。窓の外に立って、手を叩いている。よしこばあちゃんもいる。郵便局のおじさんもいる。いつの間にか、窓の外に島の人たちが集まっていた。
「おい、俺にも歌わせろ!」
源さんが窓から身を乗り出した。
「源さん、まだ三人のターン——」
「いいから!」
源さんが教室に入ってきた。マイクを一本つかむ。カラオケの画面を操作して——演歌を入れた。
イントロが変わった。さっきまでの流行曲から、いきなり演歌。源さんが腹の底から声を出す。こぶしを効かせて、目を閉じて、マイクを握りしめて。上手い。上手いのだが、選曲が自由すぎる。
ナギが笑った。声を出して。お腹を抱えて。涙が出るくらい。
「やめて——お腹痛い——」
車椅子の上で体を折り曲げて、笑いが止まらない。ハヤテも笑っている。リヒトも笑っている。ザンタは源さんの演歌に合わせて独自のダンスを踊っている。窓の外の手拍子が大きくなる。
ザンタがナギのそばに来た。マイクをそっと差し出した。
「一緒に歌おう」
「無理無理無理——」
「大丈夫、誰も上手くないから」
ナギはマイクを見つめた。ザンタの手を見つめた。それから、震える手でマイクを受け取った。
「……何歌えばいいの」
「好きな曲、ある?」
ナギが小さな声で曲名を言った。リヒトが画面を操作して、曲を入れた。
イントロが流れた。ナギが歌い始めた。
小さな声だった。マイクを通しても聞こえるか聞こえないかくらいの声。でも歌っていた。少しずつ、少しずつ、声が大きくなった。
三人はナギの横で手拍子をしていた。源さんは窓際に下がって、腕を組んで聞いていた。
教室に、ナギの歌声が響いていた。上手くはない。声が震えている。でも、歌っていた。この島で初めて、カラオケで、歌っていた。
◇◇◇
理科室の前に、手書きの看板。
『ビューティーサロン 島スタイル』
中に入ると、実験台の上に鏡が置いてあった。家庭科室から運んできた姿見が壁に立てかけてある。タツさんが椅子の位置を調整していた。棚にドライヤー、コテ、ブラシ、カラースプレーが並んでいる。ピンク、パープル、ブルー。
「いらっしゃい」
タツさんが笑った。島の理容師。普段は漁師のおじさんたちの髪を刈っている人だ。
「どうしたい?」
ナギは鏡の前に車椅子をつけた。鏡に映る自分の顔。長い黒髪。いつもの自分。
「……普通でいい」
「普通じゃつまんないだろ!」
ハヤテが横から飛び出してきた。リヒトがスマホの画面をナギに見せた。事前に調べてきた髪型の画像。ピンク髪、コテで巻いた巻き髪、ギャル風のスタイリング。
「え——」
「こういうの、どう?」
「無理でしょ。こんなの——似合わない」
「やってみなきゃわかんないじゃん」ハヤテが言った。
「でも——」
ナギが言いかけたとき、理科室のドアが開いた。
ユキばあちゃんが入ってきた。ニット帽をかぶったまま。
「ナギちゃん、一つ見せたいものがあるんだけどね」
ユキばあちゃんがニット帽に手をかけた。
取った。
教室が静まった。
ユキばあちゃんの髪が——ピンクだった。
鮮やかなピンク。白髪交じりの、七十八年間育ててきた髪が、鮮やかなピンクに染まっていた。肩にかかるくらいの長さの髪が、ピンク色に光っている。
三人が固まった。ナギも固まった。タツさんだけが、にやにやしていた。知っていたのだ。
「ユキばあちゃん——!?」ハヤテが叫んだ。
「魔法は使えなかったけどね」ユキばあちゃんが照れくさそうに笑った。「スプレーってやつで十分だったよ。タツさんに昨日やってもらったんだ。——どうかね、似合うかい?」
ユキばあちゃんがくるりと回った。小さな体が、ピンクの髪を揺らして回った。
ナギが目を見開いた。口が開いている。何も言えないまま、ユキばあちゃんを見つめている。
ハヤテが吹き出した。リヒトが眼鏡の奥の目を丸くした。ザンタが「おー」と声を上げた。
ナギが——笑った。吹き出すように。目に涙が浮かぶくらい。
「ユキばあちゃん——なにそれ——」
「どう? いけてる?」
「いけてる——いけてるよ——」
ナギは笑いながら、目を拭った。笑いすぎて涙が出たのか、別の理由か、本人にもわからなかっただろう。
「じゃあ、私も」
ナギが言った。
自分で言ったことに、自分で少し驚いた顔をしていた。
「ピンクで。お願いします」
タツさんが頷いた。カラースプレーを手に取った。
「一日で落ちるやつだから、安心してね」
スプレーがシューッと音を立てた。ナギの黒髪にピンクの色が乗っていく。少しずつ、少しずつ。黒がピンクに変わっていく。
それからコテ。タツさんが慎重に毛先を巻いていく。ナギの髪がくるくると巻かれて、ふわふわになっていく。
リヒトがスマホの画像を見せながら、「もう少し内巻きに」「前髪はこのくらい」と指示を出している。いつの間にかスタイリングのディレクターになっていた。
十五分ほどで完成した。
タツさんが椅子を鏡の正面に向けた。
「はい、どうぞ」
ナギが鏡を見た。
ピンク髪。巻き髪。頬の横で揺れるカール。見たことのない自分が、鏡の中にいた。
ナギは黙っていた。長い間、黙って鏡を見ていた。
「……誰、これ」
小さな声だった。震えていた。
「ナギだよ」
ザンタが言った。当たり前のことを言うように。
ナギが鏡の中の自分をもう一度見た。目が赤くなっていた。泣いてはいない。でも泣きそうな顔で——笑っていた。
「……かわいい」
自分のことを、自分でそう言ったのは、たぶん初めてだった。
◇◇◇
廊下に出ると、壁に大きな模造紙が貼ってあった。
ピンクの画用紙で枠が作ってある。枠の周りに、星やハートが手描きで散りばめてある。ハヤテが描いた星は少し歪んでいて、リヒトが描いたハートはきっちり左右対称で、ザンタが描いた花は何の花かわからないが妙に生き生きしていた。
模造紙の下に、三脚にセットされたデジカメ。
「最後にもう一個あるんだ」リヒトが言った。
「プリクラ——って知ってる?」
「知ってる。写真に落書きとかシールとか貼るやつ……でしょ?」
「うちの島バージョン。手作りだけど」
ナギは模造紙を見上げた。ピンクの枠。星。ハート。手描きの装飾。本物のプリクラとは全然違う。でも三人が作ったことはすぐにわかった。
「ここに並んで」ハヤテがナギの車椅子を模造紙の前に押した。「はい、みんな集合!」
ザンタがナギの隣にすっと入った。ハヤテが反対側に立った。リヒトがタイマーをセットして、走って戻ってきた。
「いや待って、心の準備が——」
「3、2、1!」
シャッターが切れた。ナギは目を開いたまま固まっていた。
「もう一枚!」
今度はザンタがピースをした。ハヤテがジャンプした——シャッターのタイミングとずれて、着地した瞬間が撮れた。リヒトは腕を組んでいるが、ちゃんとカメラを見ている。
「もう一枚!」
三枚目。ナギが笑った。小さく、でも確かに。ピンクの髪が揺れて、目が細くなって。
リヒトがカメラをパソコンに繋いだ。先生の許可を得て使っている職員室のプリンター。画像を取り込んで、事前に作っておいたフレームのテンプレートに嵌め込む。
印刷。
出てきた写真には、ピンクの枠の中に四人が映っていた。フレームの上に文字がある。
『願い代行屋 × ナギ この島にないものツアー記念』
日付と、小さな星のイラスト。
「シール、貼る?」
ザンタがキラキラのシールの袋を開けた。百均で取り寄せたやつ。星、ハート、リボン、猫、虹。
ナギがシールを手に取った。不器用な指で、台紙から剥がす。少し手間取る。でもちゃんと剥がせた。写真のフレームの余白に貼る。星のシール。少し斜めになった。
ハヤテが猫のシールを貼った。ザンタが虹を貼った。リヒトは「俺はいい」と言ったが、ナギが「貼って」と言ったので、小さなハートのシールを隅に貼った。
写真の中の四人。ピンク髪のギャル風の女子高生と、日焼けした小学生三人。不釣り合いで、でたらめで、でも全員が笑っている。
ナギが写真を持つ手が、少し震えていた。
「……これ、もらっていい?」
「当たり前じゃん。お客さんの分」
実は四枚印刷してあった。ナギの分と、三人それぞれの分。リヒトが最初からそうするつもりで、四枚分の用紙を用意していた。
ナギは写真を膝の上に置いて、しばらく見つめていた。ピンク髪の自分と、三人の小学生。キラキラのシール。手描きの星とハート。
何も言わなかった。何も言わなくても、指先が写真の縁を優しくなぞっていた。
◇◇◇
最後は体育館だった。
入口にはよしこばあちゃんのシートが敷いてあった。その上にパイプ椅子が並んでいる。四脚。ステージの上にプロジェクターが置いてあり、壁に張った白いシーツに向いている。
『島シネマ 本日上映』
黒板に書かれたプログラム。映画のタイトル。笑えるやつ。三人で選んだ映画。
ナギの車椅子をパイプ椅子の隣につけた。ハヤテが左、ザンタが右、リヒトがプロジェクターを操作してから一つ空けた隣に座った。
後ろの席に、ユキばあちゃんが座っていた。ピンク髪のまま。帽子はもうかぶっていない。
体育館の照明が消えた。
プロジェクターの光がシーツの上に映像を映し出した。白いシーツだからスクリーンとは違う。しわがあって、少し歪んでいる。でも映画は映っていた。
笑えるシーンで、ハヤテが声を出して笑った。ザンタも笑った。リヒトは鼻で笑った。ナギも笑った。体育館に笑い声が響いた。広い体育館に四人の笑い声は小さかったけど、よく響いた。
映画の中盤。ナギの笑い声が止まった。
泣いていた。
映画のせいではなかった。画面では主人公たちが騒いでいる。笑えるシーンが続いている。でもナギは泣いていた。
声は出さなかった。涙だけが頬を伝っていた。暗い体育館の中で、プロジェクターの光がナギの頬を照らして、涙が光った。
ハヤテが気づいた。何か言おうとして、やめた。
リヒトも気づいていた。眼鏡の奥の目が、少しだけ揺れた。
ザンタは映画を見ていた。でもナギの隣の手すりに、自分の手をそっと置いた。触れてはいない。でもそこにある。同じ空間に、同じ暗闇の中に。
映画が終わった。エンドロールが流れた。プロジェクターの光が白いシーツの上を文字が流れていく。
誰も立たなかった。エンドロールが終わるまで、四人は座っていた。
◇◇◇
体育館を出ると、夕日だった。
校庭がオレンジ色に染まっていた。空が赤くて、海がきらきらして、校舎の影が長く伸びていた。
ナギの車椅子を校庭の真ん中まで押した。三人がその周りに立った。
島の全景が見えた。港も、商店も、畑も、漁師の家も。ナギの家がある丘も見えた。夕日に照らされて、全部がオレンジ色だった。
ナギが口を開いた。
「……ありがとう」
小さな声だった。でも三人には聞こえた。
「この島にないもの、たくさんあると思ってた」
間があった。長い間。夕日が海に近づいていく。
「全部あった。形が違うだけだった」
ハヤテが何か言おうとした。でも喉が詰まって、言葉が出なかった。
リヒトは黙っていた。ノートもペンも持っていなかった。今日だけは、記録しなかった。
ザンタが校庭の地面を見ていた。夕日で影が長い。四つの影が校庭に伸びていた。三人分と、車椅子一台分。
「カフェはなくても」ナギが続けた。声が震えていたけど、笑っていた。「コーヒーを淹れてくれる人がいた。カラオケはなくても、一緒に笑える人がいた。美容室はなくても——」
ナギはピンクの髪の毛先に触れた。
「こんなふうにしてくれる人がいた」
夕日が海に沈んでいく。空がオレンジから紫に変わっていく。
「ずっと、ないものばっかり数えてた。スマホで、他の人が持ってるものを見て、自分にはないって思ってた。でも——」
ナギが膝の上の写真を見た。四人の写真。キラキラのシール。手描きの星。
「ここにしかないものが、あった」
ハヤテが鼻をすすった。泣いてないぞ、と言いたそうな顔で、でも目が赤かった。
リヒトが眼鏡を外して拭いた。海風のせいだ、と言いたそうな顔で。
ザンタは泣いていなかった。ただ微笑んでいた。最初からわかっていたような顔で。
夕日が沈んだ。空に一番星が光った。
四つの影が消えて、代わりに星の光が校庭を照らした。
最終章 最後の季節
月曜日の朝。
三人はいつものように港の掲示板の前に集まった。依頼ボックスの蓋を開ける。ハヤテの仕事だ。毎朝の日課。
空っぽ——ではなかった。
封筒が一通、入っていた。
白い封筒。表に何も書いていない。あの封筒と同じだ。
ハヤテが取り出した。三人で覗き込んだ。
封を開ける。中から便箋が一枚。薄い水色の便箋。端に小さな花の模様。
文字が書いてある。カクカクした字。不器用な線。でも——前の手紙より、少しだけ丁寧だった。一文字一文字に、前よりも長い時間がかけられていた。力を込めて、でも優しく。
リヒトが声に出して読んだ。
「『願い代行屋を、手伝わせてください。四人の写真、また撮りたいです』」
ハヤテが便箋を持つ手が震えた。笑っているのか泣いているのか、自分でもわからない顔をしていた。
「——いいのかな。依頼者がスタッフになるの」
リヒトに聞いた。リヒトはノートを開いた。少し考えて、ペンを走らせた。
「前例がない。でも、禁止するルールもない」
「それ、いいってことだろ」
「……まあ、いいってことだな」
ザンタが笑った。
「じゃあ四人だね」
ハヤテが走り出した。坂道に向かって。丘の上に向かって。
「おい、どこ行くんだよ!」リヒトが叫んだ。
「迎えに行く!」
ハヤテの声が港に響いた。リヒトがため息をついた。でも口元は笑っていた。ザンタはもう走り出していた。ハヤテより先に。
リヒトは一人、掲示板の前に残った。
依頼ボックスの横にある看板を見た。段ボールに油性ペンで書いた看板。
『なんでもやります 願い代行屋』
リヒトはポケットからペンを取り出した。でも書かなかった。これはナギが書くべきだと思った。
ペンをしまって、二人の後を追いかけた。走って。リヒトが走るのは珍しかった。
◇◇◇
翌週。
港の掲示板に、看板がある。段ボールの、不格好な看板。ガムテープで補強されている。
『なんでもやります 願い代行屋』
その下に、一行追加されていた。カクカクした、不器用な字。でも丁寧な字。一文字一文字に時間をかけた字。
『四人になりました』
看板の前に、車椅子の轍が残っていた。そしてナギの膝の上には、あの写真があった。ピンク髪の自分と、日焼けした小学生三人。キラキラのシール。手描きの星。手放さなかった一枚を、今日も胸に抱えて。
「あるもの」は、近すぎて見えない。
あなたのそばにも、形の違う「あるもの」がありますように。




