第1話 追跡
バンコク。午後三時。
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通信が入った。
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『誘拐事件発生。スクンビット通り。被害者は日本人女性、二十代。犯人は黒いバン。現在、ラマ四世通りを東へ逃走中』
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瀧本勝幸は、バイクのエンジンをかけた。
BMW R1250 GS Adventure。
白い車体。Arai製のヘルメット。白バイ隊用のロングブーツ。
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「瀧本、出る」
無線で報告した。
『了解。応援を向かわせる』
「応援は要らない。俺一人で十分だ」
『瀧本......』
「冗談だ。半分くらい」
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アクセルを開けた。
白いバイクが、バンコクの街を疾走した。
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ラマ四世通り。
渋滞を縫って走る。
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前方に、黒いバンが見えた。
トヨタ・ハイエース。ナンバーは泥で隠されている。
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「見つけた」
瀧本は加速した。
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バンとの距離が縮まる。
五十メートル。
四十メートル。
三十メートル。
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バンの後部ドアが開いた。
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男が一人、AKを構えていた。
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「マジかよ」
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銃声。
弾丸が飛んできた。
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普通なら、減速する。
普通なら、距離を取る。
普通なら、応援を待つ。
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瀧本は、普通じゃなかった。
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サイレンを鳴らした。
赤色灯が回転した。
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そして、加速した。
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「死ぬ気はねえんだよ!」
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フロントを持ち上げた。
ウィリー。
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バイクの前輪が宙に浮いた。
車体が斜めになった。
エンジン部分が、盾になった。
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弾丸がエンジンカバーに当たった。
火花が散った。
だが、貫通しなかった。
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「BMWは頑丈だ!」
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ウィリーしたまま、加速を続けた。
バンとの距離が一気に縮まる。
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二十メートル。
十メートル。
五メートル。
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男がAKを乱射した。
弾丸が周囲を飛び交った。
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瀧本は減速しなかった。
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三メートル。
二メートル。
一メートル。
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「突っ込むぞ!」
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バイクが、バンの後部に激突した。
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瀧本は、衝突の瞬間に飛び降りた。
バイクはそのままバンの中に突っ込んだ。
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AKを持っていた男が、バイクに轢かれた。
「ぐああああ!」
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瀧本は地面を転がった。
アスファルトで肩を擦った。
膝を打った。
肘から血が出た。
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だが、立ち上がった。
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「痛え......」
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M93Rを抜いた。
バンに向かって走った。
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バンは、バイクが突っ込んだ衝撃で制御を失っていた。
蛇行して、歩道に乗り上げた。
電柱にぶつかって、止まった。
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瀧本がバンに追いついた。
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運転席のドアを開けた。
運転手が拳銃を向けてきた。
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瀧本は運転手の腕を掴んだ。
捻った。
拳銃を落とさせた。
そのまま、運転席から引きずり出した。
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「大人しくしろ」
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運転手を地面に押さえつけた。
手錠をかけた。
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後部座席を確認した。
バイクに轢かれた男は、気絶していた。
もう一人、男がいた。ナイフを持っている。
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そして、縛られた女性がいた。
口にテープを貼られている。
目に涙を浮かべている。
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「大丈夫だ。助けに来た」
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ナイフの男が、女性を盾にしようとした。
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瀧本はM93Rを構えた。
三点バースト。
男の右肩に命中。
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「ぐあっ!」
男がナイフを落とした。
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瀧本はバンに乗り込んだ。
男を殴り倒した。
女性の拘束を解いた。
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「もう大丈夫だ。終わったよ」
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女性は泣き崩れた。
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『瀧本、状況を報告しろ』
無線が入った。
「犯人三人、確保。被害者、無事。俺は......まあ、生きてる」
『生きてる?』
「ちょっと擦りむいた。あと、バイクが壊れた」
『また壊したのか』
「壊れたんだ。壊したんじゃない」
『同じだ』
「違う」
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三十分後。
現場に応援が到着した。
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ジョンソンが瀧本を見た。
「お前、血だらけじゃないか」
「かすり傷だ」
「かすり傷で、そんなに血は出ない」
「出るんだよ。俺の体質だ」
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マルティネスが壊れたバイクを見た。
「これ、修理できるのか?」
「陳志明に任せる」
「陳志明でも無理だろ、これは」
「無理じゃない。BMWは頑丈だ」
「頑丈でも、バンに突っ込んだら壊れる」
「壊れたけど、俺は生きてる。バイクより俺の方が大事だろ」
「......まあ、そうだな」
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拠点。
医療室。
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瀧本は、ベッドに座っていた。
アレクセイが傷の手当てをしていた。
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「肩の擦過傷。膝の打撲。肘の切り傷。肋骨に軽いひび」
「ひび?」
「ひびだ。骨折ではない」
「なら大丈夫だ」
「大丈夫ではない。二週間は安静にしろ」
「二週間? 無理だ」
「無理ではない。命令だ」
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瀧本は舌打ちした。
「医者は厳しいな」
「厳しくないと、お前が死ぬからだ」
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医療室のドアが開いた。
キム・スヨンが入ってきた。
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「瀧本!」
「何だ」
「また怪我したの!?」
「したよ。見れば分かるだろ」
「見れば分かるから言ってるの!」
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スヨンは瀧本の前に立った。
腕を組んで、睨みつけた。
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「あなた、今月何回目?」
「数えてない」
「私は数えてる。五回目よ」
「五回か。まあ、そんなもんだろ」
「そんなもんじゃない!」
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瀧本は眉をひそめた。
「何でお前がキレてるんだ」
「キレてるんじゃない! 心配してるの!」
「心配? 文句言ってるようにしか聞こえないけど」
「文句じゃない!」
「文句だろ。『また怪我した』『今月何回目』。完全に文句だ」
「それは......!」
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スヨンの顔が赤くなった。
怒りか、恥ずかしさか、分からなかった。
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「あなたが無茶ばかりするから!」
「無茶じゃない。計算だ」
「計算で肋骨にひびが入るの!?」
「入ることもある」
「入っちゃダメでしょ!」
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アレクセイが溜息をついた。
「二人とも、静かにしろ。ここは医療室だ」
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瀧本とスヨンは、同時に黙った。
そして、同時に睨み合った。
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「......高飛車女」
瀧本が呟いた。
「......無謀男」
スヨンが呟いた。
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アレクセイは頭を抱えた。
「毎回これだ......」
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夜。
食堂。
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瀧本は、包帯だらけの体で酒を飲んでいた。
メンソールの煙草をくわえている。
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「また怪我したのか」
ヨナタンが隣に座った。
「した。見れば分かるだろ」
「見れば分かるから聞いている」
「それ、スヨンと同じこと言ってるぞ」
「同じか」
「同じだ」
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ヨナタンは少し笑った。
珍しいことだった。
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「お前、面白いな」
「面白いか?」
「面白い。お前といると、退屈しない」
「そりゃどうも」
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瀧本はメンソールの煙を吐いた。
「お前、笑うこともあるんだな」
「笑わないと思っていたのか」
「思ってた。無表情だから」
「無表情は、仕事だ。モサドでは、感情を見せるなと教わった」
「大変だな」
「大変だった。だが、ここでは少し楽だ」
「楽?」
「ああ。お前みたいな馬鹿がいると、肩の力が抜ける」
「褒めてるのか貶してるのか分からないな」
「褒めている」
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瀧本は笑った。
「ありがとよ」
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マルティネスとカルロスが合流した。
テキーラのボトルを持っている。
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「瀧本、今日の追跡、見たぞ」
「見てたのか」
「ドローンで見てた。バイクでバンに突っ込むなんて、正気じゃない」
「正気だよ。計算通りだ」
「計算で突っ込むのか」
「計算で突っ込む」
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カルロスが言った。
「お前、柏木と真逆だな」
「真逆?」
「柏木は、一発も食らわない。お前は、毎回ボロボロになる」
「スタイルの違いだ」
「スタイルか」
「柏木はエレガント。俺は泥臭い」
「泥臭いどころじゃない。血だらけだ」
「血だらけでも、生きてりゃいいんだよ」
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ヨナタンが頷いた。
「それは、正しい」
「だろ?」
「生きていれば、勝ちだ」
「その通り」
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四人はグラスを合わせた。
「生存者に乾杯」
「乾杯」
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しばらくして、スヨンが食堂に入ってきた。
瀧本を見つけた。
近づいてきた。
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「瀧本」
「何だ、高飛車女」
「その呼び方やめて」
「やめない」
「......」
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スヨンは、瀧本の前に何かを置いた。
小さな袋だった。
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「何だ、これ」
「痛み止め。アレクセイからもらってきた」
「......」
「肋骨、痛いでしょ」
「......まあ、少し」
「少しじゃないでしょ。顔に出てる」
「出てないだろ」
「出てる。私には分かる」
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瀧本は、スヨンを見た。
スヨンは、目を逸らした。
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「......ありがとう」
「別に。仕事だから」
「仕事で痛み止めを届けるのか」
「届けるわよ。通信担当だもの」
「通信担当は痛み止めを届けない」
「うるさい」
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スヨンは、足早に食堂を出ていった。
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瀧本は、痛み止めの袋を見つめた。
「......変な女」
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ヨナタンが、また笑った。
「お前、鈍いな」
「鈍い? 何が」
「分からないなら、鈍いということだ」
「意味が分からない」
「分からなくていい」
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マルティネスとカルロスも笑っていた。
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「何だよ、お前ら」
「何でもない」
「何でもないなら笑うな」
「笑いたいから笑う」
「意味が分からない」
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瀧本は、メンソールの煙草に火をつけた。
「お前ら、俺をからかってるだろ」
「からかっていない」
「嘘だ」
「嘘ではない」
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四人は、また笑った。
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窓の外。
夜のバンコクが広がっていた。
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瀧本は、煙を吐いた。
「まあ、いいか」
「何が」
「何でも。生きてるから、何でもいい」
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ヨナタンは頷いた。
「それでいい」
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医療室の常連。
泥臭いスタイル。
毎回、ボロボロになる。
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だが、瀧本勝幸は、生きている。
死ぬ気はない。
生きる気満々だ。
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それが、彼のやり方だった。




