第8話 流浪
三日目の夜、スッティンが帳簿を開いた。
机の上にノートパソコンと、古い紙の帳簿が並んでいた。デジタルと手書きの両方を使っていた。どちらかが失われた時のためだ。
「見てほしい」
スッティンは柏木を呼んだ。アレクセイも来た。
三人で帳簿を見た。
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月の支出が先にあった。
シェルターの維持費。水道、電気、食料。被害者が十人いれば、それだけかかる。医薬品の補充。アレクセイが必要と判断したものをリストアップして、スッティンが買う。移送のための燃料費。ペットのトラックのガソリン代と整備費。スタッフへの最低限の生活費。
「スタッフへの給与は」
柏木が聞いた。
「給与とは呼んでいません。生活費です」
「いくらだ」
「ノックが月八千バーツ。ペットが月一万バーツ。アレクセイが月六千バーツ」
「俺は」
「あなたには申し訳ないが、今は月五千バーツしか出せません」
日本円で約二万円。柏木は計算した。家賃三万の六畳アパートより低い。
「構わない」
「生活できますか」
「シェルターに泊まれるか」
「泊まれます。食事も出ます」
「なら十分だ」
アレクセイが横から言った。
「俺も最初はそれより低かった。慣れる」
「慣れているのか」
「貧乏には慣れている。戦場より快適だ」
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月の収入は支出より常に少なかった。
「毎月どう回しているんだ」
柏木が聞いた。
「三つから来ています」
スッティンは指を折った。
「一つ目。プラチャーとチャイロンからの個人献金です。二人合わせて月に二万バーツ前後。給与から出してくれています。記録には残しません。二人の立場上、公式な寄付はできない」
「二人の給与から出しているのか」
「はい。プラチャーは家族がいます。それでも出してくれている」
柏木は何も言わなかった。
プラチャーの「知らないことにする」という言葉を思い出した。知らないことにしながら、金を出している。しがらみの中でできる最大限が、それだった。
「二つ目。バンコクの支援者ネットワークです。在タイの欧米人が中心です。タイで長く活動している人権系のNGOと繋がっています。不定期ですが、まとまった額が入ることがある」
「不定期というのは」
「来る時と来ない時がある。予算として計算できない。来たら助かる、という程度です」
「あてにできないということだ」
「できません」
「三つ目は」
「救出した被害者の家族からです。金を返してくれる人もいる。物資を送ってくれる人もいる。ラオスの家族が米を送ってくれたことがあります」
アレクセイが言った。
「あの米は美味かった」
「食料費が一ヶ月浮きました」
柏木は帳簿の数字を見た。
毎月、支出が収入を上回っている月が三ヶ月に一度はある。その月はスッティン自身が補填している。スッティンの個人口座から出している記録があった。
「お前の貯金から出しているのか」
「日本にいた時の貯金が少し残っています」
「いつまで持つ」
スッティンは少し間を置いた。
「あと一年か、一年半か」
「それが尽きたら」
「その時に考えます」
柏木はスッティンを見た。
一年先しか見えていない。だが動いている。止まれないから動いている。資金が尽きる日のことは、今考えても仕方がないと思っている。
柏木には分かった。自分も同じだったからだ。消費者金融の残債が増えていく計算をしながら、振り込み続けた三年間。終わりを考えたら止まれなくなる。だから考えなかった。
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翌朝、情報の話になった。
プラチャーが来ていた。私服だった。食堂のテーブルで、コーヒーを飲みながら話した。
「情報のラインについて、柏木さんに説明した方がいい」
プラチャーがスッティンに言った。スッティンが訳した。
「俺から説明します」
プラチャーは柏木に向き直った。英語だった。
「二つのラインがある。一つは俺のライン。警察と軍のネットワークだ。チャイロンも同じラインに繋がっている。このラインでは、組織の動きを掴む。犯罪組織が動いた時、どのルートを使うか。いつ移送が行われるか。そういう情報だ」
「どこから来るんだ」
「末端の警官だ。汚職に加担していない、あるいは加担しているが良心が残っている人間がいる。全員じゃない。だが何人かいる」
「信頼できるか」
「百パーセントは信頼できない。情報が遅れることがある。嘘が混じることもある。だが他にない」
「もう一つのラインは」
プラチャーはスッティンを見た。
「スッティンのラインだ。俺には入らない情報がある」
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スッティンが引き取った。
「被害者のコミュニティです。救出した人たちは、それぞれの場所に戻ります。農村に戻る人もいる。別の都市に移る人もいる。その人たちが、情報を送ってくることがある」
「どういう情報だ」
「自分の村で誰かが連れて行かれた。同じ手口だった。どの方向に向かった。どんな車だった。そういうことです」
「被害者がスパイになるのか」
「スパイとは違います。心配しているから連絡してくる。自分が通った道を、誰かに通ってほしくないから」
柏木は頷いた。
「この二つが等しく機能しているとはどういうことだ。片方だけでは足りないのか」
「プラチャーのラインは組織の動きを教えてくれる。だが被害者が今どこにいるかは分からないことが多い。コミュニティのラインは、被害者の場所を教えてくれる。だが組織がいつ動くかは分からない」
「組合せて使う」
「両方揃った時に動ける。片方だけでは動けない時がある」
柏木は少し考えた。
「情報が重なった時だけ動く、ということか」
「そうです。それが安全ラインです。片方だけの情報で動いて、罠だったことが過去にある」
「誰が罠に嵌まった」
「ポーです」
部屋が少し静かになった。
スッティンは続けた。
「あの夜は、コミュニティからの情報だけで動いた。プラチャーのラインの確認が取れていなかった。俺が急いだ。俺の判断ミスです」
プラチャーは何も言わなかった。否定もしなかった。
柏木はその沈黙を聞いた。
スッティンが自分のミスだと言っている。プラチャーはそれを知っている。だが誰も責めない。責めても戻らないから。
「今後は両方揃えてから動く。それが原則か」
「はい」
「例外は」
「例外を作りたくない。ただし現実には例外が出ることがある。その時の判断は、あなたにも関わってきます」
柏木はプラチャーを見た。
「例外の時、警察のラインから助けは来るか」
プラチャーは少し間を置いた。
「来られる時と来られない時がある。正直に言う」
「正直に言ってくれて助かる」
「来られない時は、あなたたちだけで対処しなければならない」
「分かった」
「怖くないか」
柏木は少し考えた。
「怖くないとは言えない。だが動く理由の方が大きい」
プラチャーは柏木を見た。
それから、スッティンにタイ語で何か言った。
スッティンが訳した。
「正しい人間を見つけた、と言っています」
柏木は答えなかった。
プラチャーはコーヒーを飲み干して、立ち上がった。
「また来ます。何か動きがあれば連絡する」
「頼む」
プラチャーは出ていった。
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その日の午後、アレクセイが柏木に言った。
「金の話を聞いていて、一つ思ったことがある」
「言え」
「あなたは日本で身銭を切って振り込み続けたと聞いた。消費者金融まで使ったと」
「スッティンから聞いたか」
「ナリンから聞いた。スッティンを通じて」
「よく伝わるな」
「小さいコミュニティだ」
柏木は何も言わなかった。
「ここでも同じことをするつもりか」
「月五千バーツしかもらえない。振り込む金がない」
「そういう意味じゃない」
アレクセイは柏木を見た。
「ここでも、自分より他人に使う人間か、という意味だ」
柏木は少し考えた。
「たぶんそうなる」
「止められるか」
「止めたことがない」
アレクセイは短く笑った。
「俺も似たようなものだ。前線で余った薬を、規定外の患者に使い続けた。記録に残さずに」
「それが反逆の証拠になったか」
「なった」
二人は少し黙った。
「流れ着いた者たちは」
アレクセイが言った。
「止められなくなったから流れ着くんだろうな」
柏木はその言葉を聞いた。
止められなくなった。
正しい言い方だった。止めようとして止められなかったのではない。止める気がなかった。止まる理由が見つからなかった。だから流れた。流れ着いた先が、ここだった。
「悪くない場所だ」
柏木は言った。
「ウドンターニーが?」
「ここが」
アレクセイは窓の外を見た。
シェルターの庭に、夕方の光が入っていた。ノックが洗濯物を取り込んでいた。ペットがトラックの下に潜って何かを整備していた。
「悪くない」
アレクセイも言った。
夕方のウドンターニーで、遠くからバイクの音がした。




