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The Man Who Would Not Die: 死んでたまるか  作者: Operator3118
第1章 支援機関の外へ
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第8話 流浪

三日目の夜、スッティンが帳簿を開いた。


 机の上にノートパソコンと、古い紙の帳簿が並んでいた。デジタルと手書きの両方を使っていた。どちらかが失われた時のためだ。


 「見てほしい」


 スッティンは柏木を呼んだ。アレクセイも来た。


 三人で帳簿を見た。


---


 月の支出が先にあった。


 シェルターの維持費。水道、電気、食料。被害者が十人いれば、それだけかかる。医薬品の補充。アレクセイが必要と判断したものをリストアップして、スッティンが買う。移送のための燃料費。ペットのトラックのガソリン代と整備費。スタッフへの最低限の生活費。


 「スタッフへの給与は」


 柏木が聞いた。


 「給与とは呼んでいません。生活費です」


 「いくらだ」


 「ノックが月八千バーツ。ペットが月一万バーツ。アレクセイが月六千バーツ」


 「俺は」


 「あなたには申し訳ないが、今は月五千バーツしか出せません」


 日本円で約二万円。柏木は計算した。家賃三万の六畳アパートより低い。


 「構わない」


 「生活できますか」


 「シェルターに泊まれるか」


 「泊まれます。食事も出ます」


 「なら十分だ」


 アレクセイが横から言った。


 「俺も最初はそれより低かった。慣れる」


 「慣れているのか」


 「貧乏には慣れている。戦場より快適だ」


---


 月の収入は支出より常に少なかった。


 「毎月どう回しているんだ」


 柏木が聞いた。


 「三つから来ています」


 スッティンは指を折った。


 「一つ目。プラチャーとチャイロンからの個人献金です。二人合わせて月に二万バーツ前後。給与から出してくれています。記録には残しません。二人の立場上、公式な寄付はできない」


 「二人の給与から出しているのか」


 「はい。プラチャーは家族がいます。それでも出してくれている」


 柏木は何も言わなかった。


 プラチャーの「知らないことにする」という言葉を思い出した。知らないことにしながら、金を出している。しがらみの中でできる最大限が、それだった。


 「二つ目。バンコクの支援者ネットワークです。在タイの欧米人が中心です。タイで長く活動している人権系のNGOと繋がっています。不定期ですが、まとまった額が入ることがある」


 「不定期というのは」


 「来る時と来ない時がある。予算として計算できない。来たら助かる、という程度です」


 「あてにできないということだ」


 「できません」


 「三つ目は」


 「救出した被害者の家族からです。金を返してくれる人もいる。物資を送ってくれる人もいる。ラオスの家族が米を送ってくれたことがあります」


 アレクセイが言った。


 「あの米は美味かった」


 「食料費が一ヶ月浮きました」


 柏木は帳簿の数字を見た。


 毎月、支出が収入を上回っている月が三ヶ月に一度はある。その月はスッティン自身が補填している。スッティンの個人口座から出している記録があった。


 「お前の貯金から出しているのか」


 「日本にいた時の貯金が少し残っています」


 「いつまで持つ」


 スッティンは少し間を置いた。


 「あと一年か、一年半か」


 「それが尽きたら」


 「その時に考えます」


 柏木はスッティンを見た。


 一年先しか見えていない。だが動いている。止まれないから動いている。資金が尽きる日のことは、今考えても仕方がないと思っている。


 柏木には分かった。自分も同じだったからだ。消費者金融の残債が増えていく計算をしながら、振り込み続けた三年間。終わりを考えたら止まれなくなる。だから考えなかった。


---


 翌朝、情報の話になった。


 プラチャーが来ていた。私服だった。食堂のテーブルで、コーヒーを飲みながら話した。


 「情報のラインについて、柏木さんに説明した方がいい」


 プラチャーがスッティンに言った。スッティンが訳した。


 「俺から説明します」


 プラチャーは柏木に向き直った。英語だった。


 「二つのラインがある。一つは俺のライン。警察と軍のネットワークだ。チャイロンも同じラインに繋がっている。このラインでは、組織の動きを掴む。犯罪組織が動いた時、どのルートを使うか。いつ移送が行われるか。そういう情報だ」


 「どこから来るんだ」


 「末端の警官だ。汚職に加担していない、あるいは加担しているが良心が残っている人間がいる。全員じゃない。だが何人かいる」


 「信頼できるか」


 「百パーセントは信頼できない。情報が遅れることがある。嘘が混じることもある。だが他にない」


 「もう一つのラインは」


 プラチャーはスッティンを見た。


 「スッティンのラインだ。俺には入らない情報がある」


---


 スッティンが引き取った。


 「被害者のコミュニティです。救出した人たちは、それぞれの場所に戻ります。農村に戻る人もいる。別の都市に移る人もいる。その人たちが、情報を送ってくることがある」


 「どういう情報だ」


 「自分の村で誰かが連れて行かれた。同じ手口だった。どの方向に向かった。どんな車だった。そういうことです」


 「被害者がスパイになるのか」


 「スパイとは違います。心配しているから連絡してくる。自分が通った道を、誰かに通ってほしくないから」


 柏木は頷いた。


 「この二つが等しく機能しているとはどういうことだ。片方だけでは足りないのか」


 「プラチャーのラインは組織の動きを教えてくれる。だが被害者が今どこにいるかは分からないことが多い。コミュニティのラインは、被害者の場所を教えてくれる。だが組織がいつ動くかは分からない」


 「組合せて使う」


 「両方揃った時に動ける。片方だけでは動けない時がある」


 柏木は少し考えた。


 「情報が重なった時だけ動く、ということか」


 「そうです。それが安全ラインです。片方だけの情報で動いて、罠だったことが過去にある」


 「誰が罠に嵌まった」


 「ポーです」


 部屋が少し静かになった。


 スッティンは続けた。


 「あの夜は、コミュニティからの情報だけで動いた。プラチャーのラインの確認が取れていなかった。俺が急いだ。俺の判断ミスです」


 プラチャーは何も言わなかった。否定もしなかった。


 柏木はその沈黙を聞いた。


 スッティンが自分のミスだと言っている。プラチャーはそれを知っている。だが誰も責めない。責めても戻らないから。


 「今後は両方揃えてから動く。それが原則か」


 「はい」


 「例外は」


 「例外を作りたくない。ただし現実には例外が出ることがある。その時の判断は、あなたにも関わってきます」


 柏木はプラチャーを見た。


 「例外の時、警察のラインから助けは来るか」


 プラチャーは少し間を置いた。


 「来られる時と来られない時がある。正直に言う」


 「正直に言ってくれて助かる」


 「来られない時は、あなたたちだけで対処しなければならない」


 「分かった」


 「怖くないか」


 柏木は少し考えた。


 「怖くないとは言えない。だが動く理由の方が大きい」


 プラチャーは柏木を見た。


 それから、スッティンにタイ語で何か言った。


 スッティンが訳した。


 「正しい人間を見つけた、と言っています」


 柏木は答えなかった。


 プラチャーはコーヒーを飲み干して、立ち上がった。


 「また来ます。何か動きがあれば連絡する」


 「頼む」


 プラチャーは出ていった。


---


 その日の午後、アレクセイが柏木に言った。


 「金の話を聞いていて、一つ思ったことがある」


 「言え」


 「あなたは日本で身銭を切って振り込み続けたと聞いた。消費者金融まで使ったと」


 「スッティンから聞いたか」


 「ナリンから聞いた。スッティンを通じて」


 「よく伝わるな」


 「小さいコミュニティだ」


 柏木は何も言わなかった。


 「ここでも同じことをするつもりか」


 「月五千バーツしかもらえない。振り込む金がない」


 「そういう意味じゃない」


 アレクセイは柏木を見た。


 「ここでも、自分より他人に使う人間か、という意味だ」


 柏木は少し考えた。


 「たぶんそうなる」


 「止められるか」


 「止めたことがない」


 アレクセイは短く笑った。


 「俺も似たようなものだ。前線で余った薬を、規定外の患者に使い続けた。記録に残さずに」


 「それが反逆の証拠になったか」


 「なった」


 二人は少し黙った。


 「流れ着いた者たちは」


 アレクセイが言った。


 「止められなくなったから流れ着くんだろうな」


 柏木はその言葉を聞いた。


 止められなくなった。


 正しい言い方だった。止めようとして止められなかったのではない。止める気がなかった。止まる理由が見つからなかった。だから流れた。流れ着いた先が、ここだった。


 「悪くない場所だ」


 柏木は言った。


 「ウドンターニーが?」


 「ここが」


 アレクセイは窓の外を見た。


 シェルターの庭に、夕方の光が入っていた。ノックが洗濯物を取り込んでいた。ペットがトラックの下に潜って何かを整備していた。


 「悪くない」


 アレクセイも言った。


 夕方のウドンターニーで、遠くからバイクの音がした。


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