幕間 休暇
バンコク。王室犯罪対策局本部。
局長室。
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局長の怒声が、廊下まで響いていた。
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「お前ら、いい加減にしろ!」
局長——元ウィチャイ大佐——は、机を叩いた。
書類の山が崩れた。
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柏木が立っていた。
困惑した顔で。
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「何か、問題がありましたか」
「問題? 問題だと?」
局長は書類の山を指差した。
「これを見ろ! この山を!」
「書類ですね」
「書類だ! お前たちが作った書類だ!」
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局長は立ち上がった。
「聖域を制圧した。良い。首謀者を逮捕した。良い。プラソンを確保した。良い」
「はい」
「だが!」
局長の声が大きくなった。
「捜査がとんでもなく拡大している!」
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局長は別の書類の山を指差した。
「ウィワットの帳簿から、三百人以上の名前が出てきた」
「はい」
「プラソンの通信記録から、さらに二百人」
「はい」
「詐欺コンパウンドの資料から、百五十人」
「はい」
「合計、六百五十人以上の捜査対象者だ!」
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「それは......成果では」
「成果だ! 成果だが、後始末が追いつかない!」
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局長は頭を抱えた。
「事務員は何人いると思っている」
「......分かりません」
「十二人だ。十二人で、六百五十人分の書類を処理している」
「......」
「一人あたり五十人以上だぞ。死ぬ」
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「ナターシャとラッタナーを貸しましょうか」
「貸してもらっている! それでも足りない!」
「......」
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局長は深呼吸した。
「いいか、柏木。聞け」
「はい」
「お前たちは優秀だ。戦闘では、世界最高峰だ」
「ありがとうございます」
「だが、お前たちが動くたびに、後ろで何が起きているか分かるか」
「......書類が増える?」
「書類が増える! 山のように! 富士山のように!」
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局長は書類の山を見た。
「逮捕調書。証拠品目録。押収物リスト。取調べ記録。裁判資料。外交文書。報告書。稟議書。経費精算......」
「......」
「一件の作戦で、書類が千枚以上だ」
「千枚」
「聖域だけで、三千枚を超えた」
「三千枚」
「プラソンの件で、さらに千枚」
「四千枚」
「詐欺コンパウンドで、さらに二千枚」
「六千枚」
「合計、六千枚以上の書類が、この一ヶ月で発生した」
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「事務員は、もう限界だ」
局長の声が、少し静かになった。
「三人が体調を崩した。二人が泣きながら仕事をしている。残りの七人も、目が死んでいる」
「......申し訳ありません」
「謝るな。お前たちは悪くない。だが、このままでは......」
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局長は椅子に座った。
「このままでは、対策局が崩壊する」
「崩壊」
「そうだ。書類が処理できなければ、裁判ができない。裁判ができなければ、逮捕した意味がない。全てが無駄になる」
「......」
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「だから」
局長は柏木を見た。
「休暇だ」
「休暇?」
「一ヶ月間の強制休暇だ」
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「一ヶ月?」
「一ヶ月だ。全員だ。例外は認めない」
「しかし、訓練が」
「訓練もするな」
「事務作業なら」
「事務もするな」
「偵察くらいは」
「するな」
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局長は立ち上がった。
「いいか、よく聞け」
「はい」
「書類を一枚でも増やしたら」
局長の目が光った。
「俺が突撃してやる」
「......」
「お前たちの家に、俺が単身で突入する。武装して。そして、お前たちを逮捕する」
「逮捕?」
「休暇命令違反だ。反逆罪だ」
「反逆罪は重すぎませんか」
「重くない。俺が決める」
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「一ヶ月間」
局長は言った。
「何もするな。どこかに行け。遊べ。寝ろ。飯を食え。酒を飲め。女と遊べ。何でもいい」
「......」
「ただし、仕事はするな。絶対に」
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柏木は黙っていた。
「......分かりました」
「分かったな」
「はい」
「全員に伝えろ」
「伝えます」
「一ヶ月後に、また会おう。それまで、顔を見せるな」
「はい」
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拠点に戻った。
全員を集めた。
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「局長から命令が出た」
柏木が言った。
「何ですか」
「一ヶ月間の強制休暇だ」
沈黙。
「......休暇?」
「休暇だ」
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「なぜですか」
川島が聞いた。
「後方が限界だ。俺たちが動きすぎて、書類が処理しきれなくなっている」
「書類......」
「六千枚以上、溜まっているらしい」
「六千枚」
「事務員が死にかけている」
「......」
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「だから、一ヶ月間、何もするなと」
柏木は続けた。
「訓練もするな。事務もするな。偵察もするな。書類を一枚でも増やしたら、局長が突撃してくるそうだ」
「局長が突撃?」
「武装して、俺たちの家に突入するらしい」
「......本気ですか」
「本気だろう。目が据わっていた」
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全員が顔を見合わせた。
「一ヶ月間、何もしない......」
「そういうことだ」
「何をすればいいんですか」
「知らない。各自、好きにしろ」
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翌日から、休暇が始まった。
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だが、問題があった。
誰も、休暇の過ごし方を知らなかった。
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一日目。
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ニコライは、自宅のウォッカセラーにいた。
「暇だな」
ウォッカを飲んだ。
「......暇だ」
もう一杯飲んだ。
「やることがない」
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ジョンソンは、シアタールームにいた。
自分の映画を再生した。
「三回目だな」
見終わった。
「四回目を見るか」
再生した。
「......飽きてきた」
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マルティネスは、礼拝堂にいた。
祈りを捧げた。
「神よ」
祈り終わった。
「......暇だ」
テキーラバーに移動した。
飲んだ。
「やることがない」
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ヨナタンは、自宅の監視モニターを見ていた。
三十台のカメラ映像。
「誰も来ない」
当然だ。休暇中だ。
「暇だ」
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川島は、サーバールームにいた。
サーバーのログを見ていた。
「これは仕事じゃないよな......」
見るのをやめた。
和室に移動した。
畳の上で横になった。
「......暇だ」
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アレクセイは、診療室にいた。
医療器具を磨いていた。
「これは仕事ではない。整備だ」
磨き終わった。
「......患者がいない」
当然だ。誰も怪我していない。
「暇だ」
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マリーは、狙撃練習場にいた。
ライフルを構えた。
「......これは訓練になるか」
構えるのをやめた。
「なる」
銃を置いた。
「局長が来る」
撃つのをやめた。
「......暇だ」
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イーゴリは、フライトシミュレーターの前にいた。
電源を入れようとした。
「......これは訓練か」
手を止めた。
「訓練だな」
電源を入れるのをやめた。
「暇だ」
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ダニエルとエイブラハムは、ガレージにいた。
車を眺めていた。
「整備するか」
「整備は仕事じゃないだろう」
「趣味だ」
「じゃあいいか」
整備を始めた。
三時間後、整備が終わった。
「......終わった」
「終わったな」
「次は」
「ない」
「暇だな」
「暇だ」
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ナターシャは、アレクセイの家を訪ねた。
「暇なので来ました」
「俺も暇だ」
二人でワインを飲んだ。
「......いいですね、これ」
「いいな」
「休暇も悪くないかもしれません」
「かもしれない」
これは、休暇の正しい使い方だった。
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ファリダーは、川島の家を訪ねた。
「あの......暇だったので」
「俺も暇だ」
二人で和室に座った。
お茶を飲んだ。
「落ち着きますね」
「落ち着くな」
「......」
「......」
沈黙が続いた。
だが、悪い沈黙ではなかった。
これも、休暇の正しい使い方だった。
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プラウィットとラッタナーは、一緒に買い物に出かけた。
「家具を買いましょう」
「買おう」
二人で家具屋を回った。
「これ、いいですね」
「いいな」
楽しそうだった。
これは、休暇の最も正しい使い方だった。
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サラは、柏木の家を訪ねた。
「暇?」
「暇だ」
「じゃあ、一緒に過ごしましょう」
「......何をするんだ」
「何もしない。一緒にいるだけ」
「......」
「駄目?」
「......いや、いい」
二人でリビングにいた。
柏木は煙草を吸った。
サラは本を読んだ。
何も話さなかった。
だが、悪くなかった。
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しばらくして、玄関のチャイムが鳴った。
「誰だ」
ドアを開けた。
マリーが立っていた。
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「......何の用だ」
「暇だ」
「暇だから来たのか」
「そうだ」
「......」
マリーは中に入ってきた。
サラがいることに気づいた。
「......」
サラもマリーに気づいた。
「......」
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空気が凍った。
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「私、先に来ていたの」
サラが言った。
「知っている」
マリーが答えた。
「なら、後から来るのは遠慮すべきじゃない?」
「遠慮する理由がない」
「あるわよ」
「ない」
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柏木は困惑していた。
「あの......」
「黙って」
二人が同時に言った。
「はい」
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「私は、柏木と過ごす権利がある」
サラが言った。
「私にもある」
マリーが言った。
「私の方が先に知り合った」
「関係ない。先も後もない」
「あるわよ」
「ない」
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結局、三人でリビングにいることになった。
柏木は真ん中。
左にサラ。右にマリー。
「......」
「......」
「......」
誰も話さなかった。
柏木は煙草を吸った。
サラは本を読んだ。
マリーはライフルの手入れをしていた。
なぜライフルを持ってきたのかは、誰も聞かなかった。
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一週間後。
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全員が限界だった。
「暇すぎる」
ニコライが言った。
「やることがない」
ジョンソンが言った。
「訓練がしたい」
マリーが言った。
「何か撃ちたい」
マルティネスが言った。
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「だが、局長が......」
川島が言った。
「局長が突撃してくる」
「それは困る」
「困る」
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柏木は考えた。
「......旅行に行くか」
「旅行?」
「どこかに行けば、暇じゃなくなる」
「どこに」
「......知らない」
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「プーケットはどうですか」
ファリダーが言った。
「プーケット?」
「ビーチリゾートです。綺麗な海があります」
「海か......」
「いいんじゃないか」
ニコライが言った。
「俺、海で泳いだことがない」
「ロシアに海はないのか」
「ある。だが、凍っている」
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「決まりだ。プーケットに行く」
柏木が言った。
「全員か」
「全員だ。休暇なんだから、みんなで行こう」
「了解」
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プーケット。
タイ南部のリゾート地。
エメラルドグリーンの海。白い砂浜。
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十六人が、ビーチにいた。
白い突撃隊の戦士たちが、水着でビーチにいた。
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「......平和だな」
柏木が呟いた。
「平和だ」
ニコライが答えた。
「こういうのも、悪くない」
「悪くない」
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ジョンソンは、ビーチバレーをしていた。
マルティネスと組んで、川島・カルロス組と対戦していた。
「俺のスパイクを見ろ!」
「でかすぎて反則だろ!」
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ヨナタンは、日陰で本を読んでいた。
タイトルは「暗殺術の歴史」。
「......休暇中に読む本じゃないな」
誰かが突っ込んだ。
「休暇だから読める」
ヨナタンは答えた。
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アレクセイとナターシャは、パラソルの下にいた。
二人でカクテルを飲んでいた。
「いいですね、これ」
「いいな」
幸せそうだった。
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川島とファリダーは、一緒に泳いでいた。
「ファリダーさん、泳ぐの上手いですね」
「小さい頃から泳いでいましたから」
「僕、あまり泳げないんです」
「教えましょうか?」
「お願いします」
ファリダーが川島の手を取った。
川島の顔が赤くなった。
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プラウィットとラッタナーは、砂浜を散歩していた。
手を繋いでいた。
「結婚式、いつにしましょうか」
「休暇が終わったら、考えましょう」
「そうですね」
幸せそうだった。
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ニコライは、海に入っていた。
「冷たくない」
「当然だ。タイだからな」
「ロシアの海は凍っている」
「知ってる。三回目だ」
「三回言う価値がある」
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マリーは、ビーチで日光浴をしていた。
サングラスをかけて、動かない。
「......」
だが、その視線は、柏木を追っていた。
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サラも、ビーチで日光浴をしていた。
同じく、視線は柏木を追っていた。
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柏木は、海を眺めていた。
煙草を吸おうとした。
「ビーチで煙草は駄目よ」
サラが言った。
「......そうか」
煙草を仕舞った。
「海でも見てなさい」
「見ている」
「綺麗でしょう」
「綺麗だな」
「......」
「......」
「たまには、こういうのもいいわね」
「ああ。悪くない」
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一ヶ月の休暇は、こうして過ぎていった。
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一ヶ月後。
局長室。
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「戻ったか」
局長が言った。
「戻りました」
柏木が答えた。
「休めたか」
「休めました」
「書類は増えていないな」
「増えていません」
「よし」
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局長は少し笑った。
「事務員も、何とか回復した。六千枚の書類も、処理が終わった」
「お疲れ様でした」
「お前らのせいだがな」
「申し訳ありません」
「まあいい。これからは、もう少しペースを考えろ」
「はい」
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「それで」
局長は立ち上がった。
「次の任務だ」
「はい」
「準備はいいか」
「いつでも」
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休暇は終わった。
戦いが、また始まる。




